透き間ない蜜にねむりの発砲を

円菜七凪実

第1章 あまり話たくないことって人それぞれきっとあるでしょう?

第1話 氷のような一途な恋人



 不揃いな音波が無数に存在している。

 うつくしいものも、不衛生なものもごちゃ混ぜになってひとつの世界をつくる。


 狐鼠狐鼠こそこそと隣人の耳元へ囁く者もいれば、堂々と大口を開けて曝け出す者もいた——秘密は秘密じゃないから価値があるのだ、と訴えるように。

 多くの人が現在いまの話題に花を咲かせ、手元の画面から意識を離さない。そんな中、とある男はひとり視線を上げながら耳を澄ませていた。


「昨日木曜日の朝方に起きました、マンション五階のバルコニーから過って転落し、意識不明となっていた二十歳の大学生について新たな情報が入ってきました。大学生は昨晩奇跡的に意識が回復したとのことです」

「わあよかったですね。心配だったのでほっとしました」

「え、混凝土コンクリートに強打していながら軽傷って……なんて言ったら失礼ですな。でも奇跡ですよこれは。その学生さんはもしかしたら一生分の運を使い果たしてしまったかもしれんです。いやあ奇跡の人ですな」と少し癖のある口調のコメンテーターが、自身のちりちりとした顎髭あごひげを物珍しそうに撫でる。


 朝陽が白く照らす中、その眼映まばゆく光る四角を男は凝然じっと見ていた。高層ビルに貼り付くその映像は極めて明るい。男が居る駅前には、彼方此方あちこちから湧水が溢れるみたいに人々が往来していた。

 数秒後、映像が別のものへ切り替わった途端。男は興味が失せたみたいに人の群れへと視線を戻す。そして混み合う改札へと意識を向けるのだった。


「あの、今お話いいですか?」


 躊躇ためらいの中に期待をかくした声だった。突然真横から出現あらわれた女にちらと視線を投げる。その眼に温度はない。動悸ときめきも不快も死んでいる。然し女は頬を撫子色なでしこいろに染め、わかりやすい眼煌まなざしを男へ寄せていた。


「邪魔だ。寄るな」


 春らしくない、真冬のような声が這う。冷え冷えする男の声音に女の肩がぶるっと震えた。ふわりと緩巻カールする黒髪も、艶やかな赤い唇も、何一つとして男の心胸こころを揺るがすものは存在しない。


「わ、私電車であなたを見掛けて一目惚れしたんです……もし良かったら、連絡先を教えてくれませんか?」


 然し女にとっては、一世一代いっせいちだい機会チャンスだった。気持ちを奮い立たせ潤んだひとみで詰め寄る女に対し、男は顔色一つ変化しない。それでも女は無愛想な男の容貌に恍惚うっとりとしたかおばせを浮かべていた。


「俺のことはよく見掛けるのか」

「はい! この駅や電車内で何度も見ています」

「だったら、俺に恋人がいることももちろん知っているな?」


 二色の美しい双眸が女を貫く。それは問い掛けというよりも、見えない圧を与える魔物であった。女の鼓動が跳ねる。返す言葉を失いながらごくと唾を呑んだ。被された真っ赤な色を壊すように、じりと下唇を噛み締める。


「お友達かなと思って……」

「俺の彼女だ。解ったならさっさと失せろ」


 冷え冷えと光るオッドアイを眼にした刹那。女は透明な膜を眸に浮かべ、駆け足でその場から走って行く。然し男はそのなみだ一瞥いちべつもくれること無く、絶えない人だかりの波へと静かに意識を戻すのだった。


明希人あきと君、遅れちゃって本当にごめんね」と、それから一分も経たない内に、同齢くらいの女が改札から走って来る。

「いや。夢叶ゆめを待っている時間は好きだから問題ない」と男はさらりと答えた。す、と夢叶が言葉を詰まらせる。


 もう一度ごめんねと言い、ありがとうを伝えると、彼は大丈夫だと声を和らげながら言った。事前に連絡があったため待ち合わせ時刻に遅れることを明希人は知っていた。「ゆっくりで構わない」と伝えていたにもかかわらず、彼女は背中まである金色の髪を揺らしながら全力で走ってきたのだ。軽く吐息をこぼした男が、彼女の首筋に貼り付く金糸きんしをそっとすくう。


「夢叶、身体は大丈夫か?」

「身体? 何時も通り元気だよ」

「ならいい。くまができているから訊いただけだ」


 彼の気遣いに鼓動が反応する。然しすぐに灰色のもやが胸を掠めた——罪悪の味がする。彼女はそれをかくすように口角を持ち上げた。髪と同じ色をした眸が彼に煌めく。


「明希人君の眼は今日もとってもきれいだね」

「夢叶は何時もめてくれるな」


 深緑色をした右眼と、藍色の左眼が彼女を映す。澄んだうつくしい色に春の陽射しが溶けた。


「何時見ても凛としてきれいだから。初めて会った日から変わらずにそう想ってるよ」


 純粋な眼差しを受けた明希人の顔に、柔和な色が浮かぶ。そんな彼の表情は、先刻さっき黒髪の女に向けていたそれとは百八十度も異なっていた。

 鼓膜に響いたやさしい温もりに、一点の黒が浮かぶ。それはじわりと明希人の腹部まで広がった。だがそんな内心とは裏腹に、彼女へ浮かべるおもては完璧な笑顔である。


「ねえ見て。アキユメカップル今日も最高にキュンなんだけど」

「明希人君の笑顔ってレアだよね」

「ほんと美男美女で憧れちゃう」


 駅から大学へと続く道中にて、狐鼠狐鼠こそこそと交わされる声が愉しそうに躍る。大学内で最も有名な美男美女の二人は、今日もみんなの注目を集めていた。


「あの二人って何時から付き合ってるの?」

「大学一年の春だから、もう一年くらいかな」

「このまま結婚したりして。私も二人の結婚式にお呼ばれされたい」


 然し、世間は平穏一色とはいかないもので——。


月雪夢叶つきゆきゆめは確かに美女だけど性格が無理」

「他の男にも色眼いろめ使ってるってはなしだしね」

「俺は神明希人じんあきとが苦手。あいつの言動、氷みたいに冷たいし」

わかる。めちゃくちゃ冷めてるよな。常に上から眼線めせんて感じが鼻につく」

「ていうかあの二人ハーフなんだろ?」

「そうそう。日本と何処だっけ……フランス、イギリス、スウェーデンとか?」


 数多行き交う声の中。聞こえているのかいないのか、当事者である二人は互いの顔を見ながら楽しそうに会話を続けている。


「来週の月曜、夢叶の好きな料理店レストランを予約したんだ。そこで食事しないか?」

「わ、嬉しい。明希人君と付き合って一年記念日だね。二年目はお料理を上達して、明希人君の好きなお稲荷いなりさんを美味しく作るのが目標だよ」

「ありがとう。でも無理はするな。俺は夢叶がそばにいてくれるだけで嬉しいから」


 二年目という当然あたりまえじゃない奇跡を自然と話せることに、夢叶の心胸こころは柔く弾んだ。


「もう、何時も私が喜ぶことばかり言ってくれるね」

「俺の本心だ」

「でもお稲荷さんは私に頑張らせて? 明希人君に喜んで欲しいから」

「しょうがないな」

「ふふっ。ありがとう」


 金色の眸がうららかに揺れる。その眼に逆らえないのは惚れているからだろうか。仕方なさそうに頷くも、その表情は何処となく柔らかい。

 明希人はふっと吐息をこぼすと、センター分けされている銀糸ぎんしの前髪を左手で後ろへ流した。その柔らかな髪は、まるでウェーブパーマがあてられたみたいにお洒落で、妖艶な色気を演出している。


 そんな何気ない彼氏の仕草を夢叶がちらと覗き見た。男の薬指には銀の指輪が光っている。当然あたりまえのように位置するそれに心胸こころが暗くなり眼を逸らす。そして何もない自分の薬指を軽くさすりながら、街中へ視線をっては睫毛を下ろした。暗いもやを瞼の裏へ秘す。そして隣を歩く恋人に何事も無かった様子で、再び笑顔を向けるのだった。




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