化物の献身

円菜七凪実

第1章 あまり話たくないことって人それぞれきっとあるでしょう?

1  氷のような一途な恋人は奇跡を見上げる


 妖しい甘い音波がきらめく。

 みつは今日も宙をめぐっている。

 うつくしい花にかくし秘され留まっては、ほんのちいさな透き間からはねをふるわせ旅をする。


 多くの若者が行き交う東京渋谷の駅前で、今日も狐鼠狐鼠こそこそと隣人に囁く者もいれば、堂々と口を開けてあばく者もいた――優越を味わい誘惑するみたいに。種が開いた旬な話題に花を咲かせ、手元の画面に意識を注ぐ。そんな大勢の中、空から降ってきた「続報です」という言葉に、銀髪の若い男が顔を持ち上げた。


「昨日木曜日の朝方に起きました、マンション五階のバルコニーから過って転落し、意識不明の重体となっていた二十歳の男子大学生について、たった今新たな情報が入ってきました。大学生は昨晩奇跡的に意識が回復し、快方に向かい始めているとのことです」

「わあ、それはよかったですねぇ。心配だったのでほっとしました」

「え、混凝土コンクリートに強打していながら快方って……なんて言ったら失礼ですな。でも奇跡ですよこれは。その学生さんはもしかしたら一生分の運を使い果たしてしまったかもしれんです。いやあ令和の奇跡、奇跡の人ですな」と少し癖のあるコメンテーターが、ちりちりとした自分の顎髭あごひげを物珍しそうに撫でる。

「あれ、髭本ひげもとさん。確か平成のあの時もそう仰ってましたよね?」「ああ、いやあ懐かしいですな。平成の奇跡は、今や世界を舞台に活躍されてますから。令和の彼もひょっとすると、素晴らしいことを成すかもしれんです」、と今度は誇らしそうに髭の先をひょいと持ち上げて言った。


 眼映まばゆく光る四角を、銀糸から覗く二色の双眸が見上げる。高層ビルに貼り付く大型画面は極めて明るい。男の前を内股で通り過ぎた女子高校生が、「えー、ミラクル過ぎるー! この前先輩が貸してくれた漫画みたーい!」と興奮しながら隣を歩く男子高校生に話し掛ける。その数秒後、映像が別の話題へ切り替わると、銀髪の男は興味を無くしたみたいに睫毛を下げ、混み合う改札へと意識を戻すのだった。


「あの、今お話いいですか?」


 躊躇ためらいの中に期待をかくした声だった。突然真横から出現あらわれた同齡どうれいくらいの女に、男がちらと視線を投げる。その眼に温度は無い。動悸ときめきも不快も死んでいる。然し女は頬を高揚させ、わかりやすい眼煌まなざしを傾けた。


「無理だ。うせろ」


 春らしくない、真冬の声が宙を切る。冷たい拒絶に女の肩がぶるっとふるえた。ふわりと緩巻カールする黒髪も、艶やかな赤い唇も撫子色なでしこいろに染まる頬も、何一つとして男の心胸こころを揺るがすものは存在しない。


「わ、私電車で貴方あなたを見掛けて一目惚れしたんです。もし良かったら、連絡先を教えてくれませんか?」


 それでも女にとっては、千載一遇せんざいいちぐう機会チャンスだった。気持ちを奮い立たせ更に詰め寄る女に、男は顔色一つ変化しない。然し女は無愛想な男が持つ稀有な美貌に、恍惚うっとりとしたかおばせを浮かべていた。


「俺のことはよく見掛けるのか」

「はい! この駅や電車内で何度も見ています」

「だったら、俺に恋人がいることも知っているな?」


 先刻さっきよりも不穏な圧で言う。二色の双眸に貫かれた鼓動が、ひやと跳ねた。答えに窮した女が唾を呑む。塗り飾った赤を壊すように、じりと下唇を噛み締めた。


「お友達かなと思って……」

「俺の彼女だ。わかったならさっさとうせろ」


 冷え冷えと光るオッドアイを眼にした刹那。女は透明な膜を眸に浮かべ、駆け足でその場から去って行った。それでも尚微動だにしない男は、なみだ一瞥いちべつもくれること無く、絶えない人だかりの波へと意識を向けるのだった。


明希人あきと君、遅れちゃって本当にごめんね」、とそれから一分も経たない内に、別の若い女が改札から走って来る。「いや。夢叶ゆめを待っている時間は好きだから問題ない」男はさらりと答えた。ぽっと頬を赤らめた彼女が、す、と言葉を詰まらせる。

 もう一度ごめんねと言い、ありがとうと彼女が伝えると、彼は大丈夫だと声を和らげながら言った。事前に連絡があったため待ち合わせ時刻に遅れることを明希人は知っていた。「ゆっくりで構わない」と返事をするも、うつくしい金色の髪を背中に揺らしては、全力で走ってきたらしい。吐息をこぼしては、彼女の首筋に貼り付く金糸きんしを労うようにそっとすくう。


「体調は大丈夫か?」

「体調? 何時も通り元気だよ」

「ならいい。少しくまができているから訊いただけだ」


 彼の気遣いに鼓動が反応する。然しすぐに灰色のもやが胸を掠めた――罪悪の味がする。彼女はそれをかくすように口角を持ち上げた。髪と同じ色をした双眸が彼にきらめく。「明希人君の眼は今日もとってもきれいだね」「夢叶は何時もめてくれるな」


 深緑色をした右眼と、藍色の左眼が彼女を映す。澄んだうつくしい色に春の陽射しが溶けた。


「何時見ても凛としてきれいだから。初めて会った日から変わらずにそう想ってるよ」


 純粋な眼差しを受けた顔に、柔和な色が浮かぶ。つい先刻さっきまで黒髪の女に向けていた表情とは、百八十度も異なっていた。そんな穏やかな顔の奥に一点の黒が浮かぶ。墨液が流れ込むみたいに腹の底まで浸透した。然しそんな内心とは裏腹に、彼女を映すおもては完璧な笑顔である。


「ねえ見て。あきゆめカップル今日も最高にキュンなんだけど」

「明希人君の笑顔ってレアだよね」

「ほんと美男美女で憧れる……!」


 駅から大学へと続く道中にて、狐鼠狐鼠こそこそと飛び交う声が愉しそうに躍る。大学内でも美男美女と評判の二人は、今日も周囲からの注目を集めていた。


「二人って何時から付き合ってるの?」

「大学一年の春だから、もう一年くらいかな」

「このまま結婚したりして。私も二人の結婚式にお呼ばれされたい」


 然し、注がれるのは明るい気色だけでは無い。不平や不満も付き物である。


月雪夢叶つきゆきゆめは確かに美女だけど性格が無理」

「あんなに格好いい彼氏が居るのに、他の男にも色眼いろめ使ってるってはなしだしね」

「俺は神明希人じんあきとが苦手。彼奴あいつの言動、氷みたいに冷たいし」

「解る。めちゃくちゃ冷めてるよな。上から眼線な感じが鼻につく」

「まあ、何方どっちも同性受けが分かれるよな。そういやあの二人ってハーフなんだっけ?」

「そうそう。日本と何処だっけ……フランス、イギリス、スウェーデンとか?」

「いや、日本人の血薄過ぎだろ」


 数多行き交う声の中、聞こえているのかいないのか、当事者である二人は互いの顔を見合わせながら楽しそうに会話を続けている。


「来週の月曜、夢叶の好きな料理店レストランを予約したんだ。そこで食事しないか?」

「わ、嬉しい。明希人君と付き合って一年記念日だね。二年目はお料理を上達して、明希人君の好きなお稲荷いなりさんを美味しく作るのが目標だよ」

「ありがとう。でも無理はするな。俺は夢叶が傍にいてくれるだけで嬉しいから」


 二年目という当然あたりまえじゃない奇跡を自然と話せることに、夢叶の心胸こころが柔く弾む。


「もう、何時も私が喜ぶことばかり言ってくれるね」

「俺はただ本心を言ってるだけだ」

「ありがとう。でもお稲荷さんは私に頑張らせて? 明希人君に喜んで欲しいから」


 金色の眸がうららかに揺れる。その眼に逆らえないのは惚れているからだろうか。仕方なさそうに頷くも、男の表情は何処となく柔らかい。明希人は小さな吐息をこぼすと、センター分けされている銀髪の前部分を、左手で軽く流した。柔らかな髪質はウェーブパーマがあてられたみたいにお洒落で、妖艶な色気を演出している。

 何気ない仕草を、夢叶がちらと覗き見た。銀糸ぎんしに触れる薬指には銀の指輪が光っている。当然あたりまえのように煌めくそれに、心胸こころに影が射し眼を逸らす。何も無い自分の薬指を薄くさすっては、街中へ視線をるふりをして睫毛を下ろした。束の間、何事も無かった様子で再び笑顔を向けるのだった。

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