逆転への一手

「ふぅい~ごめんね、藍田くん。お待たせしちゃって……って暗っ!?」


 神林の家に入れてもらってから数分後。シャワーを浴び終えた神林が入室するなり、ギョッとした声を上げる。


「な、なんで真っ暗!? 電気点けていいのに……」


「あ、あはは……悪い。ちょっとその……電気が点けられなくて」


「点けられない? なんで? あ、もしかしてあたしの部屋だからって遠慮してる? 気にしなくていいよ。藍田くんとはあんまり話したことないけど、ばっさーの友達ってことはあたしの友達であることに違いないもん」


 大袈裟に小さな胸を張って、神林がスイッチを押す。暗闇に満ちた室内が明るくなり、赤いジャージに着替えた神林の姿が照らされる。


「あっははは、とはいえ不思議かも。藍田くんがあたしの家にいるの」


「確かにな。俺だってまさかこんなことになると思ってなかったし……っていうか……」


「? どしたの?」


「あ、いや……」


 余計なことかもしれないと言葉を濁しかけるが、神林の純粋無垢な瞳が俺を逃がしてはくれない。観念した俺はひと息吐いて、続ける。


「神林が髪をおろしてるのって新鮮だなって思ったんだ」


「へ? あー、そうかもね。いっつもポニテだもんね、あたし」


 気恥ずかしそうにはにかんで、神林が自分の髪の毛を摘まむ。


 丸い瞳と小柄な体躯、ポニーテールが主なトレードマークでもある神林は、赤羽根がいうように、小動物に似ている。本人の人懐っこい性格も相まって、学校ではマスコットのように扱われている節がある神林だが、髪を解いた姿にはいつものマスコット感はない。


 しっとりと湿った髪は、腰元まで届くほどに長くしなやかに伸び、部屋の照明を受けて輝かしい艶を帯びている。更に、熱い湯を浴びたせいか、赤く上気した頬と濡れた瞳が若干の色香を漂わせる。


 普段の子供っぽい雰囲気とのギャップもあって、一層大人っぽく見えた。


「やっぱ変だよねー。こんなちっこいのに、ロングとか。日本人形かって話だよ」


「いや、別に変ではないと思うけど。似合ってるし、意外性もあるし」


「ま、マジで? それ、お世辞とかじゃなくて?」


「じゃないじゃない。俺はそんなところで変な嘘つかないって」


 事実、紛れもない本音であるそれは、神林にも信じてもらえたらしい。そっかと頷いてから、神林はえへへと頬を掻く。


「実はまえにばっさーからも同じこと言われたんだけど、優しいばっさーなりの気遣いだと思ってたんだよね。でも、藍田くんからもお墨付きもらえると自信つくかも。ほら、藍田くんってなかなか人と関わろうとしないじゃん? この間のお昼休みも、彩城祭のことで――」


 そこまで言いかけて、紅潮している神林の顔が青くなる。あからさまに動揺して、ぶんぶんとかぶりを振る。


「あの、他意はなくて! 責めてるわけじゃないんだよ! 第一、あのとき悪かったのはズカズカと訊いちゃったあたしだし……! だからその……」


「大丈夫、気にしないでくれ。あのとき悪かったのはいきなりキレた俺だし。ギターは……もうやらないって決めたから。でも、秘密にしてたのは俺だけじゃなかったんだな」


 雑談もほどほどに、俺はようやく本題に切り込む。


「まさか、神林がベースをやってたなんてな」


 背後で、スタンドに立てかけられたベースを指差す。すると、神林はあっと虚をつかれたような声を漏らして、力なく笑う。


「そ、そうだった。すっかり忘れてた。ばっさーとかが遊びに来るときは仕舞ってるんだけど、今日は急だったから……」


「やっぱり隠してたのか。神林のことだから、俺の耳にも入るくらいベースが弾けることを自慢するもんだと思ってたんだけど……」


「あっ、あたしのことそーいうヤツだって思ってたんだ! 失礼な! ……っていうのは冗談で、本当は自慢したいんだけどね。それができないっていうか」


「なんでだ? 自慢するほど上手くないってことか?」


「それもある! でも、理由はもっと単純で……ちょっと恥ずかしいんだよね」


「恥ずかしい?」


「ほら、あたしってキャラ的にマスコットっぽいっていうか、動物っぽいじゃん。みんなからもそう言われるし、あたしもそう思ってるし。そんなマスコットキャラが渋くてロックなベースが弾けるっていうの、笑われちゃうかなって」


 絶えず、明るい笑顔を振り撒いていた神林の表情に翳が差す。目を伏せ、桜色の唇を固く引き結ぶその面持ちから、神林の憂いが伝わってくる。


「あたし、なんでも笑って流せるタイプではあるんだけど、ベースのことは例外っていうか。……本気、なんだよね」


「っていうことは、プロを目指しているのか?」


「うーん、どうだろ。いまはとりあえず、弾きたい曲があるから練習してるんだ」


「……どうしても弾きたい曲」


「ただね、曲名も誰が歌ってるのかもわからないんだ! むかし、駅前で弾き語りしている人が歌ってて、聴いてる人はほとんどいないのに、それでもすっごく楽しそうに歌うの。ただガムシャラに歌っているその人が、めちゃくちゃにカッコよくてキラキラしてて。そのとき、夢とか特になかったあ

たしにとって、憧れになったんだ」


 どこか慈しむような視線をベースに向けて、滔々と語る神林。そんな神林の話に、俺の身体は硬直し、心臓の動悸が早まる。


 もし違ったらという一抹の不安を押し殺して、俺は口を開く。


「なぁ、神林。その曲って、こんな感じじゃないか?」


 深呼吸をする。緊張で締まりそうになる喉を震わせて、口ずさむ。


『Goodnight そう言ってみんなが眠る なのになんで? 僕は眠りに就けないの? 真っ暗な夜 シンとした静けさに耳鳴りがする こわいこわい 誰か応えてくれ Hey! Hey! 僕の声は聞こえているかい? Hey! Hey! 聞こえていたら返事をしてくれ 僕の叫びは闇に飲み込まれて消えていく』


 身体のなかで暴れ狂う羞恥心や躊躇と戦いながらも、どうにかワンコーラス歌い終える。これでもし、俺の予感が外れていたとしたらそれこそ本当に消え去ってしまいたいと後悔に苛まれていると、ガタンと机が揺れる。


「な、ななななんで!? なんで藍田くんがその曲知ってるの!?」


 大声で叫び、神林が勢いよく机から乗り出す。もはや鼻先が掠れ合うほどの距離にまで近づく神林に戸惑う俺に構わず、神林が訊いてくる。


「その歌、別にリリースされたわけでもネットに上がってるわけでもないし。路上でだって、歌われたのはほんの数回だし、それだってそこまで人気があったわけじゃないし……もしかして……」


「あ、あぁ……実は俺が作った曲なんだ」


 神林の鬼気迫る圧力に気圧されながら頷くと、神林の口が止まる。力なくすとんと元の位置に戻り、そのまま黙りこくってしまう。


「か、神林?」


 幻滅でもさせてしまっただろうか。あそこまで称賛し、憧れとまで言ってのけた人物の正体がクラスの冴えない同級生と知って、落胆させてしまっただろうか。もしそうなら申し訳ないと、神林の様子を窺っていると、


「……ごい」


 ぽつりと、神林が呟く。


「え、いまなんて――」


「すっごいよ、これ!」


 満面の笑みを咲かせて、神林が飛び上がる。まるでウサギのようにぴょんぴょんと跳ねる小さな姿に呆然としていると、俺の手が神林に握られる。


「まさか、本物と再会できるなんて! めちゃくちゃ奇跡じゃない!? あたし、好きすぎてコピーしようとしてたんだよ!?」


「み、みたいだな。さっき、同じ歌詞が書かれた紙を見つけて、もしかしてと思ったんだけど……」


「えー、すごい嬉しい。いつか会って、お礼したかったんだ」


「お礼?」


「うん。あたし、勉強は苦手だし背も低くて挑戦できるスポーツとかも限られるから、情熱を持てるものがなかったんだよね」


 だけど、と神林は続けて、


「ある日、駅前でガムシャラに歌う人をみかけて。演奏や歌がそんなに上手くないのは素人目にもわかるくらいで、周りの人たちは笑ってたんだ。それでも、その人が歌うことをやめることはなかった。なによりも、超楽しそうに歌ってて。夢を持つことなんて諦めようと思ってたけど、あの人の……藍田くんのおかげで憧れができたんだ。ありがとね」


「そんな……俺は別になにも。あんな歌で誰かの力になれたらなら……」


「あんな歌なんかじゃないよ! あたしはあの歌、すごい好きだよ? だから、自信持って」


 聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいに褒めてくる神林から目を逸らす俺に、神林は変わらずニコニコと笑ってみせる。それが、いつかの赤羽根の面影と重なって、俺は神林の手を振りほどく。


「……自信なんか持てるかよ」


「藍田くん?」


「自分のドッペルゲンガーに負ける人間が、自分に自信なんか持てるかよ!」


 それから、堰を切ったようにぶちまけた。


 俺とは対照的な人間性を宿したドッペルゲンガーとして、碧があらわれたこと。碧と自身の存在を賭けた勝負をしていたこと。その勝負において負け、存在権を失った俺は誰にも認識されなかったこと。


 それまで、打ち明けられる存在がいなかったからだろう。呼吸も忘れてまくし立てる俺の言葉は、酸欠によって途切れる。


「……えっと、つまりどゆこと? アオちゃんがドッペルゲンガーで、藍田くんが透明人間みたいになってるって」


「どういうこともなにも、それが事実なんだよ。碧は人間じゃない。存在する価値のない俺を消すためにあらわれて、俺はそいつに消されたんだ」


「ちょ、ちょっと待って! ぜんっぜん飲み込めないんだけど! アオちゃんが人間じゃないってのもビックリだけど、そもそも藍田くんが消えたってのはどういう意味? だって、藍田くんはここにいるじゃん」


「それは俺にもわからない。赤羽根にも黄泉川にも認識されないのに、なぜか神林には俺が認識できているんだ。……実際に見せたほうがよさそうだな」


 いくら口で説明しようとも、信じてもらえないのは当然だ。目に見える形で証明したほうが確実だろうと、俺はカーペットに転がるボールペンを拾おうとする。しかし、俺の手がボールペンを拾い上げることはなく、すり抜けていく。


「え……いま、すり抜けて……」


「認識されないのは人だけじゃなくて、無機物も例外じゃない。存在権を失った俺は、世界のあらゆるものに干渉することはできないらしいんだ」


「あ、だから雨にも濡れてなかったんだ……」


 どうやら、効果は覿面だったようだ。完全には理解できていないようだが、神林は考え込むように顎に手を当てる。


「尚更なんであたしには藍田くんが見えるんだろ? 触ることだってできるし、藍田くんもあたしに触れるよね? さっき、だ……抱きしめられたし」


「あぁ。っていっても、神林にだって俺は認識されていなかったはずなんだ。駅まで歩いて、そこで何気なくあの歌を歌ったら、神林に話かけられたんだ」


「あの歌って、『世界を鳴らす鐘』?」


「まぁ、そうだな」


「――っ、そっか。だから……」


「……神林?」


 なにか思い至ったらしき神林の顔を覗き込むと、神林は神妙な面持ちのまま言った。


「あたしね、家は駅の西口からのほうが近いんだ。けど、今日は東口から出た……。それは、『世界を鳴らす鐘』が聴こえたからなの」


「……は? 聴こえたって」


「もう何年も路上ライブしてないからまさかと思ったんだけど、確かめずにはいられなくて。東口に向かったら、藍田くんがいたんだ。ねぇ、藍田くん。藍田くんはアオちゃんに人間としての価値が劣ったから負けたっていってたけど、本当にそうかな?」


「……どういうことだ?」


「藍田くんは自分のことを卑下しすぎだと思う。藍田くんに価値がないなんてこと、ないよ。少なくともそう思わない人間が、ここにいるもん」


 へへと、神林がはにかむ。


「いうなれば、あたしは藍田くんのファンだし! 藍田くんのことを認めてる人間はここにいる! それと、あたし思うんだ。ばっさーと黄泉川くんが藍田くんのことを認識できないのは、藍田くんに価値がないからじゃない。ふたりとも、一生懸命に歌を歌う藍田くんのことが好きなんだよ」


「……そんなこと」


「あるよ! ばっさー、言ってたもん。自分じゃ藍田くんの力になることはできないって。そのときはなんのことか分かんなかったけど、あれは藍田くんが歌うことをやめたことなのかなって。ばっさーは、藍田くんがまた歌うことを待ってるんだよ」


「……赤羽根が、俺の歌を」


 中学時代のことを思い出す。


 作曲していることが赤羽根にバレてからというもの、俺は作曲の相談を赤羽根に持ちかけていた。


 すでに完成している音に乗せ、考え付いた歌詞を歌い上げる。そのたびに赤羽根に評価してもらって、二人で曲を作り上げていった。


 そして、曲が完成したときには、赤羽根は俺以上に喜んでくれた。拍手をして、太陽のような笑顔を向けて、「この曲、すごく好き」だと何度も言ってくれた。


 ずっと憧れだった赤羽根に、はじめて認められた気がした瞬間だった。


「……そうか。赤羽根にとって俺の認識は、恋の相談役なんかじゃなくて……」


 心の隅に僅かな希望が差し込むが、俺はすぐさまそれを振り払う。勘違いするな。赤羽根に認められているのは、俺じゃない。赤羽根の心にあるものは、黄泉川なんだ。


「悪いけど、それは都合のいい解釈だ。ふたりが神林みたいに俺を認めてくれているとは思えない」


「なんで!? どうしてそんな風に思うの? 藍田くんたちは中学のときからの友達なんでしょ?」


「友達っていっても、それは二人の優しさだ。俺は二人の数多くいる友達のひとり。それ以上でも以下でもない」


 赤羽根に認められた気がして舞い上がっていた。黄泉川と仲良くしてもらって、失念していた。


 俺は二人のように人の先を走り、立てるような人間じゃない。二人と同等の価値を持つ人間じゃないんだ。二人と同じ場所に並べるとしたら、それは碧のような存在で――


「ふざけないでよ」


 硬くて冷たい神林の声が、俺の思考を切り裂く。


 意識を神林に戻すと、神林は丸い瞳に精一杯の力を込めて俺を睨んでいた。


「なんでそんなこというの? やってみないと分かんないじゃん。訊いてみないと分かんないじゃん。藍田くんがアオちゃんに負けた理由は、価値がないとかそんなことじゃないよ。そもそも、自分で負けを認めちゃってるからだよ」


「……そりゃ認めるだろ。あそこまで歴然とした差を見せつけられたら、認めざるを得ない。まさに存在証明だ」


「じゃあ、いいの!? このままアオちゃんに取られちゃったままで。指を咥えて見てるだけなの!?」


「……っ」


「いいわけないよね? 悔しいよね? なら、諦めずに戦うしかないじゃん。あたし、バカだから難しいことは分かんないけど、戦う理由はそれだけで充分じゃないの?」


 神林の言葉が、容赦なく俺を突き刺す。


 たまらず言い返そうと喉を震わせるが、声が出ることはない。掠れた呻きだけが漏れて、絶句する俺に、


「お願いだよ。あたしの憧れだった存在が、そんなカッコ悪いこといわないで」


 それが、決定打だった。


 打ち負かされ、萎んでいたなにかが燻る。やがてそれは身体全体にまで膨らみ、熱く焦がす。


「……俺、ここから逆転できるのかな?」


「できるよ」


「また赤羽根と黄泉川と会って、笑い合えることができるかな?」


「もちろん!」


「碧に――勝てるかな?」


「勝てるよ、絶対に!」


 まるで根拠のない神林の肯定だったが、それがどうしよもなく俺を奮い立たせる。どうせ、透明人間になった身だ。どれだけ無様にもがいてみせようと、誰に見られることもない。なら、神林の口車に乗ってみるのもいいかもしれない。


「……やってみるよ、俺」


「うんうん、それがいいよ! それにさ、あたしいいこと思いついたんだ。アオちゃんに勝つための作戦」


「え、マジで?」


「うん。黄泉川くんとばっさーにばっかりアプローチしても仕方ないと思うんだよね。やっぱ、アオちゃんみたいにクラス中の人とか、もしくは学校中の人に認めてもらう必要があると思う。じゃないと、アオちゃんには敵わないと思うし」


「それは……まぁ。ただ、いまの俺はみんなには認識されないわけだし、どうやって……」


「んふふふ。ちょうど絶好の機会があるじゃん!」


 不敵に笑んでみせて、神林は宣う。


「きたる彩城祭。そこの彩城祭でのステージで、『世界を鳴らす鐘』を歌うんだよ! 藍田っち!」

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