Q4.逆転の方程式とは?

翡翠の雨宿り

 突如降り出したゲリラ豪雨の雨脚が、弱まる気配はなかった。アスファルトで弾け飛んだ飛沫によって、数メートル先の景色がけぶるなか、栗色のポニーテールが跳ねる。


「うひゃー、すごすぎるよ雨! 藍田くん、急いでもっと!」


「あ、あぁ……! 悪い!」


 もはや使い物にならない折りたたみ傘を振って催促してくる神林に応えて、俺は目の前で揺れるポニーテールを追いかける。


 しかし、急ごうとする意識は別の思考によってすぐに薄れていってしまう。


 ――なんで、神林は俺を認識できているんだ?


 あれだけ自分の存在を認識できる人間を探し回り、赤羽根や黄泉川にさえ認識されないことを確認したにもかかわらず、神林には俺が見えている。とはいえ、神林だって俺を認識していなかったはずだ。最初から認識できるのなら、朝の登校時や授業中に俺に気付けなかったことに説明がつかない。可能性があるとすれば、神林がわざと無視を決め込んでいたということになるが、神林にメリットがあるわけでもないし、わざわざ駅前で俺に声を掛ける必要もない。そうなると、認識できなかった俺の存在が途中から認識できるようになったということになるが、その原因への検討がつかない。


 そもそも、どうして神林なんだ? 


 赤羽根のように俺が好意を抱いているわけでも、黄泉川のように旧知の仲でもない。今年はじめてクラスが同じになった同級生。ただ、それだけの関係のはずだ。


 俺と神林の間でなにか、あっただろうか。足を止め、記憶を掘り起こそうとする俺の手が、神林に掴まれる。


「もう、なにボケっとしてるの!? はやくしないと、風邪ひくよ!」


 そう叱責をして、神林が俺の腕を引く。呆気に取られた俺は、そのまま神林に引っ張られて走り、数分後には神林の家の軒下にいた。


「はぁはぁ……もうやんなっちゃうね、ほんと。すっかりずぶ濡れだよー……って、藍田くんは平気? っていうか、あんなところでなにしてたの? あそこ、最近不良みたいな人がたむろしてるから危ないんだよ……って、聞いてる? おーい、藍田くんってば」


 正直、神林の話はまったく聞いていなかった。


 怪訝そうに顔を覗き込んでくる神林の丸い瞳と視線が交錯した瞬間、俺の身体は動いていた。


 神林の濡れた肩に手を置く。え? と神林が驚くことを意に介すことなく、その小柄な体躯を抱き寄せる。


 両腕で抱きしめた神林は、雨のせいで酷く冷えていた。


「え、えええええ!? ちょ、ど、どうしたの藍田くん!? あ、あのあの……!」


 当然、神林がジタバタと暴れるが、俺には神林を解放する余裕はなかった。


 どうしようもなく、嬉しかったのだ。


 理屈も理由もわからない。なぜ、神林が俺を認識できているのか、仮説や予想すら立てられない。けれど、そんなことはどうだってよかった。


 とにかく、自分を認識してくれる人と出会えた。自分を案じて、話しかけてくれる存在を見つけることができた。その事実が、孤独に苛まれた心を、優しく包み込んでいく。


「その……あの、き、気持ちは嬉しいんだけども……! 藍田くんってばっさーが好きじゃないのかとビックリもしてて、つまりめちゃくちゃパニックなんだけど――って、藍田くん? 泣いて、るの?」


「……え?」


 指摘されて、正気に戻る。


 指先で頬を撫でると、透明な液体が付着する。雨水にも映るそれは、しかし人肌程度の温もりを持っていて、涙であることが示す。


 そして、自分が涙を流していることを知覚すると、一気に目頭が熱くなる。慌てて拭おうとするのも間に合わず、ボロボロと涙が溢れてくる。


「あれ、なんだこれ。おかしいな……俺、どうしたんだろ」


 自分でも理解できない現象に、思わず笑ってしまう。


 遅れてやってきた羞恥心に耐えられず、顔を背けようとする俺の頭に、柔らかな感触が伝わる。


 みると、神林が爪先で背伸びをして、俺の頭を撫でていた。


「なにがあったのかはわからないけど、あたしでよければ話、聞くよ? とにかくさ、このままじゃ風邪ひくし、よかったらウチに上がってよ。うち、親帰ってくるの遅いし、それからゆっくり――って、あれ? 藍田くん……濡れてない?」


「……あぁ、俺は大丈夫だから。神林こそ、風邪ひくぞ。……ただ、俺の話だけ、聞いてほしいんだ」


 すでに碧や存在証明のことは頭にはなく、俺は身体のなかで蟠る暗澹とした感情を他人に吐き出したかった。


「……っ、うん! わかった! パパっとシャワー浴びて着替えてくるね」


 そんな俺の頼みを、神林はどう受け取ったのだろう。


 普段はふわふわとした緩い表情を引き締めて、玄関の引き戸をスライドする。


「ささ、あがって」


「お邪魔します」


 会釈して、玄関をくぐる。靴を脱いで床にあがると、他人の家の匂いがした。


「あたしの部屋は階段あがってすぐだから! 遠慮なくくつろいでくれてていいからね!」


 言うや否や、神林が駆け足で浴場と思しき部屋に消えていく。


 以前、赤羽根が神林を小さくて目の離せないペットのようだと評していたことがあったが、なんと

なくその意味がわかった気がした。


「……さて、と」


 ひとり取り残された俺は、小さく息を吐く。


 神林という自分を認識してくれる存在と巡り合い、安心したのだろうか。碧に存在を奪われてからの怒涛の展開によって、忘れていた疲労感が一気に押し寄せてくる。昨日、眠れなかったことも手伝って、重くなる身体を引きずって二階に昇る。すると、『みどりのへや』と書かれたプレートが下がる部屋が視界に飛び込み、俺は扉の前に立つ。


「し、失礼します」


 部屋の主に許可をもらっているとはいえ、ひとりで入ることには抵抗が伴う。ましてや神林は女子で、女子の部屋に訪れる機会なんてまるでない俺は意を決して扉を開けようとするが、俺の手が取っ手を掴むことはない。


 すっかり透明人間化していることを失念していた。気を取り直すように咳払いをして、俺は扉をすり抜ける。


「……ここが神林の部屋か」


 電気が点いていないうえに、点けることもできないので細かなところまでは視認できないが、オーソドックスな女子高生の部屋といった印象だ。


 クマやウサギをモチーフにしたキャラクターのぬいぐるみが飾られ、大きなクッションが床に横たわっている。柑橘系のアロマの香りが充満し、テキストやファイルが無造作に置かれるなかで、俺はあるものに目を留める。


「……ベース、か?」


 ファンシーで可愛らしさを基調とした神林の部屋のなかで異彩な雰囲気を放つそれは、バンドには欠かせない役割を担う楽器である、ベースだった。


「なんでベース? 神林はベースを弾いてたのか?」


 そんな話は聞いたことない。


 おしゃべりな神林のことだ。ベースが弾けるとしたらそれをクラス中に自慢し、それは俺の耳にも入ってくるだろうに、本人はおろか赤羽根からも聞いたことがない。


 神林の意外な一面に驚いていると、俺はベースの下に紙が落ちていることに気付く。屈んで拾おうとするが、透明化していてはそれすらままならない。いい加減馴れろよと戒めて紙から目を離そうとしたとき、俺は側頭部に鈍器で殴られたかのような衝撃を覚える。


『ヘイヘイ! 僕の声は聞こえているかい? ヘイヘイ! 聞こえていたら返事をしてくれ 僕の叫びは闇に飲み込まれて消えていく(たぶんこんな感じ)』


 蛍光ペンやキャラクターの落書きで可愛く綴られたその詞は、かつて俺が作った曲、『世界を鳴らす鐘』とまったく同じものだったからだ。

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