豪雨のなかで差し向けられる傘
地獄の一日が、幕を開けた。
赤羽根にも黄泉川にも存在を認識されない俺が、他の人間に認識されるはずがない。ホームルームを前にほとんどのクラスメイトたちが集まる教室に入っても、誰も俺に気付いてはくれなかった。
無論、それは紫村先生も同じことで、俺が教壇に立ったままでも注意することなく、いつもの調子でホームルームを行った。
そして、それは授業がはじまろうとも変わらない。淡々と授業内容を解説する教師たちも、真面目に取り組む赤羽根も、居眠りする黄泉川も、難しい顔をしてテキストと睨めっこする神林も、ニコニコと笑って授業を受ける碧も、その他のクラスメイトたちも。俺という存在がないことへの違和感を覚えることもなく、日常を送っている。
あぁ、そうか。
教壇に座り込み、退屈そうに先生の話を聞くクラスメイトたちを眺めながら、俺は痛感する。
俺がいなくても、世界はつつがなく回るんだ、と。
当たり前かもしれない。別に俺じゃなくても、それは例外ではないかもしれない。けれど、こうしてその事実をまざまざと見せつけられると、己の無価値さを証明されているようで、暗澹たる気持ちになる。
更に、俺の場合は碧という代役がいるのだ。
根暗で卑屈な俺とは対極に位置する特性を持つ、ドッペルゲンガー。実際、彼女は俺の代わりを担うどころか、それ以上の働きをしていた。
問題を解く生徒を募ろうにもなかなか手が挙がらずに困り果てる先生に対して、自ら申し出てみたり、体育の時間では、運動の苦手な生徒を庇って率先して動いたりして、多くの笑顔と感謝を得ていた。
極めつけは、六限の学活だった。
彩城祭を一ヶ月半後に控え、各クラスの催し物を決めるために設けられたこの時間では、対立が起きていた。
催し物に関して多くの意見が挙がるなか、特に票を集めていたのはお化け屋敷とカフェの模擬店。内訳としては男子がお化け屋敷で女子がカフェの模擬店であったが、これがかなり紛糾した。
一年に一度の一大イベントとあってか、あの赤羽根ですら収拾がつけられないほどに白熱した論争に終止符を打ったのは、碧のある提案だった。
「もういっそ、どっちもやるってのは?」
あまりに突飛なそれにみんなが難色を示したが、碧は得意気に笑ったまま続ける。
「このままじゃ、ラチあかないしさ。お化けに扮した店員がやるカフェってのはどう? 恐怖のカフェで、あなたは無事に食事できますか? ってね」
「でも……それって、カフェのコンセプトと食い違ってない? 落ち着いて食事できないっていうのは……」
「あっははは、大丈夫大丈夫。そもそも、高校生がやる模擬店に安らぎを求める人なんかいないだろうし、少し変わったアプローチのほうが集客も見込めると思うよ? もちろん、怖がらせかたは工夫しないといけないけどさ、みんなイメージしてみてよ? 雪女とか幽霊がパンケーキを運んでくる光景を。シュールでおもしろくない?」
碧の言葉に、みんながそれを想像する。直後、ぷっと誰かが噴き出し、笑いの渦が広がっていく。
「たしかに、それいいかも」
「斬新すぎて思いつかなかったわ。いいじゃんミックス、俺は賛成だぜ」
「おれも!」
「私も!」
先程までの険悪な雰囲気が嘘のように霧散し、和やかになる。すると、その空気を感じ取った赤羽根が安堵に胸をなで下ろして、総括する。
「それじゃあ、わたしたちのクラスはお化けカフェということで生徒会に提出します。いいですか?」
「「いいでーす」」
一時はどうなることかと危ぶまれたが、碧の機転によって丸く収まったようだ。役割を終えて檀上から降りた赤羽根が、碧にペコペコと頭を下げていた。
「さて、無事に決まったみたいですね。生徒だけで解決できて、先生は嬉しいです」
赤羽根に代わって壇上に立った紫村先生が、満足そうにクラスメイトを一望する。それから、視線を碧に留め、
「特に藍田さん、ありがとうございました。どちらかのアイディアを捨てるのではなく、どちらのアイディアも尊重したうえでの提案、素晴らしかったです」
「そんな、大袈裟ですよ、先生。ボクはただ面白そうだと思っていっただけですし」
「それでも、藍田さんがそう進言してくれたから、みんなが納得できたんです。ありがとうございました」
先生の口ぶりから、お世辞ではなく心の底から碧を評価しているようだった。けれど、それは先生だけじゃない。クラスメイトたちも同様で、称賛が籠った視線が碧に集まっていた。
「さて、出し物も決まったことですし、今日はこのままお開きとします。明日から本格的な準備になりますので、よろしくお願いします。あ、それと、彩城祭の彩城祭で開かれるイベントに出演したい有志を生徒会が募集していますので、希望者がいれば挙手してください」
彩城祭恒例である、彩城祭での有志のイベント。そこでは、クラスや学年、部活動などの垣根もなく、仲のいい友人たちでコントや演劇などを披露することができる。
しかし、我が校の目玉企画だけあり、出演者に寄せられる期待は大きい。更に、生徒会や先生たちの審査も通らなければいけないうえに、ステージに立てる団体数にも限りがあるため、希望者は少ないのだが、
「はいっ! 出てみたいです!」
今年は、うちのクラスから希望者があらわれた。
ざわざわと、クラスがどよめく。驚いたようにみんなの視線が釘付けにされる中心には、自信満々に胸を張る碧がいた。
「あら、藍田さん。彩城祭への出演を希望されますか?」
「はい、します!」
「おいおい、大丈夫かよ。藍田は転校してきたばっかだから知らないかもしんねーけど、ウチの彩城祭はヤバいんだぜ?」
「そーそー。だいたい、なにで出るつもり?」
「バンド」
「え?」
「実はさ、昔っからギターやってて。大勢のまえで演奏してみたかったんだ」
「え、そうなんだ。アオちゃん、ギターやってたんだ」
「うん。それに、文化祭の出演を躊躇うようじゃ、ダメなんだ。――ボクの夢は、プロのミュージシャンになることだからね」
あまりに唐突で、それでいて壮大な宣言。クラス全員が呆気に取られ、俺は共感性羞恥に駆られる。
高校生にもなって、そんな夢物語を語ったところで、嗤われるだけだ。
そう身構える俺だったが、クラスメイトたちは――笑わなかった。
それどころか、おーという感嘆の声すらあがり、「たしかに、碧ならいけそう」という囁きが聞こえてくる。
「ていうか、碧の演奏聴いてみたい」
「ね! あたしも聴いてみたい!」
「まぁ、楽しみにしててよ。るのはコピーじゃなくて、オリジナルだからさ」
「マジで!?」
誰ひとりとして茶化すこともなく、みんなが碧に期待を寄せる。
「わかりました。では、そのように生徒会に伝えておきます」
「よろしくお願いします。メンバーについては、これから探しますので。みんなも、もし一緒にやりたかったら、いつでも声掛けてね!」
それ以上は、見ていられなかった。
俺は、クラスの輪のなかで笑う碧から逃げるように、教室を出る。扉をすり抜けると、ワイワイと賑やかな喧騒がくぐもって、別世界に移ったようだった。
「なんだよ、それ……」
腹の底から込み上げるやるせなさに、歯噛みする。
全員が、俺を認識できないだけじゃない。全員が、碧という人間を認めている。
明るく元気で、恥ずかしげもなく壮大な夢を掲げて屈託なく笑う碧に、大きな価値を見出している。それが、何を示しているのか。
藍田蒼汰が存在する意義よりも、藍田碧が存在する意義のほうが大きいという証明にほかならなかった。
「……くそっ」
俺が存在価値を失ったのは、赤羽根翼にとっての唯一無二の存在であることを奪われことでも、黄泉川紡にとっての特別な存在になれなかったことでもない。もちろん、それも理由に含まれるが、あくまで要因の一つに過ぎない。
一番に大きな理由は――
「ただ純粋に……藍田碧が藍田蒼汰よりも魅力的な人間だから」
その解答に至った瞬間、凄まじい虚脱感が去来する。
もうこれ以上、俺が碧に反撃する手立てはない。言い訳の余地もないほどに追い込まれて、いよいよ俺は存在価値を失った、抜け殻として生きていくことになる。
「……はっ」
悪あがきをする余裕も、なかった。
すべてがどうでもよくなって、おぼつかない足取りで歩きだす。行く当ても決めないまま町を練り歩いていると、キキィというブレーキ音が鼓膜を劈いた。
不快感に煽られて顔を上げると、見慣れた電鉄の車両が駅に停車している様子が見えた。どうやら、無意識に俺は駅に向かっていたようだ。
停まった電車からたくさんの人たちが降りて、改札を通っていく。ある者は構内で待ち合わせをし、ある者は腕時計を睨みながら早足で駅から去っていく。ある者は一緒にいる友達とその場で留まって雑談を交わし、ある者は恋人と手を繋いで帰路へとつく。
どうしようもなく、全員が幸せそうに見えた。
「……」
黒くて重い、鉛のような感情が胸の奥に垂れ込める。浅く息を吸うだけで骨が軋み、腕が震える。いまにも全身を燃やし尽くすような激情に耐えられなくなった俺は、駅の出口付近に聳え立つ街路樹のもとに立つ。
そこはかつて、俺が路上ライブをしていたところだった。
「……誰にもバレないなら、大声で歌って構わねぇよな?」
咳払いをして、喉のコンディションを整える。背筋を伸ばし、酸素を多く取り込んで、
『Goodnight そう言ってみんなが眠る なのになんで? 僕は眠りに就けないの? 真っ暗な夜 シンとした静けさに耳鳴りがする こわいこわい 誰か応えてくれ Hey! Hey! 僕の声は聞こえているかい? Hey! Hey! 聞こえていたら返事をしてくれ 僕の叫びは闇に飲み込まれて消えていく』
分不相応な夢を抱き、世間知らずの中学生が作った歌を歌い上げる。
しかし、足を止める者はいない。突然、駅前で大声を張り上げる男子高校生がいたとしても、認識されることはない。
全員が全員、澄ました顔で俺の前を横切っていくだけだ。
「……っていっても、それは昔と変わらないか」
中学生の頃、ギターを持って弾き語りをしたときも、注目してくれる人はいなかった。いまと同じように無関心であるか、不愉快そうな視線が寄越されるだけで、俺を認めてくれる人はいなかった。
当たり前だ。勢い任せのサウンドにセンスの欠片もない歌詞、『世界を鳴らす鐘』なんて安直で恥ずかしい名前の曲を誰が聴いてくれるっていうんだ。
「わっ、雨だ!」
不意に、友達とクレープを食べていた女子高生が空を指差す。
釣られて見上げると、いつの間にか天候は崩れ、分厚い雲が空を覆っていた。今週は雨の予報はなかったはずだが、秋という季節においてはアテにならないようだ。ポツリポツリと落ちてくる雫の勢いは増していき、まるでバケツをひっくり返したかのような豪雨が降り注ぐ。
駅に悲鳴が木霊する。傘を持たない人々が鞄やフードを被って走っていくが、雨粒が俺を濡らすことはない。
俺の存在を無視した雨粒は、そのままアスファルトで弾け、飛んでいく。ザァァという激しい雨音が、俺を見下した嘲笑のようにも聞こえた。
「……ふざけやがって」
街路樹の下で、濡れた路面に座り込む。
突然のゲリラ豪雨に戸惑う人々を尻目に、俺は思考を放棄する。路傍に生える雑草のように、雨に打たれ続ける俺に――
「大丈夫ですか!?」
心配そうに張り詰めた声が、降りかかる。
「……え?」
それが幻覚の類である可能性を考える暇はなかった。
もはや脊髄反射で仰いだ先にいたのは、赤羽根でも黄泉川でも、碧でもない。
「……ってあれ? 藍田くん?」
そこにいたのは、犬のような丸い瞳をぱちくりと瞬かせて、折りたたみ傘を差し向ける神林翡翠だった。
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