黄色の希望
存在価値を失い、他人から認識されなくなった透明人間になろうとも、実体がなくなったわけじゃない。宙を浮くことも、空を飛ぶこともできない俺は徒歩での登校を余儀なくされていた。
「……ほんっとにムカつく身体だな」
しかも、ちゃんと疲労も蓄積するようで、学校がつく頃にはそれなりに足に重さを感じるようになっていた。
あらためて、自分の身体の不便さに舌打ちをこぼして、俺は周囲を見渡す。
定刻の40分前とあって、人の気配はない。いつもなら、校門で遅れる生徒に睨みを利かしているはずの強面教師の姿もなく、その光景に新鮮味を抱く俺の耳に、ある音が届く。
ダムダムと断続的にボールが弾む音と、キュッキュッとゴムが床に擦れる音。それらに導かれた先には体育館があり、バスケ部の面々が朝練に励んでいた。
「パスパス! なにをもたもたしてるんだ、お前らぁ!」
激しく笛を鳴らして、バスケ部の顧問が怒鳴り散らす。一方の部員たちは、顧問の声に応えることはない。息を切らして、膝に手をついて立ち止まる連中が大半のなかで、コートを駆ける影があった。
黄泉川紡だった。
疲弊によって緩んだ守備を見過すことなく、敵陣をかいくぐる。ダンと床を蹴り上げて黄泉川の身体が天高く飛び、片手で持つバスケットボールをゴールリングに叩き込む。
ガゴォン! と重い衝撃音が早朝の静けさに轟き、黄泉川がコートに降り立つ。ギシギシとゴールリングが軋む音と部員たちの息遣いが聞こえるほどの沈黙を一拍挟んで、顧問の笛がけたたましく鳴り響く。
「よし、いい切り込みだったぞ黄泉川! スピードも動きも気迫も鈍っていない、素晴らしいガッツとスタミナだ。その調子だ!」
「……はい!」
「お前らもぉ! 少しは黄泉川を見習え! これくらいの気迫がなければ、全国優勝なんて夢のまた夢だぞ!」
満足そうに笑っていた顧問の顔が、一転して険しくなる。それに対して、他の部員たちも返事で応え、再び練習がはじまる。
「……すげぇな」
別に、初めて黄泉川の練習する姿を見たわけではない。赤羽根に連れられて練習を見たこともあるし、試合本番だって観戦したことはある。しかし、それは中学時代の話だ。高校に入学してからあまり目にすることはなかったが、依然として黄泉川の実力は圧倒的だった。
「……顧問も、ムチャいうよね」
本来の目的も忘れてバスケ部の練習に見入っていると、バスケ部のマネージャーが体育館から出てくる。その手には空になったボトルがあり、代わりの飲み物を補充しにきたようだった。
「黄泉川くんを見習えったって、あれは無理じゃない? 規格外にもほどがあるっていうか」
「それな。っていうか、ただでさえ黄泉川くんは異次元だったのに、更にすごくなってない? インターハイで負けたときから、余計に」
「あー、たしかに。なんかちょっと怖く……なったよね? プレーが鬼気迫る感じっていうか」
「そそ! でも、練習試合の勝率も黄泉川くん個人の得点率もあがってるし、やっぱ黄泉川くんはハンパないって! インターハイでの敗北が黄泉川くんを覚醒させたんだよ、絶対!」
「間違いないね! あー、黄泉川くんカッコイイなぁ。告っちゃおうかなー」
「やめときなって。あんたとじゃ釣り合わないし、黄泉川くんには赤羽根さんがいるし」
「まぁ、そうだよね。赤羽根さん相手じゃ敵わないし、諦めるしかないよねー」
「そそ、身のほど弁えなきゃってね」
そんな雑談を交わしながら、マネージャーたちはボトルにドリンクを補給して、体育館に戻っていく。
「……身のほどを弁える、か」
唱えるように呟くと、実感めいた感覚が身体の隅にまで浸透していく気がした。
それは、俺がずっと抱いてきた想いだ。中学時代、黄泉川が赤羽根の幼なじみであり、そして想い人であると知ったときから思っていたことだ。
赤羽根の隣に立つ人間には、黄泉川が相応しいと。あの二人が付き合うとなれば、だれも文句はいえないだろう。
赤羽根に想いを寄せていた男子も、黄泉川に黄色い歓声を上げていた女子も、仕方ないと納得するはずだ。それほどまでに、二人は価値ある、魅力的な人間なのだから。
「……あっ」
無意識の内に物思いに耽っていると、俺の視界があるものを捉える。
それは、ボールを片手に佇む黄泉川の姿であり、黄泉川と視線が絡む。
「……黄泉川」
俺が、見えているのか?
ドクン、と脈が強く打つ。身体が火照って、手に汗が滲む。緊張と不安で委縮しそうになる自分を叱咤して、俺は喉を震わせる。
「黄泉川、お疲れ……っ!」
果たして、俺の声は黄泉川に届いているのか。固唾を吞んで黄泉川の反応を待っていると、黄泉川が笑った。
練習の疲れをまるで感じさせない爽やかな笑みを弾けさせて、黄泉川がこちらに走ってくる。そして、同じように笑顔で迎えようとした俺を、黄泉川が通り過ぎていく。
「……あ、え?」
呻きにも似た不明瞭な声を漏らして、俺はゆっくりと振り向く。
そこでは、碧と神林、赤羽根の三人組が黄泉川とともに談笑していた。
「やっほー、おはよ。ツムグ。朝から魅せるねぇ」
「すっごいね、黄泉川くん! いまのダンクってやつでしょ? あたし、生ではじめて見ちゃったよ!」
「もう、朝から飛ばしすぎだって。そんなんだから、授業中に居眠りするんでしょ?」
ニヤつく碧と興奮した様子の神林に続いて、呆れたように赤羽根が小言を呈する。
「あっは、痛いとこを突いてくるな翼は。つーか、お前ら早くね? まだホームルームまで時間あんだろ?」
「あー、そうなんだけどさ。ツバサが早くいこって言ってきて、ボクたちも理由が分かんなかったんだけど、いまわかった。ね? ミドリ」
「だね! ばっさー、黄泉川くんの練習してるとこ見たかったんだ! それなら素直にそう言ってくれればいいのに」
「ち、ちがう……って。わたし、学級委員だから、文化祭の進行とかで準備しないといけないことがあって……」
「おー、そっかそっか。今日、彩城祭の出し物決めるんだっけか。相変わらず、翼は忙しいな」
「そんなことないよ。もう慣れっこだし。それより……紡も、練習がんばってね」
「おう、翼もな。お互い、がんばろーぜ」
黄泉川がおもむろに拳を掲げる。赤羽根は一瞬、逡巡するように目を泳がせたが、片手を持ち上げる。おずおずと差し出される赤羽根の小さな拳と黄泉川の大きな拳がコツンとぶつかった。
「んじゃ、オレは戻るから。また教室でな」
そう言って、黄泉川が踵を返して体育館に引き返していく。それを見送った三人も、昇降口へと歩いていく。
「あっ……」
つい腕を伸ばすが、俺の手がなにかを掴むことはできない。赤羽根も黄泉川も神林も、俺の存在を認識しているはずの碧ですら一瞥をくれることもなく、俺から離れていく。
「……なにを、思い上がってんだ」
全身から、力が抜ける。身体のなかで巣食う余分な空気を逃がすように長い息を吐いて、俺は目元を覆う。
「黄泉川にとって俺は特別な存在なんかじゃない。会えば多少会話をするだけの、ただのクラスメイト。それだけに決まってんだろ。……なにを、期待してんだよ」
あんなに凄い超人に、俺なんかが認められるわけがない。そんなこと分かっていると弁えていたはずなのに、自分の存在が誰にも認識されないという危機的状況が、俺の理性を奪ったんだ。
肌を撫で、髪を乱して吹き抜けていく秋風が、やけに冷たかった。
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