その答えは、正解なのか

 結局、眠ることなどできなかった。


 朝日が昇り、空が白みはじめる頃になっても寝付けなかった俺は、仕方なくベッドから身体を起こす。


 すっかり乾ききった目を擦ってスマホをみると、時刻は6時半だった。


 いつもよりも少し早い時間だが、油断して二度寝をすると、遅刻をする羽目になる。空いた時間でシャワーでも浴びようと立ち上がったところで、俺は声をあげる。


「……学校いく必要、ねぇのか」


 つい習慣で動いてしまったが、存在価値を失った俺が登校したところで意味はない。昨日の赤羽根や通行人たちのように、クラスメイトや先生にも存在を認識されないのだから。


「……」


 あれだけ学校に行くことを面倒臭がっていたにも拘らず、とてつもない虚無感が胸を締め付ける。


 やはり、みんな俺のことを覚えていないのだろうか。紫村先生も、クラスのみんなも……黄泉川も。


「……いや」


 まだそうと決まったわけじゃないんじゃないか?


 僅かに脳裏をよぎる希望に、俺は寝不足で痛む頭を全力で回転させる。

俺が存在価値を失った原因は、『赤羽根の秘める恋心を知り、相談に乗れる唯一無二の存在』としてのポストを、碧に奪われたからだ。


 俺が絶対的だと確信していた存在価値は、その気になれば簡単に奪われてしまうほどに儚く、脆いものだった。同時に、『恋の悩みを打ち明けられる存在』が俺である必要がなくなってしまった赤羽根に、俺は認識されなくなってしまった。


 けれど、黄泉川は?


 もし、黄泉川が俺にだけ見出す存在価値があるとすれば、黄泉川には認識してもらうことができるんじゃないか?


 それに、赤羽根と違って碧はそこまで黄泉川と接してはいない。つまり、まだ存在価値は奪われてはいないはずだ。


「……そうだ」


 諦めるのは、早かったんだ。俺には赤羽根以外にも、親しい友達がいたじゃないか。


 たくさんの友人がいるとはいえ、黄泉川とは中学からの仲だ。黄泉川もきっと、俺のことを大切な友達だと認めてくれているはずだ。


「――っ!」


 一刻も早く黄泉川に会って、確かめないと!


 その一心で部屋を出ようとしたときだった。


 ガチャリと不意にドアが開き、咄嗟に立ち止まるが、透明人間のような存在へと成り果てている俺にドアがぶつかろうとも、痛みが襲いくることはない。


 すかりと俺の存在を無視して開かれた先から、碧があらわれる。


「おぉ、ソウタ。どうしたの? そんなに急いで」


「なんでもねぇよ。っていうか、お前こそなんの用――」


 だよと叫びかけて、俺は言葉を詰まらせる。ゲホゲホと盛大に噎せてから、人差し指を突きつける。


「な、ななんて格好して人の部屋に来てんだ、おまえ!」


「? 格好? なんかおかしなところある?」


「あるだろ! 大アリだ!」


 慌てふためく俺に首を傾げて、碧が自身の身体を見下ろす。


 長くてしなやかな手足、無駄な肉づきがない腰回り、触れるだけで折れてしまいそうなほどに小さな肩など、そこまでは華奢な女子の身体つきでしかない。


 問題があるとすれば、その身体には、シルエットのすべてが浮き彫りになってしまうほどの薄いバスタオルしか巻かれていないことだ。


「服はどうしたんだよ!」


「え、ないよ。お風呂上りだし。いやさ、昨日ギターの練習してたらすっかり熱中しちゃって。見事に完徹かましちゃったよー、お肌に悪いのに」


「いいから、服を着ろ! 服を!」


「言われなくても着るけど……あ、なに? もしかしてボクに欲情してるの? 自分のドッペルゲンガーであるボクに?」


 愉快気に唇を歪めて、碧が俺に近寄ってくる。途端、濡れた髪からふわりと甘いシャンプーの香りが、湯気とともに立ち昇ってくる。うわぁと情けない声を上げて後退すると、碧は腹を抱えて笑う。


「あっははは。キミ、ほんとうに面白いね。面白いくらいに憐れ。我が分身ながら情けないよ、マジでさ」


「……う、うるせぇ。いいから、俺の部屋から出ていけよ」


「それなんだけどさ。またキミ、忘れてるでしょ?」


 爆笑で乱れた呼吸を溜息で整えて、碧は手を腰に当てる。物覚えの悪い子どもを見るように、呆れた眼差しを俺に注いで、


「ここ、ボクの部屋なんだけど?」


「あっ……」


 思わず、声が漏れた。


 そうだ。碧に存在価値を奪われたということは、俺の所有物も碧のものになるということだ。昨日のギターのように、部屋だって例外じゃない。


「昨日はかなりご傷心のようだったし、気を遣ってこの部屋を貸してあげてたけどさ。ここはキミの部屋でもないし、どころか家ですらないわけ。部外者はキミのほうなんだよ」


「そう、だったな……。悪い」


「わかってくれたなら、出ていってくれるかな? ボク、着替えたいんだ」


「あぁ……」


 身体の奥底から迸る激情を、歯嚙みすることで押し殺す。ここで、感情的になればなるほど、碧の思う壺だ。こいつは、俺を貶めて嘲笑うことを楽しんでいるのだから。


「あ、そうそう。ついでだから聞くけど、どこに行くつもり? 町中を散歩したって、誰もキミを見

つけちゃくれないよ」


「……わからないだろ」


「ん?」


「まだ俺は、諦めていない。お前のそのニヤケ面をぶっ飛ばして、泣かせてやる」


「……へぇ、負け惜しみではなさそうだね。勝算はあるって感じなのかな?」


「確定したわけじゃないが、見込みはある。……絶対に、証明してみせる」


「ま、自暴自棄になったがゆえの暴走じゃないことだけを祈って、楽しみにしてるよ」


 薄ら笑いを浮かべる碧の表情に、緊張はない。あくまで俺の言葉を戯言としてか受け取っていないようだが、その余裕がかえって俺を安心させる。


 碧は、俺の目論見に気付いていない。油断している隙を突いて、黄泉川と接触することができれば、逆転の兆しがみえるかもしれない。


 俺は、言われた通りに部屋を飛び出す。


 鍵のかかった分厚い扉を越えて外に向かう寸前に、「焦っているときに捻りだした答えは、だいたい間違っているもんだよ」という碧の声が聞こえた気がした。

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