藍田蒼汰の存在証明
完全にしてやられた。
昼休みを経て行われる英語の授業において、俺は凄まじい後悔と羞恥、敗北感に苛まれていた。
昼休みに俺が碧と赤羽根との間に割って入ることは、碧の計算の内だったんだ。いや、それだけじゃない。
校舎裏に連れ出されて、俺に問い詰められた際に意味深な口ぶりで惑わしたのも、布石だったんだ。そうすることで、碧の行動を阻まなければならないという切迫感が、俺を後押しした。
そして、みんなの目の前で俺の醜態を晒させた。よりにもよって、赤羽根の前で一番に見せたくない自分を見せてしまった。
「……それが」
碧のやり方なんだ。
自分の存在価値を高めることを、存在証明としていない。敵である俺の価値を下げることで、相対的に自分の価値を上げようとしているのが碧の存在証明なんだ。
実際、それで俺の存在価値が下がり、碧の存在価値が上がっているかはわからない。特に身体に異常などが起きてないぶん、まだ俺にも勝機はあるはずだ。……たぶん。それでも、このまま碧のペースに乗せられたままでは、俺が負けることは明白だ。
「……俺も、碧の価値を下げるようなことをすれば……」
自分なりの存在証明が思い浮かばないのなら、碧の方法をパクればいい……とも思ったが、俺は碧の弱味を知らない。というか、碧の欠点とやらに思い至らない。
今朝、碧は自分が俺のドッペルゲンガーだと言った。俺の真逆の人間性を有した、もう一人の俺だと。ゆえに、俺のドッペルゲンガーであるはずの碧は女だし、今日出会ったばかりのクラスメイトともすぐに打ち解けられるくらいに明るい。
「……そんなやつ、どう倒せっていうんだよ」
いわば、碧は俺の上位互換である存在だ。クラスの端っこで息を潜める日陰者とは違う、クラスの中心に立てるような人間だ。その時点で、俺の勝ち目は薄いように思える。
「なにが勝負はフェアだっての」
とはいえ、愚痴をこぼしていても仕方ない。あいつに負ければ、どんな災厄が俺に降りかかるのかも分からないんだ。
こんな俺でも、まだ消えたくないとは思う。負けるわけにはいかないと思考を巡らせた俺が行き着いたのは、鼓膜にこびりついたこの言葉だった。
ヒント。
校舎裏に連れ出したときに、碧が宣ったその真意を推測する。
なにが、碧の指すヒントなのか。彼女との出会いから現在に至るまでの記憶を掘り返して、俺はふと思い出す。
『だから、キミが思ってるほどハンデはないんだよ。強いていえば、周囲との関係値はキミのほうが若干高いことかな。ま、それも『若干』でしかないけど』
あのときはさして気にも留めていなかった『周囲との関係値』というワードが引っ掛かるが、結論までには至らない。
そのまま、授業そっちのけで頭を悩ませていると、「そこの君!」という鋭い叱責が俺の思考を打ち切る。
「は、はいっ」
思わず上擦った声で返事をすると、キッと鋭い目つきでこちらを睨む紫村先生と目が合った。
「い、いや……あの、俺……」
碧のことや存在証明に気を取られるあまり、上の空になっていたことを咎められたのだろうか。慌てふためく俺に、紫村先生がかぶりを振る。
「藍田君じゃないです。私が呼んだのは、君の後ろ」
「う、後ろ?」
そう聞き返して、俺は背後に首を捻る。
そこには、大きな身体を丸ませて机に突っ伏す黄泉川がいて。張り詰めた沈黙に響く、くーくーという気持ち良さそうな寝息を耳にして、ようやく俺は事態を把握する。
「お、おいっ。黄泉川、起きろって。黄泉川……!」
「ん? ……んー、悪い翼。あと五分……」
「馬鹿言ってないで、はやく起きろって」
顔を上げようともしない黄泉川の身体を揺らし続けること数十秒。さすがに無視できなくなったのか、寝ぼけ眼を擦って、黄泉川が欠伸をする。
「よぉ、藍田。おはよ」
「おはよじゃないっての。いいから、はやく謝っとけって」
「は? 謝るって誰に……って、あー」
教壇のほうを示す俺の指先を辿ることで、黄泉川も察したらしい。気まずそうに呻いてから、パンと手を合わせる。
「ごめん、紫村先生! 最近、練習がキツくてつい……」
「もう。最近どころか、ほとんど毎回ですよね、黄泉川君の場合」
「い、いやほら、夏の大会で負けてからマジでキツくなって。でも、そのかいあって、夢の中での大会では優勝できたっす」
「夢の中で優勝しても意味ないじゃないですか」
紫村先生の手厳しいツッコミに、黄泉川があははと頭を掻いて笑う。途端、クラスメイトの誰かが噴き出し、徐々に忍び笑いが広がっていく。
「相変わらず適当いうな黄泉川のヤツ」
「そのわりに変に爽やかで憎めないんだよね」
「ていうか、夢でも赤羽根に起こしてもらってるとか、もはや夫婦みてーだな」
そんな呟きがそこかしこで聞こえ、俺は何気なく赤羽根のほうをみやる。すると、耳まで顔を赤くした赤羽根が、深く俯いていた。
「……ほんとにもう、黄泉川君はどうしようもないバスケ馬鹿ですね」
「あっははは。すんません。でも、マジでもう居眠りしないんで!」
「はいはい、お気持ちだけは受け取っておきます。……じゃあこの問題、赤羽根さん解いてみてください」
「はぇ!? わ、わたしですか!? な、なんでわたしが……」
「どうせ黄泉川君に当てても無駄でしょうし、赤羽根さんならわかりますよね? 別に他意はありませんけど」
そう言って、紫村先生が意味ありげに微笑む。
そんな紫村先生に、赤羽根は「絶対に噓だ……」と嘆いてから、ふっと息を吐く。なにかのスイッチを切り替えるような間を置いてから席を立ち、セミロングの髪を揺らしながら教壇にあがる。
手にチョークを持ち、赤羽根は文字をすらすらと淀みなく書いていく。
「はい、正解です。さすがですね」
黒板に羅列された回答文を目に紫村先生が満足そうに頷くと、クラス中から感嘆の声が上がる。
実際、それなりに難解な問題だったが、流石は赤羽根といったところだろう。
俺を含めたクラス中の注目を物ともせずに赤羽根が席に戻ろうとすると、「悪りぃ、翼」という黄泉川の小声が聞こえた。
赤羽根にもそれが届いたのか、足を止めて黄泉川のほうを見る。そして、「バカ」とだけ返してから、席につく。
「やべぇ、アレは相当怒ってるぞ……。あ、藍田。あとで一緒に謝ってくれないか?」
「なんで俺が。嫌だよ、お前の自業自得だろ」
「んな殺生な。今日、お前の欠席を誤魔化したり、ミーティングドタキャンしてやったりしたのを忘れたのか」
「……あー、そうだったな。……ったく、仕方ないな」
「た、助かるぜ。翼、お前にはやけに甘いからな」
「……んなことないけどな」
そう、本当にそんなことはない。
中学時代のときからそうだ。バスケの大会で優勝したときだって、バレンタインにたくさんの女子からチョコレートを貰ったときだって、俺が「すげーな」と言うたびに、「そうか?」と小首を傾げてみせる。
黄泉川はただ、無自覚なだけなんだ。自分がどれだけ魅力的で、どれだけ価値があるのか。みんながそれを認めて、惹きつけられているのか。
それが分からないからこそ、気付かないんだ。
椅子に座った赤羽根の口元が、緩んでいたことに。
「……そうか」
分かったような気がする。なぜ、碧が口にした『周囲との関係値』というワードが引っ掛かったのか。
自分の存在価値を証明する相手は、神様でも世界でもない。人間ひとりの存在を認めるのに、そこまで大仰なものは必要ない。
自分の価値を認めるものは――自分以外の他人なんだ。
「あら、時間ですね。では、今日はここまで。先生、いったん職員室に戻ってから帰りのホームルームをしますから、各自それまでに帰りの準備しといてください。いいですね」
終業を告げるチャイムを受けて、紫村先生がそう告げる。
それは今日の日程が終わったことを意味するものであり、クラスメイトたちが脱力するなかで、俺は席を離れる。
「赤羽根」
「あ、蒼汰くん。お疲れ様……って、どうしたの? あ、もしかして紡になにか言われた? 気にしなくていいんだよ。悪いのはあのバカで――」
「そうじゃないんだ。ただ……その、赤羽根に頼みたいことがあって」
「頼みたいこと?」
赤羽根の鳶色の瞳が大きく開かれ、俺を覗き込んでくる。
いつもは逸らして逃げているそれに、今回はできるだけ見つめ返すように努めて、頷く。
「きょ、今日……もし、放課後に予定がなければ……俺と、モールに行ってほしいんだ」
「え、モール? なにかの買い物? でも、なんでわたしが……」
「れ、例の件でさ! きっと赤羽根も話したいこと、あるだろうし」
「……っ、そっか。……そうだね。うん、いこっか」
「あ、あぁ……!」
ひとまず、誘いを受けてもらったことに安堵。にこにこと笑う赤羽根にぎこちない笑みを向けながら、覚悟を決める。
自分の価値を認めてもらうのは、自分以外の他人。とはいっても、俺は黄泉川のようにはなれないし、なれるとも思わない。俺の場合、俺の存在を認めてほしいと望む人に認めてもらうことこそが、重要な気がする。
そして、俺が認めてほしいのは――赤羽根翼。
彼女に認めてもらうことこそが、俺の存在証明だ。
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