黒猫の家

「ぎゃあ!!?」

 さっき拉致された時にも起こった謎現象、地面その他自身の身体を支える何もかもが消失して、自分と自分以外の境界が曖昧になるような悍ましい感覚に思わず悲鳴を上げた。

 視界も何かの芸術作品のようにぐにゃんぐにゃんに歪みまくり、思わず目を閉じる。

「いい加減慣れろよ、うっせえわ」

 そんな声に恐る恐る目を開けると、今度は見知らぬ小さな一軒家の前に立っていた。

「それ……今のやめてくださいよ……うぇ……まだ気持ち悪い……目がぐるぐるする……」

 慣れろと言われても今のでまだ二回目だ、どう慣れろと?

 転移魔法ってもっと超便利な印象だったんだけど、転移するたびにあんな悍ましい感覚を味わう羽目になるんだったら、便利だとしてももう二度と経験したくない。

「大袈裟だな転移魔法程度で。異世界人ってのは本当に脆くてデリケートだな」

「だって、未知の感覚なんですよ色々と……! っていうか、ここどこですか?」

「オレんち」

「なんで?」

「人目があるところで騒いでさっきみたいに割り込まれたら面倒だから。それとも城に戻して欲しかった?」

「あそこには二度と絶対戻りたくないですね。あそこは人間の尊厳が全く守られないドブの底みたいな場所なので」

 ぶるりと身体が震えた、思い出そうとすると色んなものが駄目になりそうなので思い出さないように心を鎮める。

「はは、めちゃくちゃトラウマになってんじゃん。まあ戻りたくねえっていうんだったらわざわざ連れ戻しはしないよ」

「そう言ってくれるのならありがたいですけど……」

「……まあいい、入れよ。あー、靴は玄関で脱げよ、うちは基本土足厳禁」

「あ、はい」

 言われた通りに玄関で靴を脱いで家に上がらせてもらう。

 そのまま居間に通される、やたらと豪奢でふかふかのソファが鎮座していたので、思わず見惚れていたら少年に「座れば?」と言われたので遠慮なく座らせてもらう。

「おおう……ふっかふかだあ……」

 これは一晩ぐっすり眠れるタイプの最高品質のソファだ、とても良い。

 そういえば靴も服も拉致される前にこの少年の魔法で着せられたけど、なんでサイズぴったりなんだろうか。

 ほぼ全裸から急に普通の街娘さんコーデになった時はわけわからなすぎて混乱したっけな、と数時間前のことを回想する。

 そういえば魔法でああいうふうに早着替えできるのなら、この世界って変身する系のヒーローものとか撮影しやすそうだなとか、そもそも魔法で早着替えできる世界に変身モノの需要ってあるのかなとかごちゃごちゃ考えていたら、隣に座った少年に唐突にデコピンされた。

「いったぁ!!?」

「とりあえず話したいことは色々あるけど、まずは説教な」

「説教って、何ですか……説教されるようなことは」

「なんもしてねえって言いたいわけ? 本気で言ってんの?」

「病院の前で騒いだのはよくない事ですけど、あれはあなたが……」

「お前あの医者に言われたことをもう忘れたの? オスの尻尾握るなって言われてたでしょ」

「言われましたけど……ヒトの尻尾触るのってそんなにあれなことなんです? わたしが住んでた世界、尻尾生えた人っていなかったのでそういうのよくわからなくて」

「あ? ……ああ、そういやアレが元いた世界には純人しかいないとか言ってたな、それと同じような世界ってことか……?」

「あ、ちょっと待ってください……今更で申し訳ないんですけど……純人ってその……わたしみたいな感じの見た目の人間ってことであってます? その、人間以外の生物の見た目が混じっていないというか……」

「……そっからか……そうだよ、そういう認識でいい。お前みたいに他の生物の特徴をほとんど持っていないのが純人、オレみたいに別の生物の見た目が入ってるのが混人って呼ばれてる。純人は基本的に純人だけだけど、混人はオレみたいな獣人とか人魚とか妖精とか竜人とかその他色々の総称」

「へえ……人魚とか妖精さんもいるんですね……ええと、あなたは、猫の獣人さんであってます?」

「は? 猫? 豹だけど」

「え……? …………あっ……ほんとだ、よく見ると尻尾にうっすらヒョウ柄が……気付かなかった……」

 本当によく見ないとわからないけど、確かに模様がある。

 尻尾をまじまじと観察していたら額を尻尾で小突かれた、そんなに痛くはなかったけどびっくりして後ろにひっくり返りそうになった。

「……それで、なんで尻尾触るのが駄目なんです? そりゃあ人の身体にべたべた触るのはよろしくない事でしょうけど……どうも尻尾だからダメっていう感じですよね、あなたとお医者様の口ぶりから察するに」

 そう問いかけると、少年は深々と溜息を吐いてから口を開いた。

「そうだよ……世間知らずのイセカイジンちゃんにもさっきの行為がどれくらい痴女だったかわかりやすく教えてやると、ちんこ触ってたのとほぼいっしょ」

 彼の言葉を聞いてから、しばらくシンキングタイム。

 つまり、どういう事?

「え、ええ……それってつまり……あなた、ちんこ丸出して人前歩いてるようなものなんじゃ……えっやだ、露出狂……?」

 そういえばお城にいた時にも何人か獣人さんを見かけたけど、その半分くらいが尻尾にカバー的なものをつけていたような気がする。

 つまり、カバーを付けていない人って、と思っていたら頭を平手でぺしっと叩かれた。

「そうじゃねえよ!! ……そういうんじゃなくて……ああもう常識!! 常識が足りてないやつと話すのってこんなに疲れんの!!?」

「ええ……?」

 一人で勝手に疲れられても困る。

 なんせわたしはこの世界の事なんて何一つ知らないのだ、滞在期間一月以上のくせにほぼなんにも教えてもらっていないので。

 それで結局どういう事なんだろう、と思って黙って彼の顔を見つめると、彼は非常に疲れ切った顔でこう言った。

「……いいか、よく聞け……性別の違うやつ……特に純人のメスがオスの尻尾を掴んで放さないのはな……誘ってるってことだよ」

「何に?」

「……交尾」

「……えぇ」

 三秒くらい考えて出てきた声はそれだけだった。

 こうび、コウビ、たぶん交尾だろう、つまりはR-18な行為の事だ。

 何故に?

「尻尾ある奴だと相手の尻尾と自分の尻尾を絡ませたり自分の尻尾を相手の体に巻き付けるのが交尾の合図になってるんだけど……純人とか尻尾ないやつはその代わりに相手の尻尾を掴んだり、相手の尻尾を自分の手脚に絡ませたりするのが……そういうことしたいっていう合図」

「はあ……」

「だからあの時のお前は、公衆の面前で堂々とオレ相手にセックスしたいって言ってたのと、ほぼ同義」

 ものすごく疲れた顔でそう言った彼の顔をたっぷり十秒ほど見つめてから、ようやくかろうじて言葉がまとまった。

「お、おおう……そ、それは確かに……痴女、ですね…………あ、えっと、全然そんな意図ないです、ほんと痛かったからやめてほしくて掴んでみただけで……」

「……その後頑なに放さなかったのは?」

「思ってたよりも手触りが良かったものですから……というか、そうすると尻尾でバシバシ叩かれてたのは」

「尻尾で叩くだけだとそういう意図は全くない」

 即答された、つまりあれは単純にただの攻撃だったらしい。

「あと指先でちょっと触れたり撫でる程度でもそういう意図はない。たださっきみたいにずっと掴みっぱなしとかそういうのは……完全にアウト」

「アウトとセーフの基準が、よくわからない……」

「そこは分かれよオレがここまで懇切丁寧に説明してやってるのに。……ああもういいわかった、お前もう二度と他人の尻尾には触るな、オレのも当然だが、オレ以外のもだ、わかった?」

「は、はい……」

「本当にわかってんの? はあ……純人にはオレらみたいな獣人の尻尾触りたがる奴が多いって本当の話だったんだな……あと、ほんとうに気をつけろよ、痴女と間違えられるだけならまだまし、すれ違いざまにちょっと尻尾に触れただけでそっちからセックスアピールしてきたっていちゃもんつけられた馬鹿な純人のメスが強姦されたっていう事件が最近多発してるらしいから」

「……こっわ!! なんですかそれ!!? ええ……この世界超物騒じゃないですか……」

「……これでも一応多少はましになったほうなんだけどな、昔だったら尻尾に触れるも何もなく、普通に日中堂々女子供が襲われるなんてのが普通だったし」

「だから怖いんですよこの世界!! 魔法があって自動ドアもあるくらい文明も進んでるのに、なんだってこう……モラルっていうか倫理がかけているんですか!!? 倫理観ほぼないくせによくここまで文明が進みましたねこの世界!!」

「倫理なんざなくとも文明なんざ勝手に発達するもんだと思うけど……」

「そういうものでしょうか……そういうもんなのかな……」

「別にどうでもいいだろそんな事、考えるだけ無駄」

 確かに世界の事なんてこの場にいる二人で考えたところでなんにもならないのだろうけど。

「……じゃあ、説教はこれで終わり。……お前、本当だったらオレの兄弟に殺されてるはずだったから、兄弟がお前を殺さなかったときのことを全く考えてなかったんだよな。とはいえオレがお前の事をどうこうする意味も義務もないわけで……その辺に放り出してもいいんだけど……少し、気が変わった」

「少しどころか盛大に心変わりしてくださっても問題ないのですよ?」

「あん? オレにお前を養えとでも言いたいわけ? 冗談じゃない、なんだってお前みたいな異世界人の面倒をオレが見なきゃならないんだよ」

「じゃあ、気が変わったっていうのは?」

「ほっぽりだす前にお前と話してみたくなった」

「はあ、何を?」

「……オレら兄弟は、ヒトの死に浸かっているような生活を生まれたころからしていた。最初に言っとくが、たぶんお前が倫理観がないだのドブの底みたいだの言っているこの世界でも、オレらは特に底辺の……ドブの底の底の底みたいな人生を送ってきた。自分たちの為にヒトを殺すのは当たり前の事だったし、他人なんて基本的に殺すべき存在か、殺したい奴か、どうでもいい有象無象しかいない。オレらにとって理解者は互いだけ……それなのに、オレにはどうしてもあいつが壊れた理由が、わからない。原因は分かっても、どうしてあそこまで壊れたのか、どうすれば元に戻るのかも全くわからない、正直言ってお手上げだ。藁に縋るような思いでお前を拉致ってあいつのところまで連れて行ってはみたけど、それも無駄に終わった……けど、さっきまでお前と話してて思ったんだ、オレに理解できなくても、他の奴なら何かわかるんじゃないかって」

「は、はあ……」

「お前は平和ボケした甘ちゃんだけど、そういうオレらとは正反対の奴らと話してれば……なんかいい感じに新しい視点で物事を考えられるようになるかもしれないし……それでオレが見逃してる何かが見つかれば……あいつが元通りになるかもしれない……とはいっても、話したところで無駄に終わりそうな気もする……それでも何もしないよりはマシ……というわけで、どうせお前に後先なんてないんだから、付き合えよ」

「うーん……お話しするだけなら別に構わないんですけど……見返りを要求しても?」

 そう聞いてみると、少年はものすごく嫌そうな顔をした。

「あ? ……養わねーぞ」

「それはいいです。……ただ、わたしの面倒をまっとうに見てくれそうな人を紹介していただけると……」

「そんな伝手がオレにあるとでも?」

「なかったらなんかいい感じのヒトを探してくださいよ。あ、奴隷とか身体を売るとかそういう方面はなしで……そうですね……料理は一通りできるから……戸籍がなくても住み込みで働ける善良な定食屋とか、そういうところに紹介していただけるとありがたいです」

「やけに具体的だな。というか料理できるのかよ異世界人のくせに」

「異世界人のくせにって何です? 調理道具とか元の世界と違うかもですけど、たぶんこの世界でも普通に……ちょっとキッチン見せてもらっても?」

「あ? なんで?」

「キッチンなんてどこの家も大体一緒でしょう? ならここのキッチンを見ればわたしがいた世界とどのくらい違いがあるのかわかるかなと思いまして」

 包丁とまな板とコンロとフライパンと鍋と……他に何があればいいだろうか? オーブンとか? あ、あと小匙と大匙と……計量カップとボウルとピーラーと……他にもいくつか……それと、未知の調理道具がないかを確認して……調味料とか食材ってどんなだろう? お城では固形の保存食みたいのしかもらえなかったけど、まさかあれがデフォルトじゃないよね?

 なんて考え込んでいたら、肩のほうにぺしりと軽い衝撃が。

 どうもまた尻尾で叩かれたらしい、はっとして少年の顔を見上げると、あきれ顔を向けられた。

「……わかった、わかった。話し終わった後に見せてやる。……あと、お前の引き取り先も探してやる……面倒くせぇけどいいよ、それで。ただし、嘘を吐いたり誤魔化したりするな。正直に平和ボケしたその頭で何を思ったのかを話せ」

「わかりました。それじゃあ、お願いします」

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