02

 仮に、僕が江戸時代くらいに生まれていたのなら、きっといかがわしいことをしていただろう。なぜなら、今の世界のように監視カメラもないし、指紋から個人を特定するような技術も、DNAから個人を特定する技術もないからだ。

 僕は、最初、それを人だとは思わなかった。誰かが荷物を置き忘れてしまったか、部屋に荷物を運んでいて、持ち主がいないだけだと思っていた。だから、スルーしようかと思ったのだけれど、目を凝らすと、髪の長い人間であることがわかった。近づいてみると、髪の長いスーツを着た黒タイツを穿いた女性が寝ていた。仰向けで、つまり、おっぱいを天空に向けて眠っていた。もし、昼であったなら、僕はすぐさま救急車とAEDを用意するし、そうしようかと思ったけれど、近くに缶ビールが転がっていたから、ただの酔っ払い女だから止めた。

 顔がかなり赤くなっていた。汗ばんでいたし、おっぱいが大きかった。浅い呼吸なのに、おっぱいの谷は深かった。服の皺によって、まるでブラジャーをしていないように見える。いや、もしかしたら、本当にしていないのかもしれない。彼女のブラジャーを観測するまで、彼女がノーブラかノーブラじゃないかわからない。物理学に大きな影響を与えていそうな問題だ。彼女のせいで、一瞬にして、僕の脳はおっぱい情報処理機になってしまった。さて、この落とし前を一体どやってつけてもらおうか。とりあえず、観測するか?観測は大事だ。観測がなければ、地球は回らないままだった。そんなこと、あってはならない。

 冗談はさておき、起こす時に、おっぱいを触っても怒られないんじゃないかと思った。むしろ、妥当な対価、いや、むしろこの女性は、おっぱいを触られるぐらいで、親切にも起こしてもらえることに感謝すべきで、対価としては安すぎるのではないかと思った。ありていにいえば、ちょっとくらいおっぱいしてもいいだろ。

 僕は、おっぱいするか悩んでいる時に、AEDのことを思い出した。僕は、このAEDの話を友人から訊いただけだから、実際にそれがどのような議論なのか知らないし、何を問題視しているか、そもそも真面目に話されていることなのかすら知らないけれど、どうやら女性が倒れていたら、倒れている男性は女性にAEDを使わない方がいいかもしれないらしい。使わない理由は二つで、一つ目は、女性がおっぱいを見られ、触られることが嫌だからで、二つ目は、女性を助けたことによって男性はその女性から訴えられるかもしれないからだ。まぁ、実質理由は一つみたいなものだけど、要するに、男性は女性に訴えられるかもしれないから、助けない方が良いという話のようだ。

 ありえないほど馬鹿馬鹿しい話だから、友人がトロッコ問題とか、囚人のジレンマのようなものから着想を得て、創作したものなのではないかと思っている。現実世界でそんな馬鹿馬鹿しい事件が起るだろうか?いや、男性が女性にAEDを使うということではなく、使われた女性がその男性を訴えるということだ。僕は、人を訴える時のプロセスがどのようなものなのかまるで知らないけれど、女性のそのような訴えをまず初めに手続きをした人は「こいつは正気か?お前は、命の恩人になんてことをするんだ」と思うのではないだろうか。そして、何かしらの資料を破り捨てるのではないだろうか。僕だったら、破り捨てるかもしれない。

 少し想像すれば、男の人は、AEDを使おうが、使わなかろうが、訴えられることがわかる。囚人のジレンマの時のように、利得表をつくれば、男の人はAEDを使おうが使わなかろうが、利得がマイナスになる。AEDを使えば乳を触ったと訴えられ、AEDを使わなければ、遺族から訴えられるだろう。つまり、AEDを使うという選択肢しかない。

 まぁ、実際に。AEDを使って訴えられるなんてことないだろう。余談だけれど、僕は、こういう話を訊くと男女平等とは何なのだろうと思ってしまう。男尊女卑ならぬ、女尊男卑な考えではないだろうか。痴漢冤罪よりたちが悪い。女性でも嫌なのだろうか?だとしたら、ドナー登録みたいなものをつくって欲しい。

 時間にしてみれば、この思考をしたのは、ほんの十秒ほどだけれど、僕はたった十秒で素晴らしい選択を選べた。おっぱいに触れることなく、普通に肩を叩いて起こした。

 今になって思えば、僕はもっと危機感を覚えた方がよかった。急性アルコール中毒の可能性があるからだ。

「あの、大丈夫ですか?」と、肩を叩きながら。しばらく肩を叩くと彼女は起きた。

 彼女は、上半身だけを起こし、僕の方を見てから、空を見上げた。それから、大きく息を吸って、全身に巡っているアルコールを排出するかのように、息を吐いた。あまり、酒臭くなかった。

 そして、彼女は「こんなところで寝ちゃうなんて、ヤバいよね」と恥ずかしそうに、首の後ろを左手で触りながら言った。

 こういう時に、なんて返すのがいいのだろう。「いやいや、そんなことないですよ」と言うのは違う気がするし、「どうしてこんなところで寝ちゃっているんですか?」というのは、聞かなくてもわかることだから言いたくないし、「ここはベッドじゃないぜブラザー」とかいうのは、あまりのもアメリカすぎるし、面白くもない(これは、アメリカに失礼かもしれない)。いっそのこと、「寝ている間に、おっぱいを堪能させてもらいました」とでも言えばいいのだろうか、殴られるかもしれないし、泣かれるかもしれない。最悪の場合、家具とかつくることになるかもしれない。

 こういう時、僕はいつもそこはかとない笑みを浮かべる。

 僕は、彼女に手を差し出した。

「ありがとうございます」と言いながら、彼女は僕の手を取り、生まれたての馬みたいに立ち上がった。彼女が完全に立ったところで、僕は、手を放そうとしたのだけれど、彼女は僕の手をぎゅっと握りしめ続けた。

 悪くない気分だったので、僕は特にそのことを指摘しなかった。

 彼女は、僕の手を握ったまま夜空を見上げた。まるで、空に何かあるように。

 僕も夜空を見上げた。けれど、これといったものはなかった。星は見えるが、別に綺麗でもなんでもない。満月なわけでもないし、晴れているわけでもない。皆既日食のようなイベントが起っているのかもしれないが、僕の知識と眼ではそのようなイベントが起きているのかわからなかった。もしくは、流れ星でも流れるのだろうか。あるいは、宇宙船を探しているのかもしれない。もしかしたら、宇宙人と交信しているのかもしれない。電波泥酔女なのかもしれない。

 僕は、彼女の顔を見た。宇宙人と交信しているような顔じゃなかった。むしろ、その逆で、退屈の海底にいるような顔だった。もしくは、神がいないことを自らの手で証明してしまった敬虔な信徒のような顔だ。

 瞼の裏で球結びをした、空から垂れ下がった糸を切り離されたみたいに、彼女は視線を落とした。彼女の視線のあたりを見たけれど、何もなかった。

 素面でやってたらなかなか怖い人だけれど、駐車場で寝るほど酔っているのだから、その挙動不審さに僕は感情を抱かなかった。手が暖かい。

「あっ、すいませんっ」と言いながら、食卓にゴキブリが走ったみたいに、彼女は僕から手を離した。

「いえいえい」と僕は言った。続けて「大丈夫ですか?」と言った。

「ええ、まぁ、その、うん、はは、大丈夫です」と彼女は言った。

 まぁ、言わんとすることはわかるというか、なんというか、大丈だったら駐車場で寝ないよね。

「このマンションに住んでいらっしゃるんですか?」と僕は言った。

「いえ、ちがいます」

 違うだと?このマンションに住んでいるなら、まぁ、よくわからないけれど、駐車場で寝てしまうのは、理解できなくもないというか、ありえない話ではない気がする。そうじゃないとすると、どういうわけがあって、マンションの住人でない人が、マンションの駐車場で寝るのだろうか。マンションの友達の家で飲んでいて、そこから自宅に向かう途中で、力尽きてしまったということだろうか。こんなベロベロに酔っ払ったのに、泊らなかったのだろうか。それとも、帰れと言われたのだろうか。いや、スーツを着ているから、仕事から帰ってきている途中で、友達の家ではなく、どこかのお店で飲んだのだろう。まぁ、宅飲みをした可能性もなくはないが。

「家はここから近いんですか?」

 誤解なきよう言っておくが、この時の僕に下心はなかった。ほんの数十秒前まで、おっぱいを触るかどうかで悩んでいた男のこのような発言を信じろという方が無理あるかもしれないが、本当にそんなつもりはなかった。遠いなら自分の家につれて帰ろうとか、介抱と称して服を脱がそうとか、黒タイツを脱がしてそれを翌朝返さずに家宝にしようとか、エロいことしてやろうとか、下着を撮ってやろうとか、そんな気持ちは一切なかった。僕は、一人暮らしじゃないからやりたくてもできない。

「ええ、すぐそこです」

 そもそも、この時の僕にあったのは、下心ではなく、会話の余白に耐えられない、ある種のコミュニケーション能力の不足からくる漠然とした「何か話さないといけない」という焦りである。

「「………‥‥‥‥」」

 泥酔しているところ悪いが、何か喋って欲しい。もしくは、歩き始めて欲しい。義務教育でも、高校でも、大学でも、道で寝てしまった酔っ払いとの会話マニュアルなんてもの僕は教わっていないのだ。それに、そういうものを題材にした小説や映画なども見たことがない。頼むから、喋るなり、歩くなりして欲しい。このまま無視して、裸眼散歩の下調べに戻るわけにもいかないし。

 僕の心を読んだかのように、彼女はふらふらと歩き始めた。そして、ふらふらと地面に座った。その背中には、資産を全て失ってしまった人のような哀愁がある。

 おいおい、大丈夫かよ。

 僕は、彼女を追った。

「あっあの、大丈夫ですか?家まで送りましょうか?僕暇なんで」

「いえ、あの、大丈夫です。家すぐそこなんで。ありがとうございます」と言いながら彼女は、骨が全てスライムで出来ているかのように、左右前後に身体をくねらせながら立ち上がった。内股の状態でしばらく静止したので、放尿しようとしているのではないかと思ったが、彼女は地面を浄化することはなく、直立した。そして、またふらふらと歩き始め、転びそうになったので、僕は彼女のおでこが地面に研磨される前に身体を支えた。そして、彼女はおっぱいの感触と、火照りちらかした熱を僕に与えた。

 えも言われぬ喜びの後に、僕は、社会に出て、人に雇われ、働きたくないと思った(人に雇われることを社会に出ると言うのかもしれない)。僕は今、修士二年目だ。博士課程に進まないのであれば、就職しなければいけない。どうやら博士課程はなかなか大変なため、進学することをビビりちらかにしていたのだが、仕事の辛さ故にこんな風になるよりかは、楽だと思う。僕は、進学を決意した。ありがとう、お姉さん。いろいろと。

「すぐこそまでなら、送りますよ。僕暇なんで」

「あははは。じゃぁ、その、すいません。ありがとうございます。お願いします」

「いえいえ」

 僕はお姉さんの腕を僕の右肩に回させた。

 そして、僕はお姉さんのおっぱいの感触で瞑想を始めた。所謂、ボディスキャン瞑想というヤツだ。身体の感覚に意識を集中し、意識がそれたら、集中させていた感覚へと戻す。つまり、おっぱいの感触から意識がそれたら、おっぱいの感触へと戻す。

 マインドフルになることを目的に瞑想をするな、なぜなら、瞑想とは本来そういうものではないからだ、また、いい気分になろうとしたり、不安から逃れるために瞑想をするな、と言われているけれど、僕は、これまでに、この時以上にマインドフルになったことはないと断言できるし、この時以上にいい気分になったこともないと言っても過言ではない。 もしかしたら、僕を童貞なのかもしれないと思ったかもしれないが、それは少し待って欲しい。なぜなら、僕は、会話の間が耐えられない人間だからだ。人間は、マルチタスクをすることができない。何か一つの事や感覚にしか意識を集中することしかできない。一見マルチタスクに見えていても、実際はシングルタスクなのである。例えば、音楽を聴きながら本を読んだりすることはできるが、音楽の歌詞を追いながら、本の文字を追うことはできない。将来の自分に不安を抱きながら、過去のトラウマに苛まれるということはできない。つまり、何が言いたいかと言えば、僕は人間のこのような特性を利用して、会話の空白からくる焦りを感じないようにするために、おっぱいに意識を向けていたのかもしれない。真相は、闇の中である。

 僕は、歩いた。おっぱいに感覚を集中しながら。

 さて、今の僕は誰かに裁かれるべきだろうか。

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