03

 僕は、おっぱいから意識がそれた。

 彼女が、僕からおっぱいの意識をそらさせた。

 言うまでもないことだけれど、お姉さんが僕がおっぱいの感触で瞑想していることに気づいて、腹を立て、怒鳴り散らかしたわけじゃないし、彼女の胸が実はパッドで、僕がおっぱいの感触をより強く感じるために横腹(あばら?)を押しつけ、それによってパッドがズレて、地面に落下したわけでもないし、彼女のおっぱいが突然消滅したわけでもない。「恋人に捨てられたんです」と彼女が言ったからだ。

 なんというか、いろいろ怖いというか、まるで僕の思考を本を読むように、もしくは僕が自分が音読して彼女に聞かせているかのような発言だった。

 恋人に捨てられたんです、とわざわざ言ったということは、あそこで睡眠を行っていた理由というか、その根本的な原因を説明したわけだ。僕の思考が読めているのなら、「私は仕事が辛くて、その鬱憤を晴らすために飲んだくれたわけじゃないんです。私は、仕事で鬱憤を募らせるほど、能力が低くありませんし、酒以外で鬱憤んを解決できないような環境で働き続けるほど馬鹿でもありません。ただ、恋人に捨てられただけなんです!フラれたんじゃなくて、捨てられたんです!人を捨てるなんて酷くありませんか!そんな酷いことありますか!こんな酷いことがあったんだから、少しぐらい駐車場で寝てしまうほど、飲んだくれたもいいじゃないですか!あと、そんな理由で博士課程に進むなんて不純だ!そんな理由で院に行くな!働け!!」と言っているように聞こえなくもない。大きなお世話だ。いや、違う、そうじゃなくて、まるで、僕の思考を読んでいるかのような言い訳というか、訳の説明だったので驚いた。いや、怖え。

 おっぱいから意識を逸らせるためであったのかもしれない。あまりにも僕がおっぱいのことばかり考えていたから、家まで送ってもらっている人におっぱいに意識を向けるなと面と向かって言うのは憚れるので、その代わりとして、僕が会話の間を耐えられない人間であることを利用したのかもしれない。無くはない。

 何にせよ、まるで思考を読んでいるかのように話し始めたから、僕はトニカク驚いた。金玉を握られているような緊張を感じた。

「私以外の女に浮気をしていたんです。しかもずっと前からです。酷くないですか」

 いや、普通に話を訊いてい欲しいだけかもしれない。駐車場で寝ていた恥ずかしさを紛らわすためでもあるかもしれないが、なんとなく話を訊いて欲しいだけな気がする。誰にも話せず一人で飲んだくれていたのだろう。もしかしたら、誰かにこの話をするために、駐車場で寝るという奇行に走ったのかもしれない。あるかもしれない。

「そりゃ、酷いですね」

「ですよね。浮気はよくないですよね」

 僕は、肯いた。ゆっくり、深く肯いた。そして、彼女は黙った。

 え?なんで黙る?続けてよ。まだ、喋り足りないでしょ。ここからが、本番でしょ。それともあれか?僕が質問するのを待っているのか?

 僕は、彼女の顔を見た。質問されたそうな顔をしていた。ええええええ。何質問すればいいんだよ。まぁ、無難にいけば。

「どうして浮気に気づいたんですか?」

「爪が切られていたんです?」

「爪?」

 爪?爪が原因で浮気がバレる?どんな浮気だよ。どんなミステリーがあるんだよ。たぶん、直木賞とか狙えるよ。

「彼女、何回言っても、自分で爪を切ろうとしないんです。おかげで、何回も何回も引搔かれました。私だけじゃなくて、自分で自分を無意識に引っ掻くこともあります。しかも、血が出ても気にしないんです。だから、私が爪を切ってあげていたんです。爪が切れないだけじゃないんです。お金を稼いでくることもしないですし、靴下を洗濯籠に入れることもできません。料理もできませんし、油よぼれをきちんと取るように食器を洗うこともできません。あの人にできるのは、精々、私のおっぱいを揉みしだくことくらいです」

 いや、そんなことないだろ。実際、浮気しているし。

「ツッコまないんですか」

 なんだこの人、超怖い。本当に僕の思考読めてるの?

「え?なんてですか」

「そんなダメ人間を甲斐甲斐しく面倒見ている方が悪いって」

 言えるわけないだろ。

「あはははは」と僕は愛想笑いをした。

「でも、まだ好きなんです。あの人のことをとても酷い人だと思います。でも、彼女のことを憎みきれない、嫌いになりきれない自分がいるんです。‥‥‥‥‥。爪切りが邪魔するんです。爪切りが私をあの人と結びつけるんです。あの人の爪を切ってあげてた爪切りが視界に入る度に、悲しさと同時に、愛情を再燃させるんです。そうして、嫌な気分になるんです。未練たらしい自分に」

 童貞の僕には、この独白はあまりにも重すぎるんですけど。胃もたれどころか、全身が持たれるんですけど。

 いや、マジで、こういう時、なんて言えばいいの?解決策を提示すればいいの?それともひたすらに共感を示せばいいの?とてもじゃないが、その気持ちわかります、なんて言えない。かといって、爪切り捨てればよくない?、なんて言えない。言ったら、あの人との思い出が云々でどうたらこうたらとか言われそう。僕はそれに上手く返せない。

「あの人、お酒飲めないんです。お酒に関してのあの人との思い出がないので、お酒を飲んでいる時は、アルコールも相まって、あの人のことを忘れられるんです。でも、最近、だんだんとその効果がなくなってきました。そりゃそうですよね。家に帰れば爪切りがあるんだから。それに、お酒を飲んであの人のことを考えないようにすると、逆にあの人のことを考えてしまうんです。でも、お酒だけが脳の中にいるあの人をぼやけさせてくれるんです。私の考えつく行動には、あの人との思い出が必ずあるんです。日に日に、酒量が増え、仕事にも影響しはじめました。同僚からは、くさった死体が生きるために働いていると言われました。私は一体どうすればいいのでしょうか」

 ええええ。とりあえず、爪切り捨てれば?というか、なんで僕は今こんな目に遭っているのだろう。乳を横腹で堪能するだけじゃ、割りに合わないんですけど。せめて、生乳を五分ぐらい‥‥‥。

「あ、そこ左です」

 一体どうすればいいのでしょうか、だから、アドバイスを求めているわけだよなぁ。仏教の言葉でも引用してみようか。

「四諦と呼ばれる仏教の真理の一つ目は、この世は一切は苦である、で、二つ目は、苦の原因は欲望にあり、その欲望を完全に満たせないことが苦の根本的な原因である。三つ目は、苦から解き放たれるには、欲望が全て幻想であることを認識する必要がある。つまり、苦しみを無くするには、欲望がフィクションであることを認識する必要があるらしいです。つまり、嫌な気分から解放されたいという欲望を克服するには、お酒を飲んだりするんじゃなくて、瞑想とかするのがいいらしいですよ。ははははは」

 ダメだ、絶対こんなこと言えるわけがない。傷心中の人にこんなこと言うのはどうかしている。アドバイスとしては、瞑想をしろと言っているように聞こえなくもないし(これは瞑想をしろと言っているのではなく、苦しみがフィクションであると気づくための数ある手段の一つとして瞑想を提示しているのであって、メインのアドバイスは嫌な気分がフィクションであることを気づけ、だ)、それに、この人の場合、瞑想をしたら、お酒みたいに逆に悪化しそうだ。サイコ野郎であれば、そんなことを気にせず言えるかもしれないが、僕はチキン野郎なのでできない。

 マジどうしよう、宇宙人が来てキャトルミューティレーションしてくれないかな。

「ふふふ」と彼女は突然笑い出した。キャトルミューティレーションがそんなに面白かったのだろうか。

「優しいんですね」

 宇宙人に誘拐して欲しいと願う男のどこが優しいのだろうか。

「どこがですか?」

「普通、駐車場で寝るような見ず知らずの人にために、そこまで真剣に考えてくれませんよ」

 なるほど、そういうことか。

「前世で悪いことばかりしたので、今世では徳を積もうかと思いまして」

「ははは、一体何したんですか?」

「ちょっと、浮気をしてしまいまして」

「そりゃ、悪いことですね」

「はい、だから、こうして得を積んでいるんです」

「あっ、そこのアパートです」と彼女は指さしながら言ったた。

「そうですか。じゃあ、僕はこの辺で。あとは、一人でも大丈夫そうですか?」

「大丈夫じゃないです。部屋まで送ってください」と彼女はからかうそうに言った。

 嘘つけもう大丈夫だろ、と言わずに、僕は言われるがままに、彼女を家まで送った。

 彼女が鍵を開け、玄関を通り抜けたところで、僕は「じゃあ、僕はこれで」と帰ろうとしたが「あっ、待ってください。渡したいものがあるので」と彼女は僕を引き留めた。

 お菓子か何かだろうか。

 ドタドタトと音を立てながら、彼女は何かを取ってきて、恥ずかしそうにそれを僕に渡した。

 爪切りだった。

「自分じゃ捨てれないので代わりに捨ててください」

 僕は、お礼の品の代わりに呪いのアイテムを受け取った。

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