第56話 再生
しばらく、ヘルムートは無言で彼女の髪を乾かしていた。ユリアーナもまた、タオルの上から髪を撫でる彼の指の動きを静かに感じていた。雨の夜は、時間が緩やかに流れるように思える。
「ね……あの日」
「うん?」
「今みたいに、ヘルムート、前髪が下りていたなって……」
頭からタオルで包まれているユリアーナは、タオルの隙間からヘルムートの顔を見上げた。彼もまた湯あみ後だったため、前髪が下りている。
「俺が君の翼を切った日か」
「うん。あのねぇ……」
「なんだ」
「髪、下ろしてるのも、かっこいいなぁ~って思ってた」
「そんなことを考えていたのか。呆れるな」
「あはっ、そうだよねぇ。でも、わたしずっとヘルムートの顔好きだったから」
「そうだったのか」
特に謙遜もせずに驚きの声をあげるヘルムート。わずかに頬を紅潮させ「照れるだろうが」と言いながら、彼はユリアーナの髪を拭く手を動かした。彼が少しは喜んでくれたのだろうか。そう思うと、ユリアーナの胸は少し熱くなった。
雨の音だけが静かに響く。もう外に出ることもなく、後は眠るだけ。そのひと時が心地よい。自分の髪を乾かす彼の大きな手。自分がなかなか許すことが出来ない、けれども好きな人。照れくさくて、愛しいという言葉はうまく使えないが、今はまだ許してほしいと思う。その彼と、一緒に森に帰るなんて思ってもみなかった。9回目のユリアーナが10回目を試みても、決してたどり着けなかっただろう未来。そのことに思いを馳せると、じんわりと涙が溢れて来た。
(可哀相なユリアーナ。9回も繰り返し苦しんで。ラファエルのことを好きだったばかりに……)
それでも、ラファエルは何も悪くはないのだ。きっと、誰も悪くなかったのだろう。ユリアーナは目に浮かんだ涙をヘルムートにばれないように、そっとタオルに覆われながら手でぬぐった。それから、話を続ける。
「あのねぇ……わたし、武器屋で初めて会った時に、もうヘルムートの顔が好きだったんだよね」
「そ、うか」
戸惑うヘルムートの声。しみじみ聞いたことがなかったが、彼は自分の顔がなかなか端正であることを知らないのではないかとユリアーナは思う。
(あっ、でも、この世界の美意識……)
は、わからない。今更そんなことに気付く自分に呆れてしまう。だが、ユリアーナがラファエルを好きになって、テレージアを人々が崇拝する様子を見れば、自分の感覚はそうおかしくもないのだろう。
「でも、話をしたらぶっきらぼうだしさ。その後だって、うちに夜押しかけてきてやたら自分勝手だし、なんか不愛想だし」
「それは……少しだけ反省はしている」
少しか、と思いながらユリアーナは言葉を続けた。
「ほんと、どうしようもなかったんだけ……あっ?……あ、あ、あ、あ……」
どうしようもなかったんだけど。そう言おうとしたユリアーナ。だが、その言葉は続かなかった。異変を感じて、彼女の体は固まる。そして、次の瞬間、突然体をのけぞらせて大きく叫んだ。
「ぐうううううううっ……!」
「!?」
突如体を襲う痛み。背中が痛む。リーチェの家で治療を受けていた時や、その後に続いたピリピリとした痛みとは違う、じんじんとした熱さを伴う痛みだ。驚いたヘルムートの手からタオルが床に落ち、彼はユリアーナの二の腕を両手で掴んだ。
「うっ、ううっ……! うわああ、あっ、あっ……」
「どうした!」
「せ、なかっ……痛っ、あっ、ああっ、あっ……!」
ユリアーナはヘルムートの太ももの上に頭を横たえて、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。背中が痛い。傷がびりびりとする。声を出さずにいるには辛すぎる。体は震え、跳ねそうになるがそれを必死に我慢する。涙が両眼に浮かんできた。痛い、痛い、痛い、痛い。だが、それは翼を切られた時の痛みとも違うと思う。彼女は痛みを耐えるため、息を止めた。
「背中? 見せろ」
「うっ……! ううっ……」
ヘルムートは彼女の服をまくりあげ、彼女の背中を見た。
「!」
「う、うう、う……あっ、ああ、あっ……」
「ユリアーナ」
額に脂汗が浮かんでくる。一体何だ。何が起きているんだ。息を荒く吐き出すが、痛みが続く。耐えるためにまた呼吸を止めれば、いくらか呆けたような声音でヘルムートが呼びかける。
「何……っ」
「……が……えて、きている……」
「え?」
「翼が……生えてきて……傷口が裂けて、そこから翼が……」
ユリアーナはヘルムートの太ももの上に頭をのせて、痛みに顔をしかめた。すると、めくりあげられ露出した背中に、ぽつぽつと何か水分が落ちてくる。痛みに耐えながら見上げると、ヘルムートが泣いている。泣いている、と言う以上の大泣きだ。ぬぐってもぬぐってもぼろぼろと溢れる涙を止めることが出来ない様子だった。だが、ユリアーナはそれどころではない。
「よかった……よかった、ユリアーナ……」
「痛い、よくない、よくないわよ! 痛い!!」
「テレージア様のお力か……?」
「痛いんだってば! 痛いよおおおお、痛いぃぃぃ……!」
ユリアーナはヘルムートの太ももをバンバンと手のひらで叩いた。ヘルムートは「ああ、そうだ。鎮痛剤を飲んだら違うだろうか」と、彼女の頭を膝から下ろした。自分の顔をぐいと手でぬぐって道具袋から薬を取り出そうとしている。そんな彼の背中を見ていたユリアーナだったが
「うわっ!」
ひときわ大きく叫んで、体をベッドの上でびくんと反らした。慌ててヘルムートが水を持ってきたが、彼女ははぁはぁと荒く息をついて
「痛みが……治まった……」
と、脱力をして倒れたまま告げる。それには、さすがのヘルムートも驚きの表情を見せた。
「なんだって? 大丈夫か?」
「うん。そんなに痛くない……ねぇ、どれぐらい……翼が……?」
「うん、ちょっと失礼……10センチもない程度だ。これから大きくなるんだろうか」
「ええっ……育つのかな?」
「だと思うが……ひとまず、しばらくは今の服で隠せそうだが。起きられるか?」
ヘルムートの助けを借りながら、ゆっくりとユリアーナは起きる。自分で服の中に手を入れて背中に触れようとすると、ぴりりと僅かな痛みを感じたが大したことではない。まさぐれば、確かに翼らしきものが生えていることを確認出来た。何度も撫でて、生えたばかりの産毛の柔らかさを感じる。
「ほんとだぁ……ううん、これだと仰向けで眠れないかな? 仰向けで寝るのに慣れたし、服も買っちゃったんだけど……」
「だが、空を飛ぶことが出来る、かもしれん」
「うん」
それは確かにそうだ。何より、この短い翼がこれで成長しないものだとしたら、そっちの方が問題だ。育つと期待をさせて欲しいと思う。
「もうすぐラーレン病も落ち着くだろうし、薬も更に進化するだろう。そうなれば、ラーレンを狙う者もいなくなる。もし、その翼が大きくなれば、君は今後いつでも、空を飛べる」
久しぶりに羽ばたこうと肩甲骨付近を動かせば、その生えかけの翼はぴくりぴくりと動いた。ああ、確かに翼だ。小さいけれど、まごうことなき翼。そして、それを動かすための筋肉が少し衰えていることにユリアーナは気付く。
「ちょっと鍛え直さないと駄目かな……? 飛ぶ練習も必要かもしれない」
もう一度、服の下で翼を動かして、ヘルムートを見る。前身頃の布が後ろにひっぱられて不思議な気分だ。
「この世界で、ラーレンが生きていけるのかしら?」
「ああ。しばらくすればラーレン病は終息するだろうし。それに、今は他の大陸ですら薬が出来ているからな」
「そうしたらわたし……翼が大きくなったら飛んでもいいのかしら……?」
「ああ。誰も、君から空を奪わない」
その問答を終えて、ユリアーナはようやく自分の背に翼が戻って来たことを実感して、静かに、嬉しそうに、ほんの少しだけ泣いた。彼女は転生前には翼がなかったから、翼なんてなくたって生きていけると思っていた。実際に、ガートンの話と違って、空を失っても彼女は正気でここまで旅をして来たわけだし。だが、それは9回目までのユリアーナを否定することではないかと思う。
「ね、ヘルムート」
「うん?」
ヘルムートは床に落ちたタオルを椅子の背にかけ、もう一枚新しいタオルを荷物から出しながら返事をする。
「もし、わたしがまた誰かに翼を切られそうになったら、守ってくれる?」
「ああ」
彼は振り向いて即答をすると、新しいタオルをユリアーナの頭にかぶせた。
「わっ!」
「いくらでも守ってやる」
そう言って、彼女の髪を彼はがしがしと拭く。彼はまだ少しだけ涙声だ。それをユリアーナは気付いたが黙っていた。
「本当に?」
ユリアーナはタオルを両手でかき分けて、不安そうに顔を出す。ヘルムートは「本当だ」と言って、彼女の瞳を見た。それから、彼らはどちらからともなく、少しぎこちないキスを交わす。そして、どちらともなく唇を離したが、ユリアーナはヘルムートを追いかけるように顔を近づけた。
「ね、も一回……」
「君は、俺にねだるのが好きだな」
「うん」
恥ずかしそうに頬を紅潮させてそう言うユリアーナに、ヘルムートはもう一度優しいキスを与えた。ああ、あの雨の日には与えられなかったもの。斬り捨てられた自分のことを、少しだけ遠い過去のように感じる。こうやって、緩やかに何かが溶けていって、彼を許せるようになるのだろうか。いや、許せなくてもいい。何度でもキスをしてくれれば、それでいい。
(どうしようもないのは、ヘルムートだけじゃなくてわたしもそうだわ)
軽く肩を竦めれば、背で生まれたばかりの翼がぴくぴくと動く。それに気づいたヘルムートは「どうした?」と尋ねたが、ユリアーナは「ううん。なんでもない」と答えた。
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