第35話 あなたはわたしを二度斬り捨てる
ヘルムート以外の護衛騎士は手を出さず、2人の戦いを見守っていた。助太刀をしようとした護衛騎士に、ヘルムート自身が「手を出すな」と叫んだからだ。彼がどういう意図でそう言ったのかは、ユリアーナにはわからない。だが、それは彼なりの情なのだろうと思う。
ヘルムートは自分を殺すのだろう。ユリアーナはヘルムートの剣を躱しながら、その悲しい現実に向かい合った。だって、彼はほとんど無傷だけれど、自分は太ももから出血をしており、どんどん痛みが増している。いや、むしろ、どうして彼が一思いに自分を殺さないのかが不思議なぐらいだ。それぐらいのことは、三日間共に戦った彼女にもわかる。彼の剣には明らかに迷いがあった。
だが、ある一点から、彼の剣に迷いはなくなった。どしゃぶりの中、ヘルムートと静かに向かい合って間合いを測る。静かな目で彼はユリアーナを見て、剣を握り直した。その一瞬で彼の中で何かが変わって、迷いは断ち切られように感じた。それを嬉しいと思う反面、やはり悲しいとも思う。そうか、選んだのか。彼はテレージアを。そんなことは最初からわかっていたことだったが、それを再びわからされ、ユリアーナの心は痛んだ。
自分とヘルムートは数回会ったきりの他人だ。そうだ。自分たちの間には特に何の関係も生まれていない。最初から彼がテレージアを選ぶことはわかっていた。そもそもテレージアを選んでいたのだから、自分に会いに来たのだろうし。大樹を探したのだって、ラーレンを見つけることが出来るのかも、と思ったからに違いない。
では。どうして。
(どうして、迷ったの。ねえ。少しは)
少しは、わたしに情けをかけたの?
そう思った次の瞬間、ヘルムートの剣がユリアーナの剣を力強く弾いた。反動で柄がユリアーナの手から離れて、かなり遠くへと飛んでいく。
「ちっ……」
ユリアーナは腰に差したナイフに手をかけながら、数歩後退をした。が、太ももの痛みと足元のぬかるみのせいで足を取られ、かくんと膝が曲がる。一方のヘルムートは、勢いよく前へ強く踏み出した。
「ううっ!」
ユリアーナは体勢が崩れたところ、肩をヘルムートの手で強く押され、体を地面に倒された。抜いたナイフも手から落ち、泥水をかぶりながらうつぶせになる。暴れるが、体を起こすことは叶わない。ああ、これは、あの時と同じだ。8回目に、彼が自分の家で自分を殺した時……。
けれど、ここは外で、雨が降っているし、もう自分には起き上がれる力がない。
(ああ、彼の手が)
震えている。
ユリアーナはそれに気づいた。気づいてしまった。それは、雨で濡れて冷えているからではないのだろうと思う。
(彼は、わたしを)
殺したくないのだ。だが、仕方がない。どうしようもない。ユリアーナの瞳から涙が流れた。もう、ここで終わりなのだと思う悔し涙でもあったが、半分は、ヘルムートが自分の翼を切ることを躊躇してくれていることへの感謝でもあった。
「ヘルムート……」
地面に顔をつけ、ぐちゃぐちゃに土が頬に、額に、鼻にとつく。ユリアーナは顔をあげず、そのままで呟いた。思い出した。そうだ、あんな死に方は御免だ、と思う。一度では切れず、何度も何度も剣を入れて。その度に痛みで声をあげるなんて。
それは、10回目のユリアーナとは違う、8回目のユリアーナの記憶だ。それでも彼女の脳はそれを「自分」がされたことだと認識をしている。彼女は、がちがちと歯を鳴らした。自分が震えていることにようやく気付き、そんな状態でも声を必死に紡ごうとする。
「うまく切って……何度も切らないように……一撃で切って……お願い……」
その言葉を聞いたヘルムートは息を飲んだが、その音は雨音にかき消された。彼は彼女の腰あたりを踏みつけて起き上がれないようにしてから、翼を持ちあげた。「おい」と声をかけ、他の護衛騎士を呼ぶ。
「翼を引っ張っていてくれ。俺が切る」
翼を引っ張られて痛い。腰を踏まれて痛い、と思うユリアーナ。それから、太ももが痛む。ほかにも、軽く怪我をしているところがズキズキと今更痛みを訴えてくる。痛い。あちこちが。どこもかしこも。そうだ。痛くて仕方がない。体が。それから、心が。
(ああ、あなたは二度も、わたしを斬り捨てるのね……)
ユリアーナは恐ろしくて、もう目を開けていることが出来ない。目を閉じて次に再び開けたら、これが夢だったらいいのに、と思う。恐怖で体が震える。その震えを押さえつけるように、腰に載った彼の足が強く踏みつけた。
(ああ、もう駄目だ。ごめんなさい……わたし……ユリアーナの10回目を、守れなかった……そんなことは、無理だったんだ……)
頑張ったのになぁ……不思議と他人事のようにそう思う。そうでもしなければ、彼女の心は耐えられない。怖い。痛いのは嫌だ。死ぬのも嫌だ。でも、どうしようもない。そうだ、明日は何をしようか。ああ、そうだった、翼が白いからもうのんびりはしていられない……現実逃避でそんなことを考えたが、体内が熱くなって、涙が湧き上がって来た。
そうだ。もう自分は何も出来ないんだ。ラーレンは、この世界では生きられない。そう思うと、ユリアーナは悔し涙を流した。生きられない存在に生き返らされるなんて、一体何の罰だったんだろう。ここを乗り越えればなんとかなるなんて思っていたけれど、その先のことは一度だって具体的に考えることは出来なかった。だって、生きられないのだから。答えは初めから出ていたのではないか。
「ユリアーナ」
少し掠れたヘルムートの声。苦しそうに紡がれる声は、雨音をかき分けてユリアーナの鼓膜を突き刺すように放たれた。翼と背中の間に、ぴたりと彼の剣が当たっていた。それが、すっと離れる感触があった。
「俺を許すな……」
そう言って、ヘルムートは剣を彼女の翼と背を繋いだ場所に、強く、素早く、上から振り切った。彼の剣は、一撃でユリアーナの翼を体から切り離す。
「があああああああああああああ!」
次の瞬間、ユリアーナの背には耐えきれぬ痛みが与えられた。まるで体を半分に切られたような、そんな感覚。あまりの痛みに耐えきれなかったのか、叫び声をあげると彼女の脳で何かがバチッとはじけたようだった。翼をもがれた彼女は背を反らす力を失ってがくんと倒れ、ぬかるみに顔から落ちた。彼女は痛みで目覚めるのではなく、あまりの痛みで意識を失ったのだ。
雨は更に勢いを増し、彼らの体を突き刺すようにばちばちと降り注ぎ続けた。
護衛騎士たちは、ユリアーナを放置して魔獣のエリアに戻った。翼を切られたラーレンはどう手当てをしても死んでしまう。彼らはそれを知っていたし、この雨の中彼女を連れ帰ったところで別荘まで生きながらえるとは思えなかった。ならば、森の中に打ち捨てていくことが一番面倒がないと、誰もが思っていたからだ。雨は降り続き、視界がどんどん悪くなってきた。自分たちがつけてきたしるしを辿ってはいるが、それも急がなければいけない。
しかし、魔獣が出るエリアの途中でヘルムートが足を止めた。
「ちょっと待ってくれ」
彼は、彼女の背から切り落とした翼を他の護衛騎士に渡す。
「お前たちはこの翼を持って行って、クライヴ先生に薬を作らせてくれ」
「お前はどうするんだ?」
「俺は、さっきの場所に戻る。早くお前たちは翼を届けてくれ。魔獣たちにやられるなよ。いいか。必ずクライヴ先生にこの翼を渡すんだ」
そう言うときびすを返すヘルムート。護衛騎士たちがそれを止めようとしたが、彼は振り向かずに雨の中走る。ばしゃばしゃと泥水が跳ね返り、彼の足を汚していくが、そんなことはおかまいなしだ。
(俺は、テレージア様を『選んだ』と決めたのに……!)
足をぬかるみにとられながら、ヘルムートは荒い息を吐いた。ありがたいことに魔獣に襲われぬままなんとかたどり着くと、ユリアーナはそこに倒れたままだった。彼女はぴくりとも動かず、背から血を流し続けている。
「おい。まだ生きているんだろう……? 生きていると言ってくれ……頼む……」
返事はない。横向きにして脈と呼吸を確認する。雨は彼女の体の前面を汚していた土を洗い流す。ヘルムートは、彼女の頬、鼻などについた土を、軽く拭いた。半開きの口元。閉じた瞳。完全に力を失ってだらりとする体。
(冷たい)
彼は、自分のマントに彼女をくるんで抱き上げた。
「生きていてくれ……死ぬな……」
それから、彼は夢中で走った。彼は泣いてはいなかった。自分には、泣く資格なぞありはしないと思ったからだ。
(翼を失っては、ラーレンはラーレンではなくなるんだろうか)
彼女と大樹の元に行ったとき、彼女はまだコーカのままだった。だが、今はどうなのだろうか。白い翼になったのだから、彼女は間違いなくラーレンにはなった。けれど、その翼を失っている。大樹は、彼女をどうにか守ってくれないのだろうか。
(きっと、あの白い神が言ったのだから、意味がある。あって欲しい……)
空は真っ暗だ。もう夜も近い。夕方だろうが夜だろうが関係のない暗い雨雲。ばしゃばしゃとヘルムートは必死に走った。
しばらく走って、ようやく彼は例の大樹の前に出た。大きな木は雨に打たれながらもどっしりとして、その存在をやたらと感じさせる。
もう一度彼はユリアーナの呼吸を確認したが、あまりにも弱弱しい。だが、まだ死んでいない。
「大樹よ……頼む……ラーレンが、ラーレンが、死にそうなんだ……何かを……どうにかしてくれ……!」
ヘルムートは叫んだ。しかし、何も起こらない。大樹は雨に打たれ、周囲は恐ろしいほどの静けさに包まれている。視界が暗い。このままどんどん夜になれば、あたりは真っ暗になってしまうだろう。そうなれば、引き返すわけにもいかない。
「くそっ……」
そうだ。ヘルムートはごくりと唾を飲み込んだ。
『白き光の神よ、助けてください!』
藁にもすがる思いで彼は叫ぶ。彼は、ユリアーナを抱きしめたまま、白い空間へと転移をした。
「ふっ……ふうっ……」
どさりと腰を床につき、大仰に息を整えるヘルムート。いつもの白い部屋だ。ここでの時間は進まない。だが、時間に限りはある。慌てて助けを呼んだものの、何を尋ねれば良いのか彼には何も問いがなかった。そして、大きく息を吐き出すほど、自分は緊張をしていたのだ、と思う。
『これが、お前の二度目だ』
白い神は白い霧の塊として現れ、ヘルムートに語り掛ける。
「は、い……」
『問いを』
「ユリアーナを……ユリアーナを、助けてください……!」
『それは問いではない』
「わかって、わかっています。だが、あなたに言われた通りに、俺は森の大樹を探した……しかし、大樹は何もしてくれない。何もない。そんなものに意味はないではないか! 彼女はラーレンだ。ラーレンが……」
そこまで言って、ヘルムートははっと気づいた。ラーレンのために大樹を探せと言われた。だから探した。けれども。
「彼女が翼を失ったから、ラーレンではなくなったというのですか?」
『いいや、違う。彼女はラーレンだ』
「だったら……!」
『大樹には、ラーレンが祈らなければいけない』
「!」
ヘルムートは慌ててユリアーナの頬を軽く手でぱしぱしと打った。「おい!」と声をかけるが、意識は戻らない。
「ユリアーナ。ユリアーナ、起きろ、死ぬ前に起きろ……!」
『ここで彼女の意識は戻らない。大樹に祈れ。そして、いずれお前たちは本質に近づき、きちんと答えにたどり着くはずだ。後は聖女の力とその者の生命力次第』
「……えっ?」
驚いてヘルムートは顔をあげた。今、何と言われたのだろうか。本質? それにたどり着いた? 一体何を言っているのだ……混乱をしながら、彼は答えにたどり着く。
「テレージア様を救うことが、本質だったと……?」
『そうとも言えるし、そうではないとも言える』
「どういうことですか?」
ヘルムートは眉を寄せた。白い霧は、ふわりと「手」のように見える何かをすうっと前に突き出した。
『その者の翼でこそ、聖女を救うに満ちる』
「何!?」
その者、とはユリアーナのことだ。ヘルムートはすっかり血の気を失ったユリアーナを見てから、怪訝そうな瞳で白い霧を見た。先ほどから白い霧は「テレージア」ではなく「聖女」と言っている。それらは同じようで、同じではない。痣が消えそうになっていたテレージアは、聖女の力を持っていなかった。だが、白い神は「聖女」とはっきりと言っているではないか。
『ラーレン病の成分は、大人のラーレンと子供のラーレン、どちらも同じ程度抽出される』
「それが? 一体何を言っているんだ……」
そのことの何がおかしいのだ、とヘルムートは問いかけた。本来の彼ならば、きっと言葉の意味を理解することが出来たのだろうが、今の彼にとってはユリアーナを救うことに心が逸っていてそれどころではない。だが、冷静に言葉を返される。
『翼が小さくても、大人と同じぐらい抽出されるということは、どういうことだと思う?』
「え……」
それは。子供の翼の方が小さいのに、同じだけ抽出されるということは。子供の状態で、大人と同じだけの大きさの翼だったら、もっと量を含むということか? ヘルムートは何を言っているんだ、と言いたげに眉をひそめた。
『その者の翼は「つい最近白くなった」ばかりだ。しかも、大人と同じぐらいの翼の大きさで』
「……!」
『ゆえに、聖女を聖女として助けるには、彼女でなければ駄目だったのだろう。我々にも、今でこそわかる話ではあるのだが。時間だ。いいか。彼女に祈らせろ。翼を失っても、彼女はラーレンだ』
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