第34話 雨が降る

 はっ、はっ、はっ。


 自分の息遣いだけが聞こえる錯覚。


 ユリアーナは森の木々の間を駆け抜けていた。彼女を追うのは、ラーレン研究所が雇った傭兵たちだ。木の枝にあたって顔の頬にかすかに傷がついたがそんなことは気にしていられない。体中に汗が浮かび、心臓がどくんどくんと鳴り続ける。


(まさか、あっちが先に見つかるなんて……!)


 グリースが彼女の実際の家を知っていたせいで、そちらを回避されたと知ったらきっと彼女は「もおー!!」とへそを曲げたことだろう。この一か月近く、ちまちまと引っ越しをして、野営を繰り返してきたのにそれがすべて台無しだ。


 だが、思ったより相手の人数が多い。もしあの人数で家を囲まれていたら、と思うと、オープンな場所で見つかってすぐに逃げられたのは良かったと思う。あれだけの人数で一気に家に入られたら。窓をふさがれたら。そうしたら、あっという間に彼女は捕まっていたに違いない。本当にそう思えばラッキーだったと思う。ただ、防具を彼女は装備していなかった。腰の道具袋はともかくとして、剣を持つことが精いっぱいだ。


(やっぱり、運命には抗えないのかもしれない……)


 ちらりとそんなことを思う。駄目だ。抗わなければ。ここで折れては負けだ。何度もそう思って、自分に言い聞かせる。


 ありがたいことに森の中は自分の方が有利だ。慣れていない男たち相手にはそう簡単に捕まらない。しかし、彼らもなかなか体力があるらしく、手を緩めずに必死に彼女に追いすがる。空を飛んで木から木に移っていっても、途中で木々の枝葉が厚くなって走る方が早くなる。飛んで、走って、飛んで、走ってを繰り返したが、彼らをうまく撒くことが出来なかった。


(そもそも、こんな鬼ごっこに勝ったからといって、何か意味があるの? この森にラーレンがいるってことがわかったら、次はもっと人数を連れてくるんじゃないの? だったらもう……)


 この森を捨てなければ。いや、待て。森を捨てて、すべてを置いていってどうなる。ゼロから、今の自分が新しい場所で生きるなんて、そんなことは無理だ。もう、自分はどこにいったってラーレンだとバレてしまう。背の翼は気付けば真っ白になってしまっていたし、誰も……


(誰も、わたしを、守ってはくれない)


 ああ、世界中で自分は一人なのだ。そう思うと涙がじんわりと浮かんできたが、今は感傷にふけっている暇はない。木々が少なくなった場所で翼を広げて飛んだ。だが、広い空間に飛べば、弓矢が飛んでくる。見れば、男たちは8人ほど。ぐるりと回って離れた場所に着地をして時間を稼ぐ。


(殺さないと、駄目だろうか……)


 それは嫌だ。けれども、そうも言っていられない。また、飛んで森を離れても今は昼間だし、多くの人間に目撃をされてしまう。森を出た方が自分は目立ってしまうし、自分を追う人間の数が更に増えるだろうと彼女は思う。


はあ、はあ、と息を整えていると、男たちの「こっちにいたぞ!」という声が聞こえた。体力には自信があったけれど、追われる側になるとこんなにも体力も気力も削られるのだ……と苦々しく思う。


(いちかばちか……)


 ユリアーナは心を決めて、魔獣が出るエリアに続く、毒の木を駆け抜けた。彼らは、この森にそう詳しくない。きっと魔獣対策もしていないだろう。


(お願い……うまく……魔獣が出てきてくれますように……)


 それは、自分にとっても危険な賭けだった。だが、もうそうするしか彼女には選択肢はなかった。足がもつれるのを必死に前に進ませる。どれぐらい逃げたのだろうか。時間も彼女にはよくわからない。


(大樹……大樹のところに、いかなくちゃ……!)


 大樹が自分を守ってくれるとは思えない。しかし、彼女は一縷の望みを抱いて、魔獣たちの生息エリアに飛び込んだ。ギィ、ギィ、という声が聞こえる。毒の木を抜ければ、あたりの空気が変わった。背後には男たちの気配がまだある。


「はぁっ、はぁっ……」


 翼を広げて少し飛んだが、その先の木々の間は空いていない。足で逃げなければ。必死にユリアーナは足を動かした。恐怖で足がうまく動かない。けれど、遠くても背後にはがさがさと彼女を追う音が聞こえる。逃げなければ。逃げなければ、逃げなければ……。


「うわああああああ!」


 男の声。それはかなり後方だとユリアーナは思う。後ろを振り向いている暇はなかったが、きっと魔獣が現れたのだろう。


「なんだこいつらは!」


「魔獣だ!」


 ああ、それはご愁傷様。頑張って、と心の中で思ってもいないことを思いながら、ユリアーナは進む。


「!」


 すると、小さな肉食の魔獣が彼女の目の前に現れた。ユリアーナは「消えろ!」と翼を広げて威嚇をする。すると、その魔獣はユリアーナの決死の形相に恐れを抱いたのか、すごすごと逃げていった。幸運だ。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 とにかく。彼らが魔獣の相手をしている間に自分はもっと深く、深く。大樹の元へ行かなければ……。


 ユリアーナはもう考えることを止めた。自分はラーレンになった。ラーレンになったから追われている。ならば、きっと大樹が自分を助けてくれるのではないか……。


 そんな夢物語だけを思い描きながら、ひたすらに歩を進めた。背後で魔獣と戦っている男たちの叫び声がかすかに聞こえた。




「うう……」


 追っ手を撒けたのかはもうよくわからない。ユリアーナは魔獣に襲われながらも、魔獣のエリアをどうにか抜けた。毒の木を通り過ぎると、その場でどさりと座り込む。


「あーあ……ちょっと、やられたなぁ……」


 彼女もまた無傷ではなかった。魔獣と戦ったからだ。装備もしっかりとしていなかった。自分が甘かった。それでも、グリースに習った剣のおかげでどうにかここまで来られた。自分が過去にやったことは無駄ではなかったのだと思う。


「あともうちょっと……」


 だが、そのもうちょっとが、あまりに遠い。一度歩くのを止めたら、足はがくがくに震えて力が入らないし、魔獣にやられた太ももからは血が絶え間なく流れている。ここで自分は死んでしまうのかと思ったが、ひとまず震える手で腰につけた道具袋から包帯を出し、太ももを強く縛った。


 追っ手はついてきていない。なんとかなったのか。ああ、とにかく今日はこれで一命をとりとめた……そう思うと、ぽつぽつと雨が降り出した。


「まいったな……」


 雨は、あっという間に大降りになる。この森で雨が降ることは珍しいが、降らないわけでもない。ここまで降ると、空を飛ぶ翼も若干重くなる。彼女は呼吸を落ち着けた。ああ、夜。夜にさえなったら。そうしたらこの森を出ようか。いや、この森を出たらいつもすぐ死んでいたではないか。だからここに残ったのに。ああ、違う、そうだ。大樹……。


 意識が混濁するほど疲れた。しかし、そうも言っていられない。雨で状況が悪いならば、よりさっさと動かなければ。そう思った時だった。


「……!」


 ユリアーナはどうにか立ち上がった。誰かが、別の方角からやってくる。男たちが二手に別れたのか? そう警戒をしながら、音がする方向を見た。


 黒い茂みから、がさりと出てくる人影。


「なんだ。ずいぶん、やられたじゃないか」


「……はは。おかげさまでね。一人だったもんで」


 雨の中、彼女の前に姿を現したのはヘルムートと以下6人。彼らもまた魔獣と交戦をしたのだと見てわかる。雨に濡れて、彼の前髪はほぼ下りている。ああ、かっこいいな、その髪もいいわね、と声をかけようとしたが、先にヘルムートが尋ねた。


「追われていたのか」


「うん。ここまで逃げて来たんだけど……なんでここにいると思ったの?」


「君の家にいったらいなかったのでな……だが、どうも、ただの留守ではないように思えたので。君がラーレンになって、大樹の元に行ったのだと思った。しかし、追われていたんだな」


「あーあ、ヘルムートだけなら、逃げられたかもしれないのになあ……」


 見れば、弓矢をもった騎士もいる。飛べば、翼を射抜かれる。ラーレンやコーカは飛ぶ前に予備動作が必要だから、十分に構えることが出来るだろう。ああ、いっそのこと本当に鳥のように、あっさりと飛べたらよかったのに、などと思う。


「驚かないのね。わたしがラーレンだって」


「ああ……知っていた」


「ねえ、わたしも知っているのよ」


「何をだ?」


「あなた、5回目なんでしょう」


「……!」


 ヘルムートの表情がこわばる。一方のユリアーナはにやりと笑った。


「わたしは10回目なのよ。ずっと、ずっと死んでた。何度でも殺されて。あなたにも殺されていたわよね」


「10回目だと?」


 二人の会話がよくわからない、と彼の後ろにいる護衛騎士たちが顔を見合わせる。ヘルムートはちらりとそれを見て、手で制した。


「その、君の10回で、テレージア様は助かったのか?」


「知らないわ。そんなの。でも、助かってない気がする。わたしは森から出ようとして何度も殺されたし、今回は仕方がないから森の中にいた。どうにかならないかと思っていたんだけど……はは、これは、どうにもならないみたいね」


 そう言って、ユリアーナは剣をヘルムートに向けた。護衛騎士たちはみな剣を構える。が、それをヘルムートはまたも制する。


「それは、ラーレン狩りで殺されたのか」


「そうね。大体は。あとは……クライヴ先生がテレージア様にラーレン病だっていうのを伏せていて……そのせいでテレージア様が死んだから、って逆上した護衛騎士がクライヴ先生を殺しに来たりもした。それに巻き込まれて殺されちゃったりもしたわね」


「!」


 それは、ヘルムートが知らない「回」のことだ。彼がいない、あるいは彼が覚えていない、または、彼であって彼ではないものがいた「回」の話。


「でも、雨が降っていたことは一度もなかったかな。わたしが死ぬ日に……」


 だから、生きると言いたいのか。そうヘルムートは言おうとしたが、言葉が喉に張り付いて音にはならなかった。ユリアーナもそれ以上の言葉はなく、二人の間を雨だけが遮っていた。


「自分が殺される覚悟もあるのか、と聞いたな」


 ヘルムートの言葉は、ユリアーナが以前彼に聞いた言葉だ。ユリアーナはそれに答えないが、勿論覚えていた。


「覚悟は正直のところない。だが、俺は君の翼をもらう」


 ヘルムートの声は低い。絞り出した声には苦渋の響きが伴っていた。剣を構える。ユリアーナは「はは」と笑って


「一応、抗ってみようかなぁ……」


 と、彼女もまた剣を構えた。

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