第33話 追われる者と追う者

 ユリアーナの母親であるオリエがあの家を見つけた時はほぼ廃墟になっていたが、大量の乾パンや穀類、いくつかの調味料などが置きっぱなしになっており、井戸も家の裏にあったため、栄養は多少偏ってもどうにか過ごすことが出来た。ある程度の年齢になったら、ユリアーナはガダーエの町に買い物に行き、人々に買い物の方法を尋ねつつ、わずかな銀貨で食べ物を購入していた。


 オリエはラーレン研究所から逃げる時に、いくらか貨幣を手にしていた。それが底を尽きる前に、幼いユリアーナがギルドに登録をして、薬草やら何やらを摘んで金を稼げるようになったのは、本当に幸運なことだった。森には果実や木の実、茸が生えていて、オリエはそれらを人の目につかない夜、摘んでいた。それらの食事はユリアーナにとってはたんぱく質が足りなかったものの、ギルドで稼いだ金で少しの肉を購入できたし、時折鳥の卵も採ってくることが出来たし、なんとかなってはいた。


 しかし、ユリアーナが成長をしだすと同時に、オリエは逆に貧相になっていった。食事を出来るだけユリアーナに食べさせようとオリエは我慢をしていたからだ。どんなにユリアーナが頑張ってギルドで稼いできても、薬草やら何やらの採取作業はそう高くない。時々高所での作業も請け負ってはみたものの、子供の彼女が出来ることは多くなく、低賃金で十分な栄養を得ることは難しかったからだ。


 オリエは残念なことに、あまり生きるための知恵がなかった。彼女はあのラーレン研究所に幼い頃に捕らえられた個体で、世の中で貨幣が必要だとわかっていたが、どうしたらそれを手に入れられるのかはわかっていなかった。また、森の小動物に罠を張って狩ることも彼女には難しく、ひたすら「誰かに見つからないか」と怯えて隠れて生活をしているだけだった。


 そんな彼女のもとに、ある日、一人のコーカの男性が尋ねて来た。ユリアーナはギルドの依頼を受けて家を留守にしているところだった。


「研究所のやつらがお前を探している」


 ぼろぼろの翼を持ったコーカに、オリエは見覚えがあった。それは、ユリアーナの父親だった。研究所を出てから数年経過をしていたし、当時に比べて彼は相当やつれた顔をしていたが、見間違うわけがない。


 彼らは決して互いを愛していたわけでもなく、実験として交わっただけだった。仕方がなく抱かれた。泣きながら抵抗をしていたオリエをその男は研究所員の命令で無理やり犯した。だが、彼に対しての憎悪はオリエにはない。何故ならば、彼もまた被害者なのだと知っているからだ。


「あなた、あなた、どうしてここに?」


「お前が言っていたんだろう。ラーレンならば、大樹のある場所を目指すと。ああ、安心しろ。そんなこと、研究所のやつらには話していない」


「どうして、あなたが研究所から……」


「俺はもう用無しになったってことで、お役目御免になったのさ。何人ものラーレンに子供を産ませたが、どの子もコーカだった。それだけの話だ」


「でも、だからって、どうして? どうして研究所の動きをご存じで、どうして、ここに。それに、その翼は」


「俺は、もうすぐ死ぬ。妙な薬を飲まされて、何やら、よりラーレンが生まれやすくなるような、そんな種を作る薬とかな、そんなもんを毎日あれこれ飲まされて、ここ一か月、羽根はどんどん落ちていくし、毎日血を吐いている。体の内側がまるで空っぽになったようだ。研究所に残っていたラーレンの女が立て続けに死んで、やつらは焦ってさ。一度はあきらめたお前を探そうとしていて……俺が研究所を出る前に、ちょうどお前の噂が入って来た。だから、まあ、あれだよ……何日も探してさ、ようやく飛んできたってわけ……」


 オリエの前にいるコーカは、確かに既に立っているのもつらい、という様子で壁に体をもたれかけている。慌ててオリエは「椅子に」と勧めたが、彼は首を横に振った。


「はは、ぼろぼろの翼でも、地上を行くやつらよりは早くお前の家を見つけることが出来た。ほかの森にも行っていたから、ちっと時間はかかったが、まあ、間に合ったかな……」


「ありがとう……ありがとうございます」


「礼なんていらんよ。俺は、研究所に厄介になることで、家族に多額の金が手に入るってことで、命を捨てた。だが、お前たちラーレンは違う。捕獲されて無理やり連れていかれて、そこで実験に付き合わされているんだろう。折角逃げたのにさ……さすがに、可哀相だと……」


 そう言って、男は咳き込んだ。彼自身が言うように、彼の口からは血が流れる。


「だから、早く逃げるといい……この森に大樹があるんだったら、大樹のとこにでも行けばいいし、そうじゃないなら、どこかほかの森に。どこまであんたが逃げおおせるかはわからないけどさ……」


 彼はあっさりとそれだけ告げると、背を向けた。「待って……」とオリエは口に出した。


「なんだい」


「……あのっ……お願い、が、あります……」


「どうぞ」


「今、どこに暮らしていらっしゃるのですか」


 そして、彼女はユリアーナの父親に、自分の望みを打ち明けた。ここから逃げても、いつかは捕まるだろうと。彼女はそう言って、翼を広げた。白い翼はあまり層が厚くない。一枚一枚の羽根が薄い。


「お前……」


「わたしの翼も貧相になって来ました。でも、娘は違う。娘の翼は、本当にしっかりとした翼で……コーカだから空も自由に飛べますし、あの子にだけは栄養があるものを与えて来ました。何かあっても、あの子一人なら逃げられるかもしれませんが、わたしが一緒にいては、それがかないません。だから」


 だから、あの子が死んだことにして。あなたと偶然出会ったことにして。そうして、研究所の人間に捕まろうと思う。彼女は震える声でそう告げたのだった。


 これが、ユリアーナの母親が、ユリアーナの前から姿を消した真相だ。もう、その真相を知る者はこの世界にはいない。




「クライヴ先生を呼べ!」


 翌日、朝からテレージアがいる別荘は騒がしかった。昨日は体調がよかったはずのテレージアが、突然の発熱、しかもそれも高熱で意識が戻らない。


 主治医に見せて解熱剤を処方してもらったものの、それだけでは拉致があかないということで、護衛騎士はクライヴの元に向かい、急遽馬に乗せてクライヴを無理矢理連れて来た。カミルも一緒だ。


「先生、テレージア様の熱が非常に高く……」


 主治医はクライヴの姿を見て頭を下げる。彼らはあまり仲が良くないものの、主治医もすでにテレージアの容態については匙を投げている。なんとかクライヴが何かわかれば……と思わずにはいられないところまで来てしまったというわけだ。


「……!」


 クライヴは、テレージアの指先が不思議な形で固まっているのを確認した。それは、痺れからの硬直だ。もう、間違いがない。彼女はラーレン病の亜種にかかっている。それは、クライヴの心の中では疑いようがない事実だった。


 だが、それをここで言ってしまうのか。それとも黙っているのか。どうしたら良いのか……先日からの悩みに、彼はまだ答えを出していなかった。そして、森からここまで馬に乗っている間も、ずっとずっとそのことに頭を悩ませていたのに、それでもまだ。


 と、その時、彼の後ろからヘルムートが声をかける。


「先生。ラーレン病ではないですか」


「……」


 驚くほど、冷静な声。クライヴは、ばくん、と心臓を跳ねさせた。じんわりと額に嫌な汗が出てくる。それは、彼にとっては初めての出来事だった。


(ああ、本当に心が動揺すると、こんな風に人は汗をかくのか……確かに、先日彼に、あの枝葉を持ってきてラーレン病に効くんじゃないかと言っていた。やはり、知っていたのだろうか……)


 心のどこかでは、冷静に自分を見ている。が、反面、すぐにでもヘルムートに「違う」と言わなければ、と彼を急かす声も聞こえた。違う、ラーレン病の症状は……その言葉は、クライヴの口からは出ず、主治医の口から放たれていた。


「ラーレン病ならば、あんなに発熱を繰り返さないで、肺を患ってから静かに徐々に弱って最後に呼吸が出来なくなる。テレージア様ほど、あちこちの機能不全には陥らないはずだ」


 ああ、そうだ。だが、これはラーレン病の亜種だ。クライヴは唇を噛み締めた。


「……ですが、亜種であれば。指先の痺れ、聴覚の衰え、そして繰り返す発熱、それから蕁麻疹……それらの症例は……数少ないですが……あります……」


「何だと!? では」


「僕が……知っている限りでは……これは、ラーレン病ではないかと思います……」


 苦し気にクライヴがそう言うと、その場にいた人々――主治医、ヘルムート、ラファエル、もう一人の護衛騎士、カミル、そして二人の女中の七人――は、ざわついた。


「ラーレン狩りを今から始めて間に合うでしょうか」


 護衛騎士が困惑の表情で言う。ラファエルは「ううむ……」と苦々しく唸った。そもそも、あてがないのにラーレンを探すとなると、どれほどの日数がかかるのかという話で、もしかしたらラーレンを発見出来ない可能性の方が高いのだ。


「先生、薬をどうにか手に入れることは出来ないでしょうか……」


 無理だとわかっていたが、ラファエルがクライヴと主治医の二人に尋ねる。クライヴは首を横にふり、主治医は「王城に問い合わせてみます」と言った。


「そうですね……それで薬が手に入れば……」


 とクライヴは言う。


「クライヴ先生は、ラーレンの翼から薬を作ることが出来ますよね」


 ヘルムートの冷たい言葉に、クライヴは目を見開いた。それは、ラーレンを殺したら、という意味だからだ。カミルは唇を引き結んでクライヴを見る。


「……ああ、出来るよ……だと言っても、それをテレージア様が望まれるのかは……」


「望んでいなくとも、作っていただきます」


 ヘルムートはそう言うと、部屋から一人すぐさま出て行った。彼の様子がおかしい、と気づいたラファエルは、ヘルムートを追いかけて「おい」と声をかける。


「ラーレン狩りをするのか」


「……心当たりがある」


「本当か」


「ああ。だが、一人で行く」


「数人連れていけ。何があるかわからないだろう」


 ラファエルのその言葉にヘルムートは驚いた顔を見せる。


「怒らないのか。詳細も言わずに、勝手をする俺を」


「何か理由があるんだろう。お前がここ最近休みをとっていたことは、関係があるんじゃないのか? だって、お前が言ったからクライヴ先生は認めたんじゃないか。だったら、話の道筋はよくわからないが、それでもお前を信じるさ」


 そう言ったラファエルをヘルムートはじっと見つめてから、ラファエルの胸元に自分の拳をトン、とあてた。


「お前は、テレージア様の傍にいてくれ。行ってくる」


 それへ、ラファエルは力強く頷いた。

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