第36話 大樹の主

 もうすぐ、きっと死ぬ。なんだか、体の痛みがどんどん鈍くなっていく。痛みが消えていくのではなく、痛みを感じなくなっているのだ……ユリアーナはどんよりとした意識の中でそんなことを考えていた。


 土台、無理だったのだ。でも、仕方がなかった。自分に出来ることはそう多くなかったし。折角グリースに剣を教わったけれど……ああ、ヘルムートと共に大樹に行けたのだから、剣を教わったのはまあ悪くはなかった。家から離れた場所に居を移して隠れようとしたのも台無しになったが、それをやっている時には気が紛れていたし、あそこでなければ、あの人数から逃げきれなかった。それに、あれがなければ自分はきっと日々生きた心地がしなかっただろうと思うから、結果的には良かったのだと思える。


 そう。結果的に。終わってみれば。


 すべてが、あっという間の出来事だった。ああ、血が流れていく。背中にひりつく痛みを感じていたが、それも今は鈍くなっている。が、血が流れていることだけは感じ取れていた。ぬるぬると流れて、何かの布の中に溜まっていく……布? そうだ。何かに自分は包まれている……。


――ユリアーナ! ユリアーナ!――


 声が聞こえる。でも、自分は目を開けるどころか返事をすることも出来ない。このまま死んでいくのだと思えば、静かにして欲しい。だが、その声は更に大きくなった。


――ユリアーナ! ユリアーナ! おい、起きろ、頼むから起きてくれ!――


 ヘルムートの声。そうだ。自分はもうとっくにヘルムートの声がわかるようになっていたんだ……そんなことをぼんやりと思う。


――ユリアーナ! 祈れ!――


 祈れ?


 何を?


 深い深い暗い闇の中。意識が閉ざされようとする。だが、それを邪魔するように、声だけが届き続けていた。


――ユリアーナ! 祈れ! 生きたいと言え! 君が、大樹に、祈るんだ……!――


(ああ、そうだ……わたし……)


 一度は諦めてしまったけれど、本当は。


(わたし……生きたいな……まだ死にたくない……お願い……)


 ゆっくりとユリアーナは瞳を開けた。瞼が重たい。目が半分も開かないし、その目は焦点もあっていない。ヘルムートが自分を覗き込んでいることすら、彼女の瞳は映していなかった。


 しかし。


「おねがい……たすけ、て」


 掠れる声が、ユリアーナの唇からかすかに漏れ出した。それは、紛れもなくラーレンの祈りだった。



 

 突然、闇を切り裂くように大樹に縦の光が放たれた。ヘルムートは腕の中のユリアーナを強く抱きしめすぎぬように気を使いつつ、突然の光に目を閉じる。


 目をうっすらと開いて光が消えた後を見れば、大樹の幹がぽっかりと開いている。恐る恐る立ち上がって、そこへと向かうヘルムート。大樹という名前に恥じぬ太い幹は、大きな洞のように彼らを受け入れた……と思った瞬間、目の前の光景が突然変わる。


「うわ!?」


 瞬間移動の魔法か、とヘルムートは驚く。いや、本当の瞬間移動の魔法を彼は使ったことはない。魔法を使える者はごく少数で、そういった魔法が「あった」と言われていることだけを知っている。しかし、例の「白い神」への文言後に自分の身を瞬間移動――本来は移動をするのではなく、空間の移動軸がむしろこちらにやってくるのだがそこは置いて――をしたこともあったので、なんとなく彼は「そういうものなのだ」と体で理解をした。


「ここは……」


 そこには、まるで球体の中にぽつりとある一軒家。完全に閉ざされた世界だった。これが、噂に聞く「魔女の家」なのだろうか、と彼は思う。


(魔女。すでに過去のものだと思われていたが……生きていたのか?)


 おずおずと一軒家のドアをノックする。すると、誰も何も言わなくともドアが勝手に開く。まるで彼を招いているかのようだ。


「し、失礼する……」


 腕の中のユリアーナがぐったりしているものの、ヘルムートもこの出来事にはかなり驚かされており、つい、腰が引ける。おずおずと中に入ると、家の中は雑然としていていろんなものが床に積みあがっていた。なのに、広いからなのか、不思議と静かでさわやかな空気が流れている。


すると、一人の人物が部屋の奥から現れた。見れば、褐色の肌に短髪の金髪の男の子だ。年のころ13,4歳ぐらいに見える。身長もヘルムートの胸元あたりまでしかない。


「おい、お前はラーレンではないな?」


 雑な問いかけに、ヘルムートは答える。


「ラーレンは、彼女だ」


「ラーレン狩りにあったのか?」


「ああ」


 嘘ではないので、素直に頷いた。自分もラーレン狩りを行った一人だと彼は思ったからだ。


「失礼」


 彼はユリアーナを包んだマントを外して、彼女の背を一目見て飛びあがった。


「わあわあ、これはいかんぞ。これは、すぐ死んでしまう。重症以上の重症だ! 今すぐ処置をしなければ」


「医師なのか」


 そのヘルムートの言葉に、少年は「翼を切られたラーレン専用の魔法使いだ」と答え、それから「言っておくけど、お前よりずいぶん年上なんで、そこはよろしく」と言った。




 翼を切られたラーレン専用の魔法使い。それはどういうことだろうか、とヘルムートは思う。が、彼は「ちょっとそこで待っていて」と言われ、ひとつの部屋に一人取り残された。いくつも色んなソファや椅子、小さなテーブルなどが雑然としている、わけがわからない広い部屋だ。


 その奥に繋がる部屋で何かをしているようだったが、繋がっているドアは閉められていて「何かをしている」ことしかわからない。とは言え、きっとこれでユリアーナはどうにか一命をとりとめるのだろうと思うと、少しばかりほっとする。


(テレージア様が助かるとわかった時よりも……ほっとしているのか、俺は……)


 罪悪感だろうか。そんなことを考えていると、もう一人通路から人が現れた。その姿を見て、ヘルムートは息を飲む。


「!」


 その人物は、片翼のラーレンだ。年齢は30代後半ぐらいの男性。片目に眼帯をしている。


「茶を」


「あ、ありがとう……」


「リーチェ師ならば大丈夫だ。きっと、お前の彼女をどうにか治してくれるだろう」


 リーチェ師。それが、あの少年のことなのか、とヘルムートは思う。その言葉にほっとして、彼の全身から力が一気に抜けた。じわりと目の端に涙が浮かんだが、それをぐいとぬぐって、彼の言葉を訂正した。


「彼女ではない」


「そうか」


「あなたも、翼を切られてここに……?」


「そうだ。ラーレンは片方の翼を切られただけで死んでしまう。だが、俺は体が丈夫だったので、なんとかこの大樹を探し出して、祈ることが出来た」


 淡々と語る男性。見れば、腕には何かでつけられた多くの傷跡がうっすらと見える。それが、ここに着いて以降のものではないことは明白だ。片翼でここにたどり着くには、相当な苦労をしたことだろうと思う。


「翼を切られても治せるならば、彼はもっと表舞台に出てもいいんじゃないか……?」


「何を言う。それは、どうせ治るから翼をどんどん切り落とせと言う意味か? 翼を失ったラーレンは、空そのものを失う。その心を救うことは誰にも出来ない。俺は、空を失ってしまって、気が違ってどうにもならなかったので、森から出ることが出来ない。だから、ここに置いてもらっているだけだ」


 翼を失ったラーレンは空そのものを失う。その心を救うことは誰にも出来ない。その言葉はヘルムートの胸に響いた。だって、それまでそんなことを考えたことがなかった。家だって普通にヒュームたちと同じような家で、同じような食生活で、何も変わりはない。ただ、飛ぶ翼があるだけ。そう思っていた。しかし、根本的にラーレンやコーカは自分たちと違うのか、とようやく思い至ったからだ。


「ラーレン研究所にいるラーレンたちは、長く生きない。それは空がないからだ。空を飛ばず、空を見ず、建物の中で一生を終える。早く死ぬ。俺は、幼い頃に脱出を測って、最後にはラーレン狩りにあって、片翼を奪われた」


「空を失うということは、どういうことなんだ?」


「生きる意味を失うということだ。ラーレンは存在だけで今はすぐにラーレン狩りにあってしまうから、空をなかなか飛べない。だから、ラーレンはみな弱っている。遅かれ早かれ、この世界から消えてしまうだろう。仕方なく夜空を飛ぶ。空は良い。何のしがらみもなく、何の制約もなく。何故空に生きられないのか、と思う」


 そう彼は告げるが、幼い頃からもう彼は空を飛べないのだ。ヘルムートはそれを「覚えているのか、空を」と尋ねた。それへ「そうだ。覚えていて、ずっと囚われる」と彼は答える。


(ユリアーナは助かっても……)


 空を失うのか。助かれば、それで良いと思っていた。いや、自分が彼女を切り捨てたことはなかったことにはならないが、それでも、生きていればと思った。しかし、それはただの彼の思い違いだったのかもしれない。


「だが、何にせよリーチェ師はラーレンを救う。その後、気が狂うラーレンもいる。一時的に生き返っても、結局死んでしまうラーレンもいる。どうなるのかわからないけれど、それでもラーレンを救う」


「どうしてラーレンを救えるようになったんだ?」


「……」


 それへは彼は首を横に振るだけだった。それは、わからない、とか、知らない、という意味合いではない。話さない、という意思表示だ。



 リーチェ師、と片翼のラーレンに呼ばれた少年のような男性。彼は、齢すでに120を超える長寿の種族の生き残りだ。200年前には絶滅していると言われていたため、ヘルムートもピンとは来ないのだが。


 長寿ゆえ、子供が出来にくい。一生で女性の排卵期が5回しかない種族で、その時期を逃すと子供は出来なくなる。昔は集落をつくって暮らしていたが、彼のように集落を離れてしまう者が増え、純血の血筋が減っていき、やがて当たり前のように滅んだ。ただそれだけのことだ。


 それほどの長寿種となれば、70歳程度で死んでしまうヒュームたちに比べて多くの知識を持っている。リーチェはここで彼の面倒を見ていた魔術師が息絶える姿を見守り、そしてその魔術師の意思を継いだ。それこそが、ラーレンたちを救うことだった。


 翼を切られたラーレンの傷口をふさぐだけでは、ラーレンたちはそのまま死んでしまう。傷口をふさぎつつ、体内に薬と治癒魔法との両方を同時に与えなければいけない。簡単に治癒魔法と言うが、そもそも治癒魔法を使える者はこの世界には限られている。リーチェにはその才覚があった。


 また、その時に与える薬の成分にも問題があった。それは、大樹の樹液を使って作られたもの。森の大樹は、同じ種類の木がこの大陸には見つからないものだった。


 それから、彼にはもうひとつやらなければいけないことがあった。それは、ラーレン病の解明だ。ラーレンの翼を切らずに済むように、特効薬が他にないのか、人工的に作れないのかを長い年月研究をしていた。ラーレン研究所のように「産んでラーレンを増やさせる」ことは出来なかったものの、逆を言えばそんなことに力を入れる暇があれば、彼はただただ特効薬を作ることに専念を出来た。


「特効薬とか言っても、まあ、ラーレン病にかかってる人がいないから本当なのかは立証できないんだけどさ」


 と何度も彼は呟いたが、その割には様々なバージョンを経て、少しずつ薬は「それっぽく」なっていった。


 そんな時だった。彼のもとに、翼を切られた一人の女性が訪れたのは。その当時、魔獣たちは今ほど多くなかったので、翼を切られたラーレンでもこの大樹に案外とたどり着きやすかったようだ。それでも、当然彼女は瀕死の状態だったが。


 リーチェは彼女に恋をした。そのラーレンを治して、共に彼女と暮らそうと頭を下げて頼み込んだ。翼を失って、まるでただのヒュームになった彼女は、恩返しがしたい、と言って共にここで生きるようになった。


 そして二年後。


 彼女は、なんと、ラーレン病にかかってしまう――。

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