第31話 兆し
ヘルムートがユリアーナのもとにやってきたのは、もうすぐ夜になる手前、夕方だった。とはいえ、森の木々に覆われて、既に視界は暗い。
ありがたいことに、その日ユリアーナはもともと住んでいた家に戻っていた。なので、ヘルムートをまったく普通に出迎えた。背の翼を覆うようにショールはかけていたが。
きっと、まだ大丈夫だ。外側の翼は黒い。それに夕方だし。内心の動揺を悟られないようにと「久しぶり」と声をかけた。
「ああ」
「肩の傷は? 心配していたのよ」
「うん。医師に見せた。そう大したことがないようだ。今はまだ動かすと少し痛むが、そうほどなく治るだろう」
「そっか、よかったぁ……」
ユリアーナは心底安心をして、ほっと息を吐き出した。だが、その直後、心の中で「安心するようなことじゃないのに」とも思う。その、どちらの気持ちもある自分の感情に揺れてしまう。
彼女は「家に入る? それともここで?」と尋ねた。ヘルムートは「ここで」と答える。なるほど、そう大した話ではないのだろう、と思うユリアーナ。
「大樹の葉」
「あっ、うん」
「成分を調べてもらったが、特に何もなかった。ただの葉とただの枝だった」
「……そうなんだ……」
やはりそうか、と思った。リューディガーから結果は聞いていたものの、彼の口からそれを聞くと、やはり再び落胆をする。これが、あの大樹の枝葉からラーレン病を治す成分がみつかった、と言われれば。いや、だが、もう少し持ってきたいから一緒に再び、と言われても困るとは思う。
「残念ね」
「ああ、残念だ。結局、あの大樹が何の役にたつのか、まったくわからないままだ」
「そうだね」
「しかし、何かあるのだろうと思う。そうでなければ、俺が探しに行った意味がない」
それには、ユリアーナは言葉がない。彼女は「どうしようか」と心が揺れている。
(あなたも、今回が最後なんでしょう? ユリアーナと違って、5回目だって聞いた……大樹を探せと言ったのは、リューディガーなの? それに……本当は、大樹の枝葉に成分がなかったなんて言わずに、わたしを安心させておいた方が良いんじゃないの……?)
聞きたいことはたくさんある。けれど、それを聞いて、尚自分がラーレンではないと言い張ることは難しい。静かに口をつぐむユリアーナに、ヘルムートが声をかけた。
「まあ、君と共に戦うのは悪くなかった。報酬は渡したが、礼をいっていなかった気がしてな。ありがとう」
「!」
そんな言葉を彼の口から聞くなんて。意外に思ってユリアーナは目をぱちぱちと瞬く。そして、慌てて
「わっ、わたしも……!」
と返した。
「わたしも、その、ヘルムートと一緒に戦ったりするの……なんていうの……良かったよ」
「そうか」
「うん。あの……誰かと一緒に戦ったことなんてなかったから、本当は誰とのことも比べることが出来ないんだけど……そのう、すごく、戦いやすかったの。ありがとう。つ、伝えるのが遅くなっちゃったけど……」
「……いや、うん……そうか……」
「そっ、そういうわけだから……」
何が一体そういうわけなのかはわからないが、ユリアーナは困ってそんなことを口走った。ヘルムートも
「ああ。一応、報告だけはしなければと思っただけなのでな。じゃあな」
と言って馬に乗った。
「……あ、のっ……」
「うん?」
「……なんでもない」
「?」
ヘルムートは馬上からじっとユリアーナを見下ろした。ユリアーナは少し背を丸めて、困ったように顔を伏せる。それは、言葉を発そうかどうしようか悩んでのことだ。
(テレージア様はまだラーレン病だと診断されていないのか、なんて聞こうとしちゃった……馬鹿だ。今更そんなことを聞いたってどうしようもないのに)
と困惑をして、口を閉ざして目を伏せるユリアーナ。自然と少しだけ前のめりになるその体勢。そこに、ヘルムートの視線が注がれていることを、彼女は一瞬忘れてしまった。
「君は……」
「えっ? 何?」
顔を上げて、はっと体を起こすユリアーナ。目線が合う。だが、ヘルムートは「いや、なんでもない。では失礼する」と告げて、馬の手綱を操った。
彼は、夜のとばりが下りる森を急いで抜けようと馬を走らせた。ユリアーナはその場にぺたりと座り込んで、彼の姿が消えるまでじっと見送った。
ヘルムートは馬を走らせながら、ユリアーナの言葉を反芻する。
――わたしも、その、ヘルムートと戦ったりするの……なんていうの……良かったよ――
うまく言葉を選べなくてたどたどしいユリアーナ。それはきっと本音だったのだろうと思う。ああ、それだけで終わればよかったのに、と眉根をひそめた。
彼女の翼は一見黒かった。が、馬に乗って上から前のめりになっている彼女の背を見れば、また見え方が違う。ショールにほとんど隠されていたが、白い羽が混じっている部分がちらりと見えた。周囲が暗くても見間違えるわけがない。ぱっと見た感じは真っ黒だった。だからこそ、白いものが混じれば目立ってしまう。彼女は、自分の翼が既に白くなりかけていることをわかっているのだろうか。
(もうすぐラーレンになるのか)
そして、もうすぐ、クライヴが「ラーレン病です」と言い出すだろう。万が一それがなければ、自分の方からクライヴに尋ねるしかないと思う。
王城側にいる知人に連絡をとって、ラーレン研究所について調べるように頼んだが、その結果は芳しくなかった。ラーレン研究所は以前王城主導で動いていたが、今は完全に独立をしており、もともと研究所があった場所は跡地になって、姿をくらませているのだという。何にせよ、研究所に頼んで一人のラーレンの翼をくれと言っても、そう簡単にはくれないだろうと思う。
そして、薬はないかと調べてもらったが、そもそもラーレン病の薬は「新鮮なラーレンの翼」がなければ作られず、また、作った後にも服用期限があるのだと言う。それはそうか、当たり前のことだな、と思う。ならば、尚のこと「これがラーレン病の特効薬です」と売っている闇商人のことは信じられない。
(どうにかして、他のラーレンの翼を手に入れられないだろうか……)
自分の力のなさに、腹が立つ。こんなことならば、大樹を探しにいっている時間に、ラーレン研究所についてもっと調べれば……と思うが、もう時間がない。
(ああ、ユリアーナを殺したくない……)
はっきりと。ようやく、彼はその思いに至った。だが、どうしたらそれを回避できるというのか。良い案が見つからないまま、どんどん時間が過ぎていく。
(彼女の翼を切るなんて……彼女を殺すなんてこと……)
出来るだけ、心を閉ざそうと思っていた。だが、大樹を探しに共に朝から晩まで一緒にいれば、人と人、情も湧いてしまう。そうならないようにと努めた。だが、それがどうにもうまくいかなかった。表面上では彼女に対して少しばかり冷たくあしらっていたつもりだが、それもうまくいっていたのかどうか、ヘルムートには自信がなかった。
思えば、彼女のように自分とまるで対等のように会話をする女性をほとんどヘルムートは知らなかった。きっと、彼女の家に夜侵入しなければ、彼女は騎士である自分を「上の者」として見て、それに合わせた言葉遣いになっていたに違いない。ギフェの武器屋で会話をした時のように。しかし、少し砕けた調子で語り掛ける彼女と共にいるのは、対等さを感じてとても良かった。
それに。困ったことに、一日を終えて彼女と共に食事をゆっくりとるあの時間が好きだった。彼女は「疲れた」と言いつつスープを作ってくれたり、茶を淹れてくれたりしてくれた。あのひととき。森の中で、日常から離れて過ごすあの時間。たった三回のことだったが、ヘルムートにとっては心地が良い時間だったのだ。けれども。
(きっと、もう二度とそんな時間は得られないだろうな)
そんなことを思ってから「チッ」と舌打ちをする。なんてことだ。自分は甘い。甘すぎる。こんなことでは、テレージア様を助けるなんて……いいや、助ける。助けなくてはいけない。彼は必死にそう思い込もうと自分に言い聞かせる。
馬を走らせているうちに、すっかり辺りは暗くなってしまった。夜の鳥が鳴く声が響く。馬は暗くても見えるため、気にせず森を抜けていく。彼が物思いに沈んでいるうちに、ギフェの町の郊外にある別荘へと、どんどん近づく。ああ、いっそのことずっとこのままで。自分は馬を永遠に走らせ、別荘に辿りつかず、夜も明けなければ。そんな、どうしようもない妄想をして、ヘルムートは唇を噛み締めた。
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