第8話 ラファエルの来訪

 もう、ラファエルは回復をして森を出ただろう。そう思ってから二ヶ月後、突然ユリアーナをラファエルが訪ねて来た。


 そんな過去はどこにもない。心の準備が出来ていない。驚いてユリアーナは「どうして今日グリースさんのところに行かなかったのか……」と心の中で悔やんだ。とはいえ、それはグリースの方から「明日は他の仕事が入っているから休ませてくれ」と言われたからなのだが。


 ユリアーナは、いくらか呑気に家でパンを焼いているところだった。普通に食べるものと、長く保存が出来る乾パンと。久しぶりにのんびりと過ごしている日だった。それらすべてを呪いつつ、表情に出さないようにと気を付ける。


「君がユリアーナか」


「あなた、は……」


「倒れているわたしをクライヴ先生の元に運んでくれたと聞いた。礼を言いに来るのが、遅くなってしまって申し訳ない。ラファエルという」


 クライヴに、自分のことは教えないようにと言ったのに……と思いつつ、落ち着け、落ち着け、と胸の中心を軽くトントンと叩く。すっかり元気になったラファエルは騎士の服装で身なりが良い。血色も良く、見るからに調子がよさそうだ。


(なるほど……『ユリアーナ』が恋に落ちるのもわかる)


 実際は顔で落ちたわけではない。連日、クライヴのところに通って、寝たきりの彼と話をよくしていた。その間に生まれた恋心が胸の奥にざわざわと蠢くが、ユリアーナは無理矢理笑顔を作った。


「元気になったんですね。よかったです」


 だが、家の中にはいれない、と思う。出来れば、彼とは出入口での立ち話だけで終わらせたい、と。


「ああ。ありがとう。それで、これ、大したものではないが……いや、そういう言い方はよくないな。ええっと、たまたま町で見かけたので買ったものなんだが、試しに食べたら美味しくてね」


 そう言ってラファエルが差し出した袋。それにユリアーナは見覚えがあった。


「ああ、ヘンリケ亭のタルト……」


「知っているのかい?」


「はい。とはいっても、食べたのは一度きりで……ありがとうございます。なかなか町に行けないので、嬉しいです」


「そうか。そう言ってもらえたらよかった。重ね重ね、ありがとう。君が助けてくれなければ、わたしはあのまま死んでいたかもしれないとクライヴ先生から聞いて」


「いいえ、本当にたまたまみつけただけなので」


 そう言って話を終わらせようとするユリアーナ。ラファエルもそれを察したようで


「うん。それでも礼を言いたくて……ああ、君は、コーカなんだね」


 ユリアーナの翼を見てそう尋ねる。


「はい、そうです」


「そうか。だからその翼で飛んで運んでくれたのか。重かったのに、よく運べたと思っていた……ああ、長居をしてしまってすまない。では、これで」


「はい。わざわざありがとうございました」


 そう言ってユリアーナが頭を下げれば、ラファエルは軽く手を振って去っていく。バタン、と音を立てて扉を閉めると、その場でユリア―ナは紙袋を持ったまましゃがみこんだ。


「はあああ~~!!!!」


 どうしてこうなったんだろう。いや、どうしてもこうしてもない。少なくとも自分が自分の運命を変えているせいだとはわかっている。


「いや、落ち着け、落ち着け。とにかく、やり過ごしたし」


 どう対応するのが正解だったのかはユリアーナにはよくわからない。招き入れても会話は続かなかっただろうし。とにかく、不自然でなければよかったけれど、と思う。


(ヘンリケ亭のタルト……)


 たまたま、だったのだろうと思う。ユリアーナは、過去にクライヴが彼に「ヘンリケ亭のタルトを好きだと思う」と伝えたことを知らない。ただ、クライヴにヘンリケ亭のタルトの話をしたことがあることは思い出していた。


(そうか。そんな話をするぐらい、クライヴ先生のところには、通っていたんだ)


 少しずつ思い出してくる。自分は、クライヴとカミルの元に、ラファエルがいなくなっても通っていたことがあった。2人共いつも優しくて、いつでも自分を受け入れてくれていた。母親がいなくなって生まれた寂しさを、ユリアーナに忘れさせてくれる人々だった。


 だが、今のユリアーナはグリースとの修行に明け暮れているし、クライヴたちとはラファエルを運んだきりだ。


(クライヴ先生との関りを断ったことは何度もある。ラファエルをただ、クライヴ先生の家の前に置いていっただけの時、それから、自分で看病をしようと連れ帰った時、それから)


 ラファエルを見捨てた時。そのことを思い出して、ユリアーナはぞっとした。


「いいのかな……クライヴ先生と、関りを断って……」


 そういいながら、紙袋の中身を見る。ヘンリケ亭のタルト。とにかく、タルトに罪はない。


「それから、ラファエルにも罪はない。邪険にして悪かったけど」


 言うほど邪険にしたわけではないが、ユリアーナの家は森の中でも少し奥まっている。ヘンリケ亭のタルトを購入してきたということは、どちらかというと遠い方のギフェの町からやってきたということだ。その人物を、門前払いも同じ対応をしたことは、多少は申し訳ないとは思う。


(でも、ラファエルにはあまり関わらないと決めた)


 少し、体が慣れて来たのか、胸の奥の痛みは薄れたと思う。そして、ラファエルを見てもときめかなかった。それだけは大万歳だ。自分はラファエルに恋愛感情を得ない。顔はいいと思うし、声もいい。話をした感じ、悪くない。だが、それだけだ、と思う。


(いい男ではあったけど。うん。今回は、わたしはラファエルのこと、好きにならないみたい。大丈夫だ!)


 うんうん、と満足そうに頷いて、ユリアーナは紙袋をテーブルの上に置いた。それから、パンの焼きあがりを見ようと厨房に向かう。


 座って竈の火を見ながら、ユリアーナは呟く。


「森から出ない選択肢を選んだけど、この家を捨てた方がいいのかな……」


 少なくとも、グリースからの教えをマスターするまでは、それは出来ない、とユリアーナは思った。過去9回のうち3回、森から出て逃げようとして、死んでいる。それから、更に3回、ラーレン狩りで死んでいる。そして、クライヴのところで一回。そして、例の男に一回。そして。


(もう一回が、思い出せない)


 とはいえ、森から出て3回も死んでしまえば、森から出ることも躊躇する。とはいえ、森に残っていても死ぬは死ぬ。そう思えば、ラーレンになってしまった後は、森でおとなしくして、十分警戒をしているのが一番ではないかと思う。迂闊に外に出てしまえば、どこの誰とも知らない者たちに殺されてしまうのだし。今回まで死亡率100パーセントとはいえ、比較をすれば森にいる方がいい気がする。


(そうだ。翼を黒く染められないだろうか)


 だが、それを1人でするのは難しい気がする。


(クライヴ先生に理由を話して、カミルに手伝ってもらうのはどうだろう……)


 それは悪くない気がしてきた。


(黒い染料は、町に売ってるかなぁ……もし、売ってなかったらデニスにどこからか買ってきてもらえないだろうか)


 少なくとも、町に出る時には翼を黒くしなければいけない。森を出るとしても、それが出来てからだ。


(外見を変える魔法が唱えられればなあ。いや、そもそも魔法はまったく向いていないんだけど……)


 向いていたとしても、そんな便利なものはきっと習得できないだろう。仕方がなくぶつぶつ呟く。とにかく、なんとなくではあったが、クライヴとカミルとはそれなりに関わりを持っておこうと決めた。


「ううん、駄目だなぁ。こう、芋づる式に、色々と考えちゃう。折角のお休みの日なんだもの。もっと楽しく……タルトを食べよ!」


 考えてもすぐに答えが出ないことは、一度考えるのを止める。ユリアーナはそう決めていた。かくして、彼女は「今回はラファエルのことを好きにならないようだ」と言うことを祝おうと茶を淹れ、おいしくヘンリケ亭のタルトを食べたのだった。ラファエルの来訪は誤算だったが、タルトには罪がない。

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