無様な灰被り(上) 2

 この世界に渡って来てからの出来事を日記に書くことにする。


 日記を付ける理由について訊かれた時、僕は「こっちの世界の文字や文章を書く練習のため」と説明した。


 けど実際の理由は、また何かを忘れることが、怖くてたまらないからだ。


 もっとも、訊いた方も直接指摘しないだけで、そんなことはとっくにお見通しなのかもしれないけど。



●●●



 最初から書いていこう。


 とし葡萄ぶどうつき七日。


 僕はこの世界にやって来た。日付について知ったのはさっきだけど。


 何の前触れもなくこっちの世界に放り出されて、僕は酷く混乱した。


 ――なんて書くと、我ながら他人事ひとごとみたいで可笑おかししい。


 けど今となっては、この時のことはもう遥か昔の出来事のように思えて、なんだか上手く書き表せない。


 とにかく気づけば僕は、あの国の辺境、街道近くの荒野にたたずんでいた。


 そうして混乱の末に、僕が初めて発した言葉はひどく間の抜けたものだった。


「……なんで裸なんだよ?」


 僕は一糸いっしまとわぬ裸体を周囲にさらしていた。


 股間に手をやりつつ、僕は慌ててあちらこちらに目を遣った。


 「どこかに隠れなきゃいけない」って思って。


 さいわい周囲に人影は無いようだった。


 遠くの方に、やけに鬱蒼うっそうとした森が見えた。


 とはいえ歩いていくには遠すぎる。


 その上、何となくその森は不吉ふきつなものを思わせた。


 そちらに行こうという気に、何故か僕はならなかった。


 だから代わりに僕が急いで向かったのは、直ぐ近くのしげみだった。


 姿を隠すには貧弱なものではあったけど、ひとまず僕はその茂みの傍にしゃがみ、自分の姿がなるたけ街道から見えないようにする。


 僕は少しだけ安堵した。


 けれど、直後にさっきよりもひどい混乱に突き落とされてしまった。


 それは自分自身が、半ば無意識に呟いた独り言が切っ掛けだった。


「本当、何で裸? どこへ遊びに行ったんだ? 僕の学生服」


 言ってから、僕は自分自身の言葉を、改めて考えてみた。


 すると――、


「『学生服』って……何だっけ?」


 裸の背中に嫌な汗がいた。


 胸が重くなって、息苦しくなった。


 さらには内臓がざわざわするような感覚。


「えっと、ミズモト――違う、水元みなもと不律ふりつ。十……四歳。えっと、中学生で……『中学生』? そう、とにかくそのチュウガクセイ。家族は……母さんと、父さんがいる……はず。いる――のかな?」


 嫌な思いをしながら回想しただけあって、それなりに当時の言葉を正確に書けていると思う。


 こちらの世界に来て、僕はほとんどの記憶を失っていた。


 僕が向こうの世界に残して来た色々なもの。それを思うと今でも胸が痛む。

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