エピローグ番外編 心
~心~
その時弥生は部屋のベッドに男と隣り合って座っていた。弥生はブラウスのボタンをすべて外していた。はだけた胸をそっと撫でるように男の吐息が吹きかかった。
その瞬間、パッと景色が切り替わった。
部屋の風景が一瞬で色づき、紅葉に染まる森に変わった。モノトーンの風景画に絵の具をひっくり返したかのような彩りの変化に弥生は目眩を覚えた。
間違いない。ここはファーリスのダンジョン地上階層、星屑の森。
森の木々は秋色に染まっていた。冷たい風が吹きつけ、乾いた枯れ葉が舞い上がった。はだけたシャツのすき間から森の冷たい空気が少しづつ肌に染み込んでいく。かすかに残っていた男のぬくもりが消えていく気がして、弥生はブラウスのボタンを留めはじめた。
「弥生」
そう言うとファーリスが振り返った。ファーリスは弥生の位置を有無を言わさず転移させる能力を持っている。連絡もせずに転移させられたからには、何やら厄介な仕事を押しつけられそうだな……と弥生は思った。
ファーリスのベルベット生地の黒いドレスを着ていた。もとはアリスが身につけていたものだが、彼女が死んでからはファーリスがその服を着るようになっていた。
「は、はい」
ブラウスのボタンはまだ半分も留めていなかった。乱れた服装の弥生にファーリスは「はっ」と目を見開き慌てた様子で顔を背けた。
「弥生、お前、まさか誰かとエッチなことをしていたのか……?」
「ち、違います! お風呂! お風呂に入ろうとしていたのです。まったく連絡もしないでいきなり配置を変えるなんてマスターは非常識です!」
弥生は嘘をついた。
ファーリスは弥生の嘘を咎めなかった。「念話が使えないんだからしょうがないじゃないか……」といいながら森の一画を指差した。
「それよりこいつを見てくれ。こいつをどう思う?」
ファーリスの指差す先、大きな木の下にうずくまるそれを見たとき【
すごく……小さいです……けど……
「ジェービー先輩ですか!?」
星屑の森との戦いで死んだはずの先輩がそこにいたからだ。正しく言えば先輩と同じ姿をしたなにかが。
「デリートしたんじゃなかったんですか?」
ファーリスは表情を変えずに言った。
「したよ」
感情を弥生に悟らせまいとするかのような短い返答だ。やむを得ない事情があってファーリスは先輩を殺した。そう聞いていたのだが。
「ではこの先輩はなんですか」
ファーリスはそれに目を落とす。弥生もつられてファーリスの視線の先を追った。
枯れ葉が積もった地面の上に“それ”はうずくまっていた。弥生にはそれが先輩のように見えた。しかしすでに先輩は死んでいるとファーリスは言った。ならばこれはなんなの
だろう。
この、先輩のようなものは。
目の前のそれは先輩と同じ姿をしていた。紺色のワンピースタイプの水着を身につけていた。目を閉じたままじっと動かず呼吸をするたび小さな胸が膨らんでは縮んだ。眠っている。生きている。
ファーリスは言った。
「これの名前は【ジェービー】……」
ジェービー。先輩と同じ名前だ。言葉を選んでいるのだろうか。ファーリスは重々しい口調で続けた。
「でもおれたちが知っているジェービーじゃない。おれがジェービーに変えてしまった誰かなんだ」
……
…………
………………
弥生はファーリスからことの顛末を聞いた。
星屑の森との最終決戦、敵指揮官クミホによって弥生たちのダンジョンは敗北寸前まで追い詰められた。その際ファーリスの能力が覚醒したらしい。
相手の名前を変更することで“存在そのものをを強制的に書き換える”という凶悪極まる能力。
ファーリスはそれを広範囲で使用。結果、6,000体を超える敵軍は壊滅。ついでにファーリスは前線に出ていたクミホを倒し星屑の森に勝利した。
考えてみればファーリスひとりの力で勝ったようなものだ。
「あらためて……マスターはバケモノですね」
「たまたまだよ。もう一度同じことやれって言われてもできないだろうし。それより弥生」
「はいはい」
ファーリスの言わんとすることは伝わった。
「この先輩のようなものの記憶を読めばいいんでしょう?」
「頼めるか?」
弥生は記憶を読み、
このジェービーのようなものはもともと敵であった者。見た目はジェービーそっくりでも何を考えているかはわからない。弥生が記憶を読めば、このジェービーが敵か味方かが明らかになる……どう処分するか決めることができる……ファーリスの思惑はそんなところだろうと弥生は思った。
だがファーリスの意図は弥生の予想と違っていた。
「上手くいけばジェービーが生き返るかもしれないからさ」
「ん?」
ファーリスの言葉に弥生は強烈な違和感を覚えた。
「生き返りませんよ?」
「でもさ、もしさ、見た目と名前と記憶をまったくジェービーと同じにできたなら、それって」
「できませんよ」
弥生はニッコリ笑った。
「私は先輩の記憶を全部知っているわけではないですから。完璧に再現するのは無理です。マスターの“書き換え”だって完璧に同じには出来てないですよね?」
「でも……」とファーリスは言った。ファーリスには小娘のようにウジウジしたところがある。それはダンジョンの長としてふさわしくないと思った。
「記憶は読みます。ですがジェービー先輩が生き返るとか考えるのはやめてください」
「…………」
ファーリスは何も答えなかった。
「ふう……」
と弥生は息を吐いた。
「アリス様とジェービー先輩をデリートしたこと……悔やんでいるんですね……」
ファーリスは目を伏せた。目には少し涙が浮かんでいる。ファーリスはバケモノのような能力を持っている。だがパートナーだったアリス、友人だったジェービーを一度に喪って平気でいられるほどファーリスの心は強くなかったのだ。
「辛いなら、私が記憶を消してあげますよ?」
「いや……」
とファーリスは首を横に振った。
「たぶんもう忘れられないんだ。疑似人格作っちゃったから……」
ファーリスは新たに獲得した≪並列思考≫のスキルを応用して、自分の中にアリスとジェービーの人格を作ってしまったのだと言う。自分の作ったアリスやジェービーの人格と頭の中でお話をしているとのこと。
弥生は呆れた。
「何やってるんですか……そんなことしてあなたの心はどうなるんですか。マスターがマスターでなくなりますよ」
「おれがいなくなっても、アリスになれるならいいかなあって」
「よくない!」
弥生は大きな声を出していた。
「マスターはマスターです。他人と自分を比べる必要なんてない! もっと自分を大切にしてください」
「うん……」
ファーリスには過去の記憶がない。そのせいで自分自身を軽んじてしまうのだ。
「マスターには心のケアが必要です。精神が不安定なマスターの下で働くなんて嫌すぎます」
ファーリスの“気の迷い”でうっかりデリートされたりしたらたまらない。ファーリスの精神を安定させることは、ダンジョンで働く全員を守るために絶対に必要なことだ。
「そうか……」
「ですけど……心の専門家がいて良かったですね……私がいれば大丈夫ですから」
「どうすればいい?」
弥生は方策を話した。
疑似人格はファーリスの存在そのものを不安定にさせうる爆弾だが、自在にコントロール出来れば強力な武器ともなる。
だから疑似人格をコントロールするために意図的に制限をつける。
「まずマスターの負担が大きいアリスの使用時間は1日最大30分……1度使うと6時間の睡眠をとらない限り再使用できない……という暗示をかけます」
「うん」
「それからジェービーはマスターが“矢”属性のエレメントチェンジをしたときだけ使えるようにします」
「わかった」
弥生は心と記憶のプロフェッショナルだ。時間をかければ暗示をかけることはできる。
「それから辛かったら誰かに相談すること。私でもいいですし、レーナ様や焔様でもいいんです。ひとりで抱えこまないで。マスターはひとりじゃないんですから」
「バアル……」
「ん?」
ファーリスがなぜバアルと呟いたのか、弥生にはわからなかった。
「いや何でもない。相談させてもらうね」
「はい」
良かった。疑似人格は今は制限するに留めるが、時間をかけて少しづつ封印していこう。そうすればファーリスの精神汚染によるダンジョン崩壊の危機は回避できそうだ。弥生は胸をなで下ろした。
「あ、そうだ。忘れてた」
それから弥生はジェービーのようなものの記憶を読んだ。
「ふむ……【兎】と同じですね。強制的に存在を書き換えられたことで非常に不安定な精神状態になっています。
記憶のつじつまを合わせるため“架空の記憶”をでっち上げ、精神年齢を赤子まで退行させています。
今は無害ですが時間が経てば架空の記憶を徐々に思い出していくでしょう。洗脳することは可能だと思いますが、いかがしますか?」
ファーリスはふむと呟いた。そして悲しそうな顔で、
「やっぱり“これ”はジェービーではないんだな。で敵になる可能性もあると」
と言った。「ええ」と弥生が応じる。
「焔に【鑑定】してもらおう。能力が使えそうなら洗脳、使えないならデリートする」
ファーリスはジェービーではないとわかった途端に非情な判断をくだした。ダンジョンマスターはそうでなくては困るが、精神的な負担も大きいのだと再認識する。
「私も男にかまけている場合じゃなかったなあ……」
「ん?」
「いえ」と弥生は応えた。アリスやジェービーが死んで悲しい思いをしたのはファーリスだけではない。頼れる上司と同僚を立て続けに喪った弥生は心の空白を男で埋めていた。
「マスターのこと、ちゃんと支えますからね」
「うん。頼むよ」
弥生は地面にうずくまるジェービーのようなものを抱き上げた。
弥生の腕の中でそれはすやすやと眠っている。
「かわいいな」
「そうですね」
幸せな沈黙が流れる。しばらくして腕の中のそれがうっすらと目を開いた。
「アギャ?」
と、それは鳴いた。
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