第10話 追憶・Ⅸ

 俺は、事故に遭った。

 横の細い道から出てきたクルマに気がつかず、左リヤサイドに当てられたのだ。

 幸い、クルマのリヤフェンダがへこんだだけで身体は何ともなかった。

 だが、いつもの自分なら、避けられたように思った。

 この時は、それほど環のことで頭がいっぱいだった。



 環からの手紙を受け取って以来、俺はいつも、同じことを考えていた。


 俺は、何のために環に思いを伝えようとしたのか。

 環はどんな子で、今俺がすべきことは何なのか。

 そして、俺は、今何を苦しんでいるのか。


 俺は、環を助けたいと思っていたはずだった。

 相手を傷つけた、そう考え、先回りして自分が傷ついてしまう環。

 すぐに謝って、自分ががまんすればそれで丸く収まるんだ、そう考えて逃げてしまう環。


 高校時代に後先考えないで映画に誘い、環に俺のことを「傷つけた」と思わせてしまった俺。

 だからこそ、環を放っておくことができなかった。

 俺のしたことの落とし前は、俺が引き取らなければならない訳だから。

 今もし、環が俺のことを気に病んでいたとしたら―


 ”ワタシハ ヒトヲ スキニハ ナレナインダ…”


 ”ワタシニハ ヒトヲ スキニナルコトハ ユルサレナインダ…”


 ”ナゼナラ ワタシハ オオクノ ヒトヲ キズツケタノダカラ…コンドハ ワタシノ バンナノダカラ…” 


 環はきっと、罪悪感から人を好きになれなくなってしまう。


 「すごいね。あたしは、今までそんなに誰かを好きになったこと、ないから…」

 

 「あたしは、いつも待ってる方だな…」


 そう…。そう云えば、環はそう云ってたっけ。

 いや、環の言葉を待つまでもなく、俺は直感的にそのことを感じていた。

 だから、中学時代に妙な噂が立っても、浪人時代に彼女と逢わなくても、不思議と平気だったのだ―

 そう考えると、全て合点がいく。


 もし俺の読みが正しければ、このままでは環の深層心理は、今後恋愛を受け付けない。

 環は、無意識のうちに恋愛に臆病になっている…。


 どうしたらいいのだろう。

 どうしたら、環を救ってやれるのだろう。



 実際のところ、俺自身も相当参っていたはずだった。

 俺にだって、人並みに失恋のショックはある。

 環を失ったとてつもない喪失感を、それでも自分が環のために生きていると思うことで、懸命に埋めていた。


 環なしでは生きられない。

 環を愛していない自分なんて、意味がない。

 そんな行き過ぎた愛情は間違っているのかもしれない。

 だが、それは俺にとって、自らの尊厳を保つ最後の砦だった。



 考えた末、俺は一つの結論を出した。


 俺は、環にとって「最悪の男」になる必要がある―


 環は、多くの男によって傷ついてきた。

 しかしそれは、環が優しすぎるから。

 相手の男の気持ちを、環が自分のことのように感じすぎるから。


 「いいひと」を傷つける自分が許せなくなる環。

 だったら、俺は「いいひと」に安住していてはいけない。

 「傷つけて当然」の人間に成り下がる必要がある。


 環は、俺をまだ信頼している。

 信頼しているからこそ、なおつらくなる。

 その信頼を、根底から突き崩そう。


 俺は、抑えつけてきた自分の「環を取り戻したいと思う気持ち」を、逆手に取ることにした。

 そして、住所なしで手紙を送ってきた環の気持ちを汲み取っていながら、これを裏切ることにした。

 それは、環を愛する俺にとって、決して折り合いが付くことのない自己矛盾に満ちた、あまりに苦しい選択だった。


 俺は、自分に課した禁を破って手紙を書いた。

 環の手紙から、2ヶ月後のことだった。

 正直なところ、俺には、手紙くらいが目一杯の「ストーカー的行為」だった。

 嫌われようとしておきながら、それ以上品のないことはとてもできなかった。


 俺は幾度か、環に手紙を送った。

 返事は、来なかった。

 それでいいんだと自分に云い聞かせた。


 何度も吐いた。


 とても悲しかった。



 クリスマス。

 俺は、環にプレゼントを贈ることにした。

 もちろん、彼女の俺に対する悪感情を決定的にするためだ。


 それでも、いつの日にか彼女が倖せを掴んだとき――

 もし、「実家」のどこかにでも捨てずに保存していてくれれば、その時彼女が、かつての自分自身を肯定的に、懐かしく見つめられるように。

 そんな思いを込めた、無邪気な子どもたちによる詩集の本を1冊。

 手作りのクリスマス・カード。

 それに、まだ返してなかったホワイトデーのお返しも。


 しつこくつきまとうことで、嫌われて当然の人間に成り下がる―

 そんな目的がある反面、環の深層心理の傷はやはり心配だった。


 いつの日にか、環が自分で自分を回復できる、そんな伏線は仕込んでおきたい。


 俺は、環の自宅を訪れ、プレゼントを渡す「暴挙」に出た。

 俺自身、こんな大罪を犯すのだから、もう誰も愛せなくなることを覚悟した。


 ”ワタシハ ヒトヲ スキニハ ナレナインダ…”

 

 ”ワタシニハ ヒトヲ スキニナルコトハ ユルサレナインダ…”


 ”ナゼナラ ワタシハ タイセツナ ヒトヲ キズツケタノダカラ…コンドハ ワタシノ バンナノダカラ…”


 小さな声は、俺の頭の中で鳴り響いていた。



 玄関の呼び鈴を押すと、奥から環のバァちゃんが出てきた。

 バァちゃんはすぐ、2階へ環を呼びに行ったが、環は降りてこなかった。

 

 バァちゃんの話では、環は数日前から水疱瘡で寝込んでいるとのことだった。

 当然、仕事も休んでいるらしい。

 俺は、思ってもみなかった情報に曝され、顔を直接見て見舞いたい気持ちが湧き上がるのをぐっとこらえた。


 俺は、嫌われるために来たんだ。

 見舞ってどうするんだ。

 いや、どスッピンでボロボロになって寝てるプライベートな空間に、もう彼氏でもない分際で空気を読まずに踏み込む非礼を犯せば、嫌われるにはより完璧…なのか。


 水疱瘡なら、顔や身体に水泡ができてしまう。

 年頃の女の子がそんな病気を患ったとしたら、そりゃすごいショックに違いない。


 いずれにせよ、俺が考えていた以上に環にとって気が滅入っている状況。

 弱り目に祟り目。泣きっ面に蜂――

 そこまで思い切ったことをしなくても、当初の予定通りプレゼント持って押しかけてこられた、というだけで十分、弱っているところへ俺が追い打ちをかける形になるはずだ。


 俺は環のバァちゃんに、環にプレゼントを渡してくれるよう頼んだ。

 人の良さそうなバァちゃんは、いかにも申し訳なさそうに俺から紙袋を受け取って頭を下げた。



 何日かして、差出人のない手紙が届いた。

 環に、違いなかった。

 俺は、心を冷たく、堅く、強くするように鎮めながら、丁寧に、丁寧に手紙を開封した。


 環の、中学時代から見慣れた整った筆跡が目に飛びこんでくる。

 見ただけで心が温かくなる、大好きな、大好きな筆跡。

 きっと、これが俺に宛てられる最後のそれ。


 「…今は、好きな人ができてその人とつき合っています。だから、もう手紙は書かないでください…」


 ホントに環は、嘘がヘタだ…。


 俺は、指先から全身が冷えて遠くなっていくような、痺れるような感覚を覚えながら、自分を奮い立たせるように苦笑した。

 いや、これが嘘ではなく、真実であればそれに超したことはない…そうだろう。


 少なくとも俺は、目指す「最悪の男」になることには成功したらしかった。

 きっと俺のことを、しつこい男だ、自分よりもよっぽどわがままだ、と呆れたことだろう。

 そして、この困った状況を打開するために、嘘かまことか「好きな人」の存在を公言する手紙を書いたに違いない。

 前の手紙には数回見られた「ごめんなさい」という言葉は使われてはいない。


 これだけできれば、きっと安心だ。

 環はもう、罪悪感を抱えることはないだろう。


 本当に「好きな人」とつき合っているならば、この公言は相談済みに決まっているだろうし、共通の「敵」を通じてもっと絆が深まったに違いない。

 そして、たとえ「好きな人」が、本当は今いないのだとしても、公言した以上は、必ずそれを現実にするだろう。環はそんな、まっすぐな女なのだから。


 全身の力が抜け、力のない笑いが漏れた。

 俺はきっと、役に立てたよね――


 


 頬を一筋の熱がそっと撫で、急速にその熱を失っていくのを感じた。

 


 とても、悲しかったが、これでいいんだと思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る