第9話 追憶・Ⅷ
俺は、環へのホワイトデーのお返しを選んだ。
小さな猫のプリントがついたハンカチ。
キャンディと一緒に、包んでもらった。
ブルーの、星が光る包装紙。
まるで深い、宇宙のような―
俺は、電話の音で目を覚ました。
そうだ、今日は環と逢う日だ。
「電話やよ」
バァちゃんがドアを開けて、顔をのぞかせた。
「なんか、女の子からやわ」
電話の主は、環だった。
「あの…ね、お母さんが倒れちゃって、それで、今日、出られなくなって…。ごめんなさい」
どきん。
「あ、あぁ。いいよ。気にせんと。たまちゃん、家族にとって大事な人なんやから」
「本当に、ごめんなさい…」
「じゃ、また時間とれたら連絡頂戴」
「うん。ホント、ごめんね…」
小さな、声が聞こえたような気がした。
環からの連絡はないまま、4月になった。
俺は、環の仕事が忙しいのだろうと気楽に考えていた。
4月になって環境が変わって、それに気持ちが追っつかなくて…あたふたしている環の姿が目に浮かんだ。
俺は、久しぶりに占いをしようと思い立った。
ここしばらくは人生始まって以来の倖せ期だったためすっかりご無沙汰していたが、以前から不安になったとき、俺はよく占いをしていた。
そこまで考えて、俺は自分自身に対し平静を装っているだけで、本当は不安であったことに気付かされた。
ともあれ、占いと一口に云っても、俺が扱うのは適当なまじないや偶然性に頼った神頼みの類いなどではない。
本格的な西洋占星学の理論と方法を独学で学び、それなりの技法を俺は身につけていた。
それはおそらく、弱い俺が自分の行動に自信をもつための、自分なりのやり方だったに違いない。
出生時間と場所から、その瞬間の星の位置を天球図に記録したものホロスコープという。
一人一人の出生時間と場所は必ず違い、一人として同じホロスコープは存在しない。例えば双子であったとしても、いっぺんに生まれるわけではない以上必ず誤差が生じる。
俺は格好をつけて「禁書庫」と呼んでいる占星学関係の本を並べた居室の書棚からエフェメリス…『日本占星天文暦』を取り出し、惑星運行表を元に計算機を叩いて、環のホロスコープを描くことにした。
パソコンが普通に家庭にあるようになった今であれば、データを入力するだけで簡単にホロスコープを描けるソフトが存在しているが、当時はアナログの運行表から手計算で惑星位置を計算し、ペーパーに書き込んでいたのだ。
いや、当時でもWindows95ベースで素人向けに大まかなものを描けるソフト自体は存在していたが、今で云えばブラウザ上でホロスコープを作成してくれるサイトレベルの簡易なものでしかなく、価格の割に出来ることが限られていることから、俺の使用実績にそぐわなかったのである。
ともあれ、俺は初めてのデートの際に聞いた環の出生時間を元に、詳細なホロスコープを作成した。
出生時間がはっきりすると、1日のうちでも動きの速い月の位置や、出生時の地平線であるアセンダント(ASC)、南中位置であるミディアムシーリィ(MC)といった占星学上の重要ポイントもはっきりする。
そこに、現在の天体の位置である「トランジット」のレイヤーを重ねる。
コレで分かるのは、その時々での、いわゆる時の運勢。
俺は、心の状態だと考えている。
この方法での予測を、俺は外したことはなかった。
そもそも、今回の告白そのものの時期も、俺は占星学で決断していた。
こう云うと胡散臭く聞こえなくもないが、古来より為政者は政策決定に当たって、占星学を判断に用いてきているし、科学万能の現代でも、例えば米第40代大統領のロナルド・レーガン氏は重要政策決定に際して占星学者の助言を得ていたという。
為政者は孤独であるというが、つまりは「孤独な決定」の後押しに占星学は向いているということなのだろう。
決定の責任を、誰かの所為にすることなく、自分が引き受けようとしている人間にとっては、特に。
俺は、告白に当たって環の、特に恋愛に関する運勢が最も良好となる時期を優先的に選び、その中で俺にとっても比較的よい条件となるタイミングを選定した。
まずは、環の倖せが最優先。そうでなければ、俺の倖せなど、ないのだから。
その際に重視したのは「ダイレクション」あるいは「プログレス」という方法論で、物騒な例えにはなるが、銃に例えるならば、「トランジット」は引き金を引くタイミング。
それに対し、「ダイレクション」あるいは「プログレス」は弾丸の種類…要は人生のステージがどのような段階であるかを示している、という。
ちなみに、この例えで云うと、出生図は銃そのものの型式…その人の持って生まれた才能や運、ということになるだろう。合わない弾丸は決して撃てない。
本来であれば、この方法論の使用に当たっては、正確な出生時間がある方がよい。
環の出生時間をまだ知らなかった告白前の俺は、1日の中間点である「正午」をベースにしつつ、知りうる限り、環にとって大きな出来事があった時点を利用して逆算的に出生時刻を推定する「レクティファイ」を行い、生まれを午前と推定した「仮の環の出生図」を使っていた。
今回、環から得た出生時刻は、俺の推定よりもほんの少しだけ遅い時刻であったが、午前であるという判断は概ね正しかった。
感心したが、これは俺がすごい訳ではなく、占星学の方術がよくできているということに過ぎない。
ともあれ、俺はきちんと計算し、詳細に作成し直した環の新たなホロスコープに、現在の星の位置を重ねてみた。
そうしてみて、環の出生図の太陽に対し、トランジットの火星が180°になっていることに気がついた。
約2年に1回やってくるこの座相は、不調と困難を表していた。
数ヶ月前に一度は通り過ぎたはずの火星が、地球との公転速度の違いによって起こる見かけの動き「逆行」で戻ってきたことで座相をつくっていた。
しかもちょうど環の太陽の180°反対側ドンピシャで、再び「順行」に転じようとするタイミングにあったのだ。
逆行から順行に転ずる留…「ステーション」の時期は、影響が最大に出ると云われている。
俺は、環に手紙を書くことにした。
今更、とも思ったが、手紙ならいつでも読めるし、何か悩んでいることがあったとしても、時間をかけてその意味や価値を咀嚼する手助けになるだろう、と思ったからだ。
その正体がなんだか分からないが、環はつらい思いをしているのかもしれない。
だったら、彼氏である俺は何かをしてやらないといけない。
何日かして、環から、返事が届いた。
どきん。
封筒を見た瞬間、妙な胸騒ぎがした。
小さな、声が聞こえたような気がした。
俺は、そんな気持ちを振り払って開封した。
「…?」
何が書いてあるのか、よく意味が分からなかった。
2度読み返して、俺はようやくそれが「別れ」を切り出すものであることに気がついた。
「こんな気持ちのままでは、おつきあいはできません」
俺は、改めて封筒を見た。
そしてようやく、さっきの胸騒ぎの正体に気がついた。
環の氏名が書いてある右隣、本来記載されているべき差出人の住所が、そこにはなかった。
”ヘンジハ ダサナイデ…”
小さな、小さな声がした。
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