第8話 追憶・Ⅶ
俺たちは、この間の喫茶店へ向けてクルマを走らせた。
クルマの外は、冷たいみぞれ混じりの雨が落ちていた。
踏切にさしかかると、遮断機の赤ランプが交互に点滅し、黒黄の「通せん棒」がゆっくりと降りてきた。
俺は、サイドブレーキをひいてクルマをしっかり停止線に停車させた。
「ねぇ…悩みとかって、ない?」
突然、環がそんなことを聞いた。
「…?」
「あのね、この前ね、知り合いのお葬式に出たの」
俺のいぶかしむ雰囲気を感じ取ったのか、何か自分に言い訳をしているのか、環は知り合いの葬式に出たこと、その知り合いの旦那さんが自殺してしまったとかで、残された家族がもの凄くつらそうだったことなんかを話した。
「だからね、どんなつらいことがあっても絶対自殺とかせんといて。そんなときは、すぐ云ってね…」
環は、言葉の最後をそう締めくくった。
フロントガラスで左へ、右へと踊るワイパーが、降り続くみぞれを拭っている。
目の前の遮断機の向こうを、貨物列車が轟音を立てて通り過ぎてゆく。
自殺とは、大げさだな…
俺は、そう感じながら、この心配性のお嬢さんを安心させないと、と言葉を切り出した。
今悩んでいることはないこと。大学の心理学のセンセの受け売りだが、自殺する人って、妙に吹っ切れたような明るさをもってるモンだ、なんてこと。
「ま、少なくとも、俺は絶対に自殺はしないから」
「だったら、いいんだ…」
ふと、小さな、声が聞こえたような気がした。
貨物列車が通り過ぎ、単調に鳴り続けていた鐘の音と赤ランプの点滅が止まると、遮断機が上がった。
マニュアル・トランスミッションのギヤを1速に入れ、サイドブレーキをおろすと、クルマはまた元のように走り出した。
喫茶店。
この前と同じ席に2人は座った。
ポインセチアも相変わらず、時折みぞれの当たる窓際に所在なさげにたたずんでいる。
お店の自家焙煎だという珈琲を1杯ずつ頼んだ。
何を話したのだろう。
他愛もない話をしていたと思う。
7時半…。
「じゃ、そろそろ帰らんとね」
「うん」
「次、いつにしよか」
一瞬の間。
「あ、そか。そうだそうだ。え…と、いつがいいかな?」
環は、妙にどぎまぎしながら、上の空でカレンダーを見ていた。
小さな、声が聞こえたような気がした。
次に会う日は、2週間後の3月下旬に決まった。
俺たちは、クルマに乗り込んだ。
本当は、お付き合いをしているのだし、二人とも成人しているのだから、もう少し遅くなっても全く問題はないのかもしれない。
この年代にとっては、むしろ、それが普通のことなのだろうし。
けれども、そういう時間や態度を拙速に求めることは、環を「引っ張る」ことになりすぎて、環自身の心を置き去りにすることのような気がしていた。
手をつなぐのも、次の段階も、もっとその先も、特にフィジカルな距離感はいったん先へ進んでしまえば、とりわけ女子にとっては、それ以前に戻ることを出来にくくする軛(くびき)になってしまう。
恋愛においては、それを利用するのも、きっと駈け引きのうちなのだろう。
けれども、そうやって既成事実で囲い込んでいくのではなく、あくまでも環自身が心から、前向きな意思で俺を望んでくれるのでなければ、それはやはり「本物」とは云えない。
それは、俺のずっと目指してきた愛の形とは、似て非なるものなのだから。
だから、環が明らかに望んでくれるその日まで、とことん、プラトニックでいこう。
環の自宅に向かい、クルマを走らせる。
そんな俺に、今日が誕生日だからなのか、環は自分自身の出生のことを話してくれた。
「あたしにはね、お兄ちゃんがいるんだけど、その上にお兄ちゃんか、お姉ちゃんかわかんないんだけど、いたんだって…」
「うん」
「でも、お母さんのおなかの中にいるときに死んじゃって…」
「…うん」
「お母さんとお父さん、その時交換日記してたの。赤ちゃんが死んじゃった日の日記、涙でグシャグシャだった…」
「…そっか」
「あたしが生まれたとき、お父さんもお母さんも、その時の赤ちゃんが還ってきたって思ったんかな。命って、環(わ)っかみたいになってつながってて、それで、死んじゃった赤ちゃんの分も元気に育つように、って。だから、『環』ってつけたんだって」
環は、自分の出生と命名の意味を淡々と話した。
「その命の上に、たまちゃんがいるんだね」
俺は、そう答えた。
環は、無言でうなずいた。
環の自宅に着いた。
もうすっかり、辺りは暗くなり、夜のとばりが下りている。
「じゃ。また今度ね」
「うん。今日はありがと」
最後のデートが、終わった。
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