第4話 追憶・Ⅲ


 自分に納得する。

 それが、当面の俺の課題になった。


 俺は、バイトを辞めた。

 お金はもう必要なかったし、何よりも時間が欲しかった。


 生活時間も改めた。

 学校から帰るとすぐ、風呂に入って寝ることにした。

 そして、夜中の1時に起きて食事をとると、6時まで勉強した。

 6時になると、軽くジョギングしてシャワーを浴び、朝食をとって学校へ出かけた。

 超・朝型の規則正しい生活は、爽快だった。


 自分の性格上、放っておくとダラダラと夜型になりがちなのだが、同じ時間数活動していても、夜型に比べ朝型の生活は、自己肯定感を高めてくれる気がする。

 朝日を浴びて分泌されるという脳内物質セロトニンのなせる業なのか、それとも単に、夜型に比べて圧倒的な健全さを醸し出す「朝型人間」のホワイトな概念がそうさせるだけなのかはわからないのだが。


 ともあれ、俺の成績は、見る間に回復した。

 1学期の中間テストで、俺はクラストップになった。

 俺は環の存在の大きさを感じずにはいられなかった。


 しかし、模試の結果は志望校にほど遠いものだった。



 そんな、ある朝。

 今にも雨が落ちてきそうで、ぎりぎり降らない程度の空模様。

 俺は雨が降らないうちに、と自宅から最寄りの駅までを自転車で駆け抜けていた。

 水田の真ん中を通る、一直線の見通しのよい農道。左手には合板会社の四角い社屋。

 ふと、自転車を走らせる俺の横を追い越していった1台の車。

 確か、中学の頃、雨の日に環を迎えに来ていたのを見たことがある。環の家の車と同じ深緑色のセダンだ。

 俺の視点は、車内に吸い寄せられた。後部座席に小柄な女の子の後ろ頭が見える。

 よみがえる既視感。いつも教室で、俺が見つめていた勤勉な後ろ姿。

 乗っていたのは、間違いなく環だった。


 俺は、中学時代の朝のひとときを思い出した。

 物理的にも精神的にも距離は離れてしまっていたが、あのひとときが戻ってきたような気がした。


 通学時刻が似通っていたのか、俺は幾度も環の姿を目にした。

 そして俺の成績は、志望校を十分射程に納めるまでになった。



 この時、俺は心に決めていた。

 納得できる自分になれたら―

 その時には、胸を張って環に逢いに行こう。

 そして、思いを伝えるんだ。

 ずっと好きだったこと。

 環のおかげで、がんばれたこと。


 だが、そうするためには、自分に納得することの他にも大きな壁があった。


 環は、今まで数回、告白を退けている。

 そして、そのたびに苦しんでいる。

 自分を大切に思ってくれる相手。

 なのに傷つけなければならない自分。

 非道いことを云った、と、自己嫌悪に陥っていく環。

 次第に、恋愛に臆病になっていく環。


 ”ワタシハ ヒトヲ スキニハ ナレナインダ…”


 俺は、環につらい思いをさせるわけにはいかなかった。

 必ず、環にとって理想の男性になっていなければならなかった。

 そうしないと、環はまた、俺を傷つけたと考えてしまう。

 本当に、人を好きになれなくなってしまう。


 高校1年の電話以来、俺は環と言葉を交わしていなかった。


 俺の後先考えない行動が、環のトラウマを呼び起こしたかもしれない。

 もしそうだとしたら、環はいまだに、俺を傷つけたと気に病んでいるに違いない。

 俺には、環の心の傷を癒す必要がある。

 それは、あの時に後先考えず、行動してしまったものの責務なのだ―


 俺には、環に告白する勇気がなかった。

 自分を励ましたくて、自分の都合のいいように環を解釈していた。

 告白イコール環のため。

 この公式が、俺を動かす原動力だった。



 そして、冬。俺は、志望校の受験に臨んだ。


 受験からの帰りのことだった。

 俺は、電車待ちの時間を、デパートのなかの雑貨屋でつぶしていた。

 雑貨屋と云っても、洋風の置物やら時計、写真立てからグラスや造花などの「工芸品」的なものを扱う店だった。 


 俺は、はたと足を止めた。

 「…猫」

 陶器製のアメリカンショートヘアー。


 そういや、あいつは猫が好きだったっけ。


 俺も、猫は好きだ。

 だが、環を好きになったことで余計に、猫好きになったような気がする。


 俺は、アメショーを一匹、買うことにした。


 「ホワイトデーですか?」

 「…はい…」


 店長らしい髭のおじさんの勢いに押されて、俺は思わずそう答えた。

 そういや、そう云う時期かぁ…


 「はいはい。じゃね、これ。ホワイトデー用のリボン。どれにしましょーか?」

 「あ。じゃ、紫のヤツで」

 「包装は?2種類あるけど?」

 「白い、チューリップがらの方でお願いします」


 何も知らずに、おじさんは鼻歌を歌いながら「猫」の入った箱を包んでいく。


 「ハイ。どうもありがとうございました。彼女によろしく!」


 電車の中。

 俺は、後方へ流れていく景色をぼんやり見つめていた。

 なんとなく、買うことを思い立ち手にした「猫」。

 プレゼントなんて、思ってはいなかったはずだ…けど。

 やっぱり、この猫は環のためにあるんかな…。


 「…彼女によろしく!」


 さっきのおじさんの、最後の一言が胸に響く。

 きっと、渡そう。

 この受験が終わったら。

 そして、納得できる自分になれたら。



 4月。

 大学受験が終わった。


 俺は、志望校に落ちた。


 俺は、浪人することを決めた。

 自分に納得し、環に思いを伝えるために。

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