愛するという覚悟

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愛するという覚悟


 子どもの頃、全校集会とか卒業式の練習とかで体育館に集められた時、膝とか足とかを指先でそっと撫でてくすぐるのがすごくうまい子っていたじゃない? あの頃はただくすぐったいだけだったし、何も思わなかったけど、今思うとあれってすごくえっちだし、本当かどうか知らないけどくすぐったいところは性感帯になるっていうし、くすぐるのがうまかった子って、きっと大人になってから、すごくえっちが上手いと思うんだよね。


 ハイエースの助手席で、かなえが言った。


「……突然なんの話?」

「性感帯の話?」

「なんでよ」


 車の中でよかった、と思った。自分が運転していてよかった。だって、かなえの方を向かなくていい。自分の視線が揺れているのを、かなえに悟られなくて済む。


「七香はうまかったよね、くすぐるの」

「……そうだっけ?」

「うん、羨ましかったからよく覚えてる」


 かなえが、私の視界の隅で、自分の手をまじまじと見ている。指を広げ、曲げ、伸ばし、たまに窓から差し込む街灯の光を当て、いろんな角度から。


「私は自分の手が嫌いでさ、男爪だし、指が短いし」

「男爪ってなに?」

「爪の縦の長さより、横の長さの方が長い爪のこと。縦のほうが長いのが、女爪」

「なるほど」


 ちら、とハンドルを握る自分の指を見た。それでいうと私は、女爪ってやつらしい。


「学生の頃って爪まで検査されたじゃない? 白いところがあると切れー! って言われてさ」

「ああ、保健の先生に」

「そう、保健の中野先生に」

「よく名前まで覚えてるね」

「私、保健委員だったの。だから余計に爪を伸ばせなくて、すごく嫌だった」


 そう言ってまじまじと眺めているかなえの爪は、キラキラと真っ赤なネイルが光っているし、爪だって元の長さよりずっと長く伸ばされていた。爪が長くなるだけで、指まで長くなったように感じる。綺麗に整えられた、女性らしい手だ、と思った。


「そのせいでくすぐるのが下手なのかなって思ってた」

「なにそれ」

「でも違った。爪が伸びても、私はくすぐるのが下手なまま」


 まるで、最近誰かのことをくすぐったような、そういう言い方だった。誰をくすぐったの、って聞こうとして、聞けなかった。その会話が行き着く先はわかっていたし、私は今、その話をしたくない。だけど、かなえはそんな私にお構いなしに、先へと進んでいく。


「七香は、旦那とセックスしてた?」

「元旦那ね」

「元旦那だ」


 かなえはなにがおかしいのか、くすくすと笑いながらそう言った。笑い声が鼻についたけど、それは別に、この話題を笑われたからじゃない。昔からだ。かなえは昔から、ちょっと他人を馬鹿にしたような笑い方をする。


「……最近は、してなかったね。そういう雰囲気でもなかったし、もう、家族になってたから。お互いなんとなく」

「ふうん、……そういうもんか」

「そういうもんでしょ」

「私は結婚しなかったからな、結局。私が一番結婚しそうだったのに」

「自分で言う?」

「だって、みんなそう思ってたでしょ」

「まあ、ね」


 ミラーで後方を確認しながら、ウインカーを出して右折レーンに移る。この時間にこんなところを走っているなんて私たちくらいだって思うけど、それでも、教習所で習った通りに、ちゃんと確認する。


「高校卒業してすぐにでもデキ婚するんじゃないかって言われてたのも知ってる。私が誰より派手で、誰よりモテたからね」

「自覚あったんだ」

「うん。結婚式に呼ばれるたび、みんながちょっと勝ち誇った顔をして私を見てるのもわかってた」

「そんなことないよ」

「そんなことあるでしょ」


 かなえは真っ赤な指先で、長くて綺麗な茶色い髪をとかし、シートベルトに押さえつけられながら、座席に深く座り直した。視界の端に映るかなえは、どうしようもなく女だった。


「私、男とセックスできなくてさぁ」

「……え?」


 かなえから出てきたのは、予期せぬ言葉だった。


 予期せぬっていうのは、かなえがまさか、っていうのもあるし、それならどうやって、っていうのもある。とにかく、かなえの口から、今、そんなことが語られるなんて、私は夢にも思っていなかった。


「えっと……それは、どういう」


 どういう意味で。精神的な意味で。身体的な意味で。それとも他に何か理由が――


 矢継ぎ早に、頭の中で疑問が浮かんだけど、それをはっきりと口に出すのは憚られた。なんとなく。だって、私たち、そういう話ってしたことなかったから。


「あの人と出会った時にはもう諦めてたから、挑戦すらしてないけど」

「……他の人とは?」

「できない。何度やろうと思ってもはいらないし、はいってもずっと激痛なわけ。本当に激痛。耐えられないくらいの。だから、演技もできない」

「……」

「最初は、相手が下手くそなのかなって思った。それに、みんな痛いものだって聞いてたし、そんなものかなって。でも、ずっと痛いし、気持ちいって思えないし、そもそもしたいって思えなくて」


 なにを言えばいいのかがわからなくて、私はただ、黙って運転に集中している振りをした。道はどんどん狭くなってきているし、街灯も少なくなってきたから、振りじゃなくて本当に集中しないと危ない。私が黙っているのを、かなえがどう受け取ったかはわからない。ただ気まずかっただけかもしれないけど、かなえは、続きを話し始めた。


「知ってる? どんなにモテても、どんなに美しくても、セックスができないと捨てられるのよ」

「……そんなこと」

「あるの。あるのよ。別れの言葉をどう取り繕っていても、わかるの。ああ、セックスができないから気持ちが冷めたんだなぁって」


 かなえがそう言った時、珍しく対向車が来て、当てられたハイビームに目を細めた。


「わかるでしょ、七香だって。旦那とセックスしなくなった時、絶対に何かを感じたはず。『お互いなんとなく』なんて、そんなのあり得ない。どちらかの熱が、先に冷めたはず」

「……そう、かもね」

「ああ、元旦那、か」


 ふ、とかなえがまた、笑った。口の端だけを上げて笑う、いつもの笑い方。整った顔立ちが嫌味に歪んでいるのが、見なくても想像がついた。


「……どうして、セックスをしないといけないんだろう」


 それは、私に向けられた言葉だったのか、独り言だったのか、わからないくらい静かなトーンだった。それなのに、私はどうしようもなく責められているような気がして、なにも言えなくなる。


「愛情って、セックスをしなくても伝えられるよね。日々の感謝を伝えるとか、ぎゅっと優しく抱きしめるとか、そういうあったかい毎日を繰り返すことができるなら、それ以上なんてなくてもいいって思わない?」


 かなえの言葉は、今度ははっきりと、私への非難の色を含んでいた。だってそれは、私のことだ。あの人からセックスを断られて、それだけのことだったのに、女としての全てを否定されたような気がして、冷たく当たった。


 だってもう、あなたは私のことを愛していないんでしょう。

 だってもう、あなたにとって私は、女じゃないんでしょう。


 付き合っている頃はそうじゃなかった。週に一度、どんなに忙しくても時間を作って、明日がどんなに早くても夜中まで愛しあった。どこへいくにも手を繋ぎ、手をつなげば身体が火照った。私は、あの頃から、ちっとも変わっていないのに。


 あの人は変わってしまった。


「七香」

「……なに?」

「セックスって、子どもを身籠るためのものって考える人と、愛情表現のひとつって考える人がいると思わない?」

「……そうね」

「私は前者。いつか子どもが欲しいと思ってたから、苦痛だったけど最初は頑張った。快楽なんていらない。そんなもので愛は測れないって知ってた」


 かなえの口調は、大人が子どもを諭す時のような、理性的に叱りつける時のような口調で、冷静な物言いの奥に、私を怒鳴りつけてしまいたいという激情が見え隠れしていた。私はそれに、気がつかない振りをして、汗をかき始めた手のひらで、ハンドルをしっかりと握り直した。


「七香は、子どもができないからセックスで愛情を測るようになったの? それとも、昔から?」

「……さあ、どうだろう」

「あの人に、子どももできないんだからセックスなんてやめようって言われた時、どう思った?」


 ぎゅっと強くハンドルを握りしめ、思い切りブレーキを踏み込んだ。キイイイっとタイヤが音を立て、急停車する。シートベルトに制されて、右肩と鳩尾に力が入った。かなえの身体が大きく前に出て、後ろに戻る。同時に、後部座席で荷物が盛大にずれる音が響いた。


「びっ……くりしたぁ。あ、やばい、大丈夫かな」


 かなえが身体を捻って後部座席に目線を送る。暗い車内にある真っ黒な荷物を、目を凝らして見ているのがわかった。心臓が、ドクドクと大きく脈打って、苦しい。動揺してる、と自分でも強く感じた。動揺している。今更、そんなことどうでもいいことなのに。もう終わったことなのに。もう、旦那ですらない人のことなのに。


 ハンドルに頭を預け、懸命に息を整えていると、かなえが身体を翻して前に向き直った。


「大丈夫そうだね、よく見えないけど」

「……かなえ」


 絞り出した声は、自分で思っていたよりずっと低くて、掠れていた。喉の奥が締まっている感じがする。いつも、どうやって声を出していたのか、思い出せない。私はハンドルに突っ伏したまま、言葉を続けた。


「かなえは、あの人を愛していたの」

「……そうね、愛していた、と思う」


 曖昧な物言いが鼻につく。こんな状況で、私に聞かれているのに、どうしてはっきりと、愛していたと言えないんだろう。どうしてかなえは、いつも私を苛立たせるんだろう。


「……七香は?」


 かなえの声が、私の鼓膜を震わせた。ゆっくりと顔を上げて、かなえの方を見据える。自分が、どういう表情をしているのか、自分でももう、わからない。


「私、……私は」


 私は、あの人がいないと生きていけなかった。

 あの人がいれば、なんだってできると思っていた。

 子どもができなくたって、ふたりでこれからも、今までと同じように生きていけるって信じていた。私が、我慢さえすれば。


「私は、あの人に……愛してほしかった」

「……そっか」


 だけど結局、あの人が愛したのは私じゃなくて、――かなえだった。


 あの日、結婚式で友人代表挨拶を頼むために、かなえを私の家に招待した。かなえが鳴らした玄関のチャイムに、珍しく「俺が出るよ」なんて言って、あの人がかなえを玄関で迎え入れて、リビングへ引き入れた。そう、あの時。あの時にはもう、そういう予感があった。――間違えた。そう思った。この二人を、引き合わせてはいけなかった。女の勘というものが自分にも備わっているということを、私はあの時、初めて実感した。


 私が離婚したのは、なにもあの人がかなえと不倫したからってだけじゃない。それが発覚する前から、今思えば私たちの結婚生活は破綻していた。結婚する前に六年も付き合ったから、結婚式をする頃には関係はすっかり落ち着いていたし、仕方のないことだと思っていた。


 結婚式の準備だって、あの人はほとんどなにもしていない。打ち合わせに行くのもいつも私で、手作りで準備するものは、私と私の母が全て用意した。母は楽しそうだったけど、時々、「なにも手伝ってくれないのね」なんて愚痴がこぼれることもあった。


 結婚式は私の地元で執り行われた。私は彼よりも一週間早く地元へ帰って、遠方から来てくれる人たちのために観光タクシーの手配をしたり、余興をやってくれる友人たちと打ち合わせをしたりした。あの人のために、サプライズ演出も用意した。


 あの人は、結婚式前日にやってきて、バタバタと準備をしている私に対して「なんか太ったね。実家でいいもの食べさせてもらってるんだ」と言った。信じられない、と思った。この人は、なにを言っているんだろう。この一週間、いや、この半年間、私がどれだけ大変だったか。なにも手伝わなかったくせに、前日に、花嫁に向かってなんてことを言うんだろう。


 悔しさと、怒りと、虚しさと、いろんな気持ちが込み上げたけど、なにも、私はなにも言わなかった。小娘のように泣くこともしなかった。できなかった。私の中で、あの人の立ち位置がはっきりと変わった瞬間だった。


 それでも、私には彼が必要だった。私が生きていくには、幸せになるためには、彼が必要だった。そう思っていた。だから、目を瞑った。予定通りに結婚式を行い、予定通りに彼へのサプライズを披露した。


 彼はそれに涙を流して、それを見た私の友人や親族が「なんていい旦那さんなの」と称賛した。どこが? と思った。だって彼は、ただ泣いただけだ。なんの手伝いもしていない。ただ当日、言われた通りにタキシードを着て、言われた通りに歩いて、泣いただけ。この人がやらない分、全部、私がやった。仕事も家事もこなして、遠方まで打ち合わせに行って、絵を描いて、ブーケを作って、曲を選んで、新郎側の親族のホテルも手配した。私がやった。でも、それは、来てくれた人にはわからない。


 納得はいかなかったけど、お祝いの席で、わざわざ集まってもらった人たちにそんなことを言うのは違う気がして、私はグッと言葉を飲み込んだ。まだ、我慢ができた。


 あの人が、私が地元に帰っている間の一週間、かなえの部屋で過ごしたと知るまでは。


「私はさ、七香」

「……」

「七香は、やっぱりあの人を愛していたって思う」

「……どの口が言うのよ」

「まあ、うん、そうね」


 ふ、と漏れた声は、私を嘲笑する声なんかじゃなくて、何かを諦める時みたいな、そういう声だった。


「でも、それでもさ」


 かなえは言葉を続けた。何か、言葉を選んでいるような歯切れの悪さで、かなえにしては珍しいな、と思った。思いながら、私は姿勢を正して、前に向き直る。それから、しっかりとハンドルを握り直して、アクセルを踏んだ。


「……それでも、だって、私には、できなかったもの」


 少しずつ、スピードを上げていく。窓なんて開いていないのに、風が、頬を撫でていくような心地がした。どんどん、闇が深くなっていく。それに伴って道の舗装が緩くなって、地面を撫でるタイヤがガタガタと車体を揺らしている。


「私には、できなかった」

「……」


 セックスのことだろうか。それとも――


 かなえの言葉は、とても静かな言葉だった。静かで、私の心には届かない言葉。ただ、鼓膜を揺らすだけで、その先はない言葉。負け犬の遠吠え、と思った私は、性格が悪いだろうか。


 これ以上は車で進めない、というところでハイエースを停車する。ブレーキを踏んだ時にタイヤが土を噛んだような感覚があった。そういえば今朝は雨だった、と思い出す。この辺りは、日中もあまり日が差さないのかもしれない。人の通りはなさそうだけど、念の為、車のライトは消しておいた。


 シートベルトを外して、外に出る。私に倣って、かなえも、浮かない表情で車を降りた。


 後部座席の扉を開けると、黒い大きなゴミ袋が、薄らと月の明かりに照らされている。車の振動に揺らされて動いているように見えていたゴミ袋は、今はピクリとも動かない。


「……」

「……ねえ、七香」

「……なに、かなえ」


 心臓が、どんどん早くなっていくのがわかった。耳の奥で、キィン――と耳鳴りのような音が響いている気がした。


「私のことも、--の?」



「……ひとりじゃ、二体も運べないわよ」

「……そっか」


 かなえは、ゴミ袋に手を伸ばすのを躊躇っていた。私は、躊躇わない。私は、泣かない。私は、私の手で、すべてを終わらせると決めたのだから。


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