なんでもない夜 2

 洗い物を終えて居間に戻ると、ソフィはソファーに腰かけて静かに書物を読んでいた。

 隣にぴったりとくっついて座ると、垂れ目がちの目元をいっそう緩めてわたしを見てくれたので、微笑み返して肩に頭を預けた。


 ソフィの膝の上の書物に、胸がざわめいた。


◇◇◇


 その日の夜、お風呂から戻ると、やはりソフィはソファーで書物を読んでいた。

 わたしはソフィの膝の上から書物を取り上げ、テーブルに置く。


 ソフィは取り上げられた本に拘泥することはなく、わたしの方を見る。


「あら、どうしたの」

「わたしの膝を一日占拠する悪い本をどかしました」


 優しい声で問いかけてくるソフィに答えながら、膝の上に横座りに腰をおろす。

 柔らかだけど、その奥のしなやかな筋肉がわたしの重みをしっかりと受け止めてくれる。

 するりと腰に回された腕が、わたしの体をソフィに密着させる。

 昼間からわだかまっていた胸のつかえがすっと消えた。


「今日は甘えたさん?」


 甘い声が、わたしの耳朶をくすぐる。


「何かソフィの話しを聞かせてください」

「そうね。どこまで話したかしら」

「聖剣を継承できなかったところまでです」


 最近、わたしは寝物語にソフィの昔の話しを少しずつ聞いている。


 双子の兄への劣等感に苛まれていた幼少期の話し。

 拠り所だった母親を亡くした話し。

 体を動かすの好きで騎士の訓練にのめり込み過ぎて叱られた話し。

 成人の儀で初めて聖都を訪れた話し。

 聖剣を継承できなかったことが悔しすぎて部屋に引きこもった話し。


 わたしの知らないソフィの思い、想い。

 それを知るたびに、少しだけソフィに近づけた気がする。


「じゃあ、今日は私の情けない初陣の話しでもしましょうか」

「そう言えば、ソフィってわたしと出会ったころには実戦経験ありましたよね」

「そうね。私の初陣は成人してすぐ後、騎士団の軍事訓練に参加したときのことだったわ」

「よく、お姫様が参加できましたね」


 軍隊と共に行動するのだから、ある意味では安全かもしれないけど、五王国の王女がすることではない。

 もし王女の身に何かあれば、どれだけの人間の責任問題になるのか。そう言うことを人一倍気にする人だったはずだ。


「あの頃は聖剣が継承できなくてふさいでいたから、気分転換も兼ねて許されたと言う部分もあるわね」


 聖剣の継承は、魔力がだいたい育ち切る成人前後に行われるそうだ。王位を継ぐ可能性の高い男子は比較的早くに行われ、女子は成人後と言う場合が多いらしい。


 それにしても、軍隊の訓練に参加することが気分転換になると言うのが、もう意味不明すぎる。

 散歩や散策ではないのだ。

 王女が参加しているから訓練課程に手を抜かれることはなかっただろうと言うのは、この人を見ていればよく分かる。


「訓練って何をしたんですか」

「その時は、行軍訓練だったの。武装したまま物資を背負って、徒歩かちで片道五日の砦まで往復するのよ」


 かつては、騎士とは騎兵であったけど、ローレタリアではだいぶ前から指揮官級の職業軍人をさす。

 もちろん馬上戦闘もするけれど、魔術による広範囲攻撃が一般化した今では騎兵突撃は花形とは言い難い。

 ちなみにソフィは正式に叙勲を受けた騎士らしい。


「すごくきつくて笑っちゃったわ」

「…ソフィって、ちょっと変ですよね」


 ソフィのことが大好きなわたしでも、少し引いてしまう。

 甲冑はだいぶ昔に廃れたとは言え、金属製の部分鎧はそれなりの重量だし、野営用の物資を詰めた背嚢の重さは、魔王領の旅でわたしも身にしみている。

 わたしの足に合わせてくれていたあの旅とは違って、軍隊の行軍速度に容赦はなかったでしょう。

 なまじ経験があるだけに想像するだけできつくて、まったく笑いごとではない。


「変って失礼ね。まあ、汗だらだらで何とかついていってたから、足手まといだったと思うわ。やはり本職の騎士は基礎体力が違うわね」


 むしろ、何でついてこれるのかって思われていたんじゃないかな。たぶん、途中で運ぶ道具とか要員も普通に準備されていたと思う。


「そんなだったから、砦に着く頃にはもうへとへとでね、こっそり吐いてしまったわ」


 この人のことだから、表面は上手く取り繕ったのでしょう。

 そうやって完璧な王女の印象は固まっていったのだ。


「帰りは荷物が減っている分だけ楽なはずなのに、一回休んでしまうと駄目ね。もう手足が重くて水の中を進んでいるようだし、頭の中でアレクがずっとおかしなこと言っているし」

「おかしなことって何です」

「お前はここまでか、とかアレクが絶対言わなそうなこと。支離滅裂で意味なんてないわ」


 そう言う時に思い浮かぶのが双子の兄であることに少し苛立つ。

 その頃は出会ってすらいないのだから仕方ないけど、今ならわたしを思い浮かべてくれるのだろうか。


「私ほどではないけど、皆疲労があったのでしょうね。三日目に魔獣の奇襲を受けてしまったの」

「どんな魔獣だったんですか」


 魔獣は野盗などと違って、騎士団だからと言って襲撃に躊躇したりはしない。

 王都の近くで武装した騎士団を襲撃するものなどいないという油断もあったのかもしれない。


「グレタロスだったわ」

「雄牛型の二種蹄類…特類でしたか」

「特類ね。群体を形成する魔獣よ」


 人の体躯を超える大型の魔獣を二種と言うけど、その中でも特異な能力をもつ魔獣は特類に分類される。グレタロスは二種としては小型だけど、数十体の群れが全て一つの個体と言う特異性を持つ。

 減っても時間をかけて分体を生み出すため、必ず殲滅しなければいけない。


「突然の襲撃で乱戦になってしまって、もう個々で対応するしかない状況だったわ」


 王女が乱戦に巻き込まれるなんて、近衛からしたら気が気ではなかったでしょう。


「わたしは疲労もあって頭が真っ白になってしまって」


 感情的なくせに、どんな時でもどこか醒めているこの人が真っ白になっているところと言うのは、少し見てみたい気もする。


「そこに統率個体の一体が突撃してきたのよ。もう力加減とか全然分からなくてね。内魔力も全力で思いっきり剣を切り上げたの」


 統率個体と言うのは、群体の一部を統率する他より体躯の大きい個体のことだ。

 ソフィが莫大な内魔力を自己強化に全振りしたら、剣だろうと棍棒だろうと大して変わらない。人間だったら挽肉になるだけでしょう。


「本当にね、たまたま上手く首に当たったのよ。そうしたらね、首がね、こうぽーんと飛んでいってしまって」


 わたしの腰を抱いていた手を片方離して、ぽーんと上げる。

 いや、この人、何を楽しそうに話しているの。


「あんまり嘘みたいに高く飛ぶものだから、呆然と見上げてしまったの。そうしたら返り血を頭から被って、血まみれになってしまって。近衛たちが駆けつけて、隠してくれたけど、本当に恥ずかしかったわ」


 たぶん、目撃した人は引いていたと思う。

 普通の大型の獣の首を落とすのだって尋常な膂力でできることではない。まして魔獣の呪体は普通の生物よりもよほど強固だ。それを一撃で刎ね飛ばすなんて、騎士だって、いや騎士だからこそ目を疑うでしょう。


 この人、戦闘力の基準が聖剣を使うアレクシス王になっているのではないだろうか。

 武芸の腕前が騎士の中ではそんなでもないから、自分は大して強くないって思い込んでしまっている。

 対魔獣戦の経験は大陸屈指でも、対人戦の経験がたぶん、ほとんどないから比較する相手がいなかったからかもしれない。

 もちろん、人間同士の戦いは身体能力だけで決まるものではないでしょうけど、逆に武芸の腕前だけで決まるものでもない。


 それにしても、この人、甘い声で何て話しをしているんだろう。

 吐いたとか、首が飛んだとか、返り血とか。

 声の甘さと、話しの殺伐さの温度差で風邪を引きそう。


「ソフィ、面白かったんですけど…」

「うん?」

「恋人を膝に乗せてする話しじゃないです」

「え…」


 ようやく気がついたのか、奇麗な顔がうっすらと赤くなる。

 その反応があまりに愛らしくて、わたしは楽しくなってきてしまった。


「も、もう。今日のお話しはおしまい。寝るわよ」


 わたしをそのまま抱き上げて、寝室に向かうソフィ。

 その首筋に抱きつきながら、わたしはずっと忍び笑いを漏らしていた。

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