夏の夢 10
聖都からの帰途についたわたしたちは、またひと月ほどをかけて家に戻ってきた。
春の終わりに家を出てからふた月。
季節は盛夏を迎え、北の地でも薄着ですごせる気温になっていた。
ふた月の間に積もった家の埃を掃除して、人心地ついたわたしたちは居間のソファーでくつろいでいた。
ソフィとの旅は楽しい。二人で知らない景色を見て、知らない料理を食べるのは心が躍る。
でも、今回のように他人と関わらなければいけないのは疲れる。
わたしはソフィに寄りかかって、くったりとしていた。
旅の間は気を張っていて大丈夫だったけど、家で落ち着いてしまうと途端に疲労が襲ってきた。
ソフィは手持ち無沙汰なのか、わたしの指をずっといじっている。
しばらくして、気持ちが浮上してきたわたしは、ソフィに気になっていたことを聞くことにした。
「ソフィはわたしを他人に関わらせたかったのですか」
「え、どうしてそう思ったの」
「外に連れ出そうとしたり、訓練を誰かとしろと言ったから。わたしがソフィに頼りすぎなのを、何とかしようと思ったのではないのですか」
「そんなわけないじゃない」
違うんだ。
わたしはソフィの言葉の続きを待つけど、ソフィは何も言わない。
まただ。ソフィは聞けば答えてくれるけど、その答えの理由までは言ってくれない。
「どうして、そんなわけないんですか」
「え…」
吃驚したのか、ソフィがわたしの方を向く。
わたしが踏み込んでくるとは思わなかったのだろうか。
「ソフィが何を考えているのか教えてください」
「どうしたの。違うのだからいいでしょ」
「知りたいんです」
ソフィが顔を逸らす。
「わたしには言いたくないんですか」
「そう、ね。あまり貴女には知られたくないかも」
わたしはソフィの顔を掌で挟んで、無理矢理こちらに向けさせた。
「それでも、知りたいんです」
「どうしても、言わなければ駄目?」
「駄目。言ってください」
ソフィはわたしの手を取って、掌に口づけをする。
微かに掌にかかった息は、ため息だっただろうか。
「…私はね、本当は貴女をここに閉じ込めて、誰の目にも触れさせたくない」
「意外です。ソフィは私を外に連れ出したいのだと思っていました」
「その方がいいとは分かっているの。いろいろなものを見て、触れた方が貴女は過去から解放される。そうして変わっていく貴女を見るのが嬉しいのも嘘じゃないのよ」
「わたしはソフィと一緒なら、どちらでも楽しいです。でも、どうして、わたしを閉じ込めたいんですか」
急に手を引かれて、わたしはソフィの膝に仰向けに転がされた。
ソフィの膝の上で、真上からのぞき込まれる。
「ねぇ。私を貴女に執着させたのは、自分だって忘れていない?」
そんなこともあっただろうか。
あの頃と今では、ソフィとわたしの関係が違いすぎて、あまり宮殿にいた頃のことは気にしていなかった。
「私はいまだって、貴女に見捨てられるのが怖いのよ。本当の私は弱くて、嫉妬深くて、独占欲が強くて、狡いの。貴女の世界が広がることは嬉しいけど、いつか私を必要としなくなるのかもしれないと思うと、滅茶苦茶にしたくなる時もある。そういう私は見せないようにしてきたの」
見上げるソフィの瞳が揺らいでいる。
少し、泣きそうに見えた。
そうだった。この人はとても泣き虫なのだった。
「…わたし、どこかで信じられていないのかもしれません」
「私を?」
「いえ、これが現実だって」
わたしは手を伸ばして、ソフィの頬に触れる。
たしかに触れられるのに、奇麗すぎて現実の人とは思えない。
「本当のわたしはもうとっくに壊れてしまっていて、夢を見ているだけなんじゃないかって。ソフィなんて、本当はいないんじゃないかって。それなら、この夢に溺れていたかった。この夢が壊れてしまうことが怖かった」
だから、なるべく考えることを放棄していた。
甘い夢を見続けていたかった。
「だって幸せすぎるんです。わたしの人生にこんな都合のいい事あるはずがないって、どこかで思ってしまうんです」
わたしはソフィの柔らかな頬を少し強く抓った。
「ちょっと。痛い」
「ソフィがいけないんですよ。わたしのために命をかけてくれて、心をくれて、ずっと一緒にいてくれて、愛してくれて、奇麗で可愛くて、強くて優しくて、お姫様なのにしっかりしていて、わたしの全部を救ってくれた人。ふふ。言葉にしたら、こんな人ただの妄想でしょう」
でも、そんなふうに思ってしまうのは、わたしがソフィを知らないから。
ソフィが見せてくれるものしか、見なくなっていたから。
知らないから、怖いんだ。
わたしはソフィの完璧ではないところに惹かれたはずなのに、いつの間にか王女のあなたを取り巻く人たちと同じになっていた。
「私が本音を隠していたことで、不安にさせていたのね」
「わたしが、ソフィに甘えていました。ソフィが愛してくれているならそれでいいって、考えることをやめていました。わたしもソフィのことを知らないと。ううん、違う、知りたいんです。あなたがどう育って、何を思ってきて、何を感じてきたのか」
言葉にして、やっと理解できた。これは、あの日、宮殿の浴場であなたがくれた言葉だ。
「…ああ、これが。わたしのことを知りたいと言ってくれた、あなたの気持ちなんですか。あなたはずっと、こんなにわたしを想ってくれていたんですか」
「そんなふうに思ってくれて嬉しい。私のいやなところを知っても嫌いにならない?」
「なりません。ぜんぶ、教えてください」
わたしが手を伸ばすと、ソフィが覆い被るように屈む。
ソフィの首に腕を回すのと同時に、唇が重なった。
触れるだけの口づけが離れる。でも唇は離れていかず、何度も掠めるように唇を食まれる。
「…ソフィも、女しか好きにならないんですか」
「なぁに。あの人が言っていたことを気にしているの」
「だって…」
「たぶん、違うわ。貴女以外の人の体を欲しいと思ったことがないから」
いつの間にか伸ばされていたソフィの指に、腰を優しく撫でられる。
「今でも、欲しいと思ってくれていますか」
「もちろん。ずっと、我慢しているのよ」
「それなら…」
わたしは抱きしめる力を強めて、ソフィの耳に唇をつける。
恥ずかしさが消えたわけではない。
いまだって、頭が沸騰しそうだ。
だけど、もうこの人を崇めるように見るのはやめよう。この人だって迷うし、弱いところもある、わたしと同じただの人なのだから。
分かっていたことなのに、恋をして、その想いが大きすぎて、いつの間にか見えなくなっていた。
「…抱いてください」
消え入りそうなほど小さな声で囁く。
「いいの?」
答える代わりに、首筋に顔を埋めたまま頷く。
体が浮き上がり、抱き上げられたのが分かった。
そのまま、足早にソフィの寝室に運ばれる。
部屋に入った瞬間に、背後でした大きな音に吃驚した。
ソフィが乱暴に扉を閉める音だった。
ソフィは普段、大きな音を立てない。
音を立てないようにしなくても、動きが丁寧で、余分な力なんて欠片も入っていないのがソフィだから。
混乱しながら、そんなことを考えているうちに、いつの間にか寝台の上に寝かされていた。
ソフィはわたしのお腹のうえにまたがって、腰をおとす。
呆然と見上げると、わたしを見下ろすソフィと、目が合った。
「テレサ、どんな私でも受け入れてくれるのよね?」
微笑んでいるのに、目がまったく笑っていない。
いつかも見た、冷たい目だった。
その目の奥を、わたしは初めてのぞき込んだ。冷たい目のずっと奥に、氷のような炎が見えた。
わたしは恋に浮かれて見えていなかった。
ソフィの目の奥には、ずっとこの冷たい炎があったんだ。
それは、捕食者の目。
こわい。
この目が怖くないなんて、ソフィがただわたしに優しいと勘違いしていたからだ。
照れ隠しでけだものなんて言っていい人じゃなかった。
この獣性を自覚しているから、ソフィは自制していたんだ。
怖いのは、きっと今夜、わたしは身も心も本当にこの人に囚われる予感があるから。
わたしのことが大切だから、手を出さなかったんじゃない。
それも、嘘ではないかもしれないけど、本当は待っていたんだ。わたしが自分から食べられに来るのを虎視眈々と、瞳の奥に欲を隠して。
わたしが言い出さなければ十年でも二十年でも待ち続けて。恋に浮かれるわたしをどこにも逃さないように愛でながら。
きっと、泣き喚いたって許してくれない。
今までのわたしを抱く時の、優しいソフィでも意地悪なソフィでもない。ソフィの本性を教え込まされる。
「私の全部を、教えてあげる」
なんとなく、一晩では済まないだろうな、と思った。
夢から醒めて本当のソフィを知る、そんな夏の夜。
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