春を想う 6

 ソフィに抱きかかえられたまま、家に帰る。

 その間、ぐずるわたしをあやすように、ずっと背中を撫ででくれた。


 開け放しの家に入ったソフィが、足を止める。


「テレサ、吐いたのっ」


 ソフィの言葉に、羞恥心でお腹の底が熱くなった。

 吐しゃ物をあなたに見られたことに、言いようのない恥ずかしさを覚える。

 恥ずかしいところを見られたくないなんて、そんな見栄。


「どこか具合が悪いの?」

「ち、違います。すぐ片付けますから」

「駄目。テレサは体を温めて。指先をよくほぐしてね。暖炉に当てては駄目よ」


 わたしをソファーに下ろすと、手際よく動き始める。

 暖炉に薪を足し、着替えと毛布をわたしに押し付けてから、吐しゃ物を片付けてしまう。


 あまりにもいつも通りで、わたしは言いようのない気持ちであなたを見ていることしかできなかった。

 このまま、何事もなかったかのように日常に戻ってしまうのではないかという、淡い期待のような気持ち。

 あなたに伝えなければという想いが、へし折れそうになる。


 戻ってきたあなたは、手に持った盥をわたしの足元に置く。

 お湯の張った盥の中に、わたしの足を手に取って入れる。そのまま、当たり前のようにわたしの足指を丁寧にもみほぐす。

 その手つきが、とても愛し気で、見栄とは違う羞恥心がこみ上げてくる。


 こんなこと、こんなこと。

 普通にすることじゃ、ない。


 こんな扱いを受けるのは、幼子かお姫様くらいで、その人にとって特別な誰かだ。

 ソフィが変わったわけではない。

 あなたは、ずっとわたしをこう扱っていた。

 わたしはなんで平気でいられたのだろう。

 あなたはなんで平気でできるのだろう。

 自分がお姫様だから、当たり前のことだと思っているのだろうか。それとも、わたしと同じ想いでいてくれるのだろうか。

 期待ばかりが膨らんで、怖い。


 丁寧すぎるくらい十分にもみほぐした後で、手拭いで拭いてくれる。

 膝をついたあなたの頭頂部しか見えなくて、今どんな顔をしているのだろうと、気になって仕方がない。

 無意識に伸ばした手が、あなたの髪に触れる。


 それに気が付いたあなたが顔を上げて、微笑んだ。

 その微笑みを見て、胸の中の想いに出した答えを確信する。


「あんな格好で外に出るなんて、何かあったの?」


 いつもの優しい声。

 でも、きっとこの人は別れを告げる時だってこの声のままだ。

 優しくて、残酷な人。わたしに大きな優しさをくれるために、今までの全てを切り捨てた。切り捨てられた人の中には、あなたを強く慕う人がどれだけいたのだろうか。その決断にどんなに痛みを伴っても、それができてしまう人。

 あなたを望めば望むほど、自分が切り捨てられることが怖い。


「ソフィ。勝手に契約を使って済みません」

「別に構わないわよ」

「いえ、やってはいけないことでした。もう、二度としません」

「そう? 私も急に繋がりを切って、ごめんなさい」

「ソフィに拒絶されて、わたしをおいてどこかに行ってしまうんじゃないかと、不安になってしまいました」


 思い出すだけで、そうなってしまうことを考えただけで、涙が零れそうになる。


「そんなに不安にさせてしまったのね」


 ソフィがテーブルに置いた荷袋から、小さな箱を取り出した。

 わたしを拒絶するきっかけとなったそれに、背筋が粟立つ。


「中を確認するところを見られたくなかったから」


 とても大切そうに、その箱を持ったまま、わたしを見上げてくる。

 優しさを潜めて、切実なまでの真剣さを湛えた瞳の光に、わたしは声も出せない。


「テレサ、私も貴女に伝えたいことがあります」


 天鵞絨に覆われた品のあるその箱を開き、わたしの左手を取って、あなたはそれを薬指に通した。


「え…」


 わたしの指に、銀色の指輪が光っていた。

 左手の薬指は、祖王が精霊との契約を結んだと言われる指。永遠を誓約する指。


「本当は自分で働いて購いたかったのだけど、貴女の傍を離れたくなかったし。貴女が繋がりを全て断つ必要はないと言ってくれたから…恥を偲んで王、アレク兄様に耳飾りの代わりに送ってもらったの」

「耳飾り…?」

「ええ。私だと気付かれないように、兄様までつなぐのに時間がかかってしまって」

「だって、あれはお母さまの形見だって…」


 貴女があの耳飾りを置いて行こうとしたのは、それが大事なものだからこそ。

 持っているだけで、王女の自分の縁となるものだから、捨てていこうとした。


「いいの。私にとって価値のあるものと換えたかったの」

「どうして、こんな…」


 わたしはただ、その指輪を凝視することしかできなかった。


「テレサ、貴女が不安になったら、何度でも約束を重ねるから」


 あなたの掌が、指輪の上に重ねられる。


「テレサ、愛しているの」


 ぼろりと、涙があなたの手に零れた。


「ああ、やっと言えた。言える私になれた」


 なんで、こんな簡単なことが分からなかったんだろう。


「ずっと、貴女に何をできるか考えていたの」


 好きなんだ。


「貴女が私に初めてをあげられなくて苦しいなら」


 だから、あなたに全てをあげたかった。


「貴女にしか私にあげられない初めてがあるの」


 それができないことが悲しかった。


「私はそれが欲しくて、欲しくてどうしようもないの」


 触れられるのが怖かったのは、嫌われたくなかったから。

 目で追ってしまうのは、わたしだけを見てほしいから。


「貴女の初めての恋を、私にください」


 こんなに、こんなに好きだったんだ。

 ずっと好きだったんだ。

 わたしの心は幼すぎて分かっていなかっただけで、ずっとわたしは恋をしていたんだ。


「ソフィ」


 とめどもなく涙が流れる。

 でも、これは悲しいからでも、苦しいからでもなかった。


「ソフィ」

  

 わたしはソファーから転がり落ちるように、ソフィの前に膝をついた。

 視線の高さが重なる。

 もう、ただ一方的に想いを捧げられるだけではいたくない。


「好きです。大好きです。誰にも渡したくない」

「本当? 嬉しい…」


 その震える声で、あなたも怖かったのだと分かった。


 あなたがわたしの手を取り、指輪が入っていた箱を乗せる。

 箱には、もう一つ指輪が入っていた。

 わたしの指に光る指輪と、同じ指輪。


 あなたが自分の左手を、わたしに差し出してくる。


「私を、貴女の恋人にしてくれますか?」


 指輪を手に取る。

 みっともないくらい震える手で、自分と同じ指に指輪を通した。

 その指輪に、あなたの涙が落ちる。

 わたしは、微笑みを浮かべたまま、美しい涙を流すあなたを正面から見つめる。


 泣き方まで美しくて、悔しくなる。

 こんな人に求愛されていることに、畏れにも近いくらいに心が震える。

 それでも、わたしはもう、あなたを誰かに譲ったりはしない。


「ソフィ、わたしの恋人になってください」

「はい。私をテレサの恋人にして」


 あなたの手が、わたしの指輪は嵌めた手を取る。

 わたしの手が、あなたの指輪を嵌めた手を取る。

 指が絡み合う。


 どちらからともなく唇が重なる。

 触れるだけの口づけ。

 でも、今までのどんなに深い口づけよりも幸せの味がした。


 あなたへの好きが溢れて、衝動的に抱きついてしまう。

 当たり前のように受け止めて、抱き締め返してくれる。

 いつだって、あなたはわたしの全部を受け止めてくれる。


 温かく、柔らかい。安心できるのに、胸の高鳴りが止まらない。

 どうしよう。こんなのが毎日続いたら、死んでしまいそう。


 あなたは一つだけ嘘をついた。

 運命の人があなたじゃないなんて嘘だ。

 あなたはわたしのすべてを救ってくれた。

 それは、あなたの思う救いではなかったかもしれないけど、わたしにとってはあなたがくれた全てが救いだった。


 でも、恥ずかしくて、そんなこと言えない。


 ふと、顔を上げると、窓から外が見えた。

 いつの間にか、冬の日差しは柔らかくなっていて、少しだけ雪を溶かし始めていた。

 季節は過ぎて、冬が終わろうとしている。

 裏庭で蹲る、幼いわたしの冬もきっと終わる。

 わたしの心に降り注ぐ、あたたかな陽の光のようなあなたの愛に。

 春を想う。


(完)

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