春を想う 5

 わたしはソフィと会うまで、楽しい、と言うことを知らなかった。 


 だから、人は楽な方に流れるのだということを、今さらのように実感した。

 一度、使い魔の権能を使ってしまえば、その誘惑に勝つことはできなかった。

 ソフィは咎めるどころか何も言わないから、歯止めを失っていた。


 罪悪感は消えなくても、あなたが家から出ると、つい視界を繋げてしまう。

 視界以外は繋げず、いつでもあなたから繋がりを断てる状態にしたのは、せめてもの言い訳だった。


 最近のあなたは、行商が来る度に村に行っている。

 以前はこれほど頻繁ではなかった。


 その度に、手紙のやり取りをしている。

 誰と、何のために。


 あなたにはもう、手紙のやり取りをする相手何ていないはずなのに。

 それとも、わたしが知らないだけで王女として以外の顔が、あなたにあったのだろうか。

 そんなはずはないと思う。そんな相手がいれば、何もかも捨ててまでわたしにこだわる必要はなかった。


 それなのに、悪い想像をやめることができない。


 手紙を出している相手は、男なのだろうか、女なのだろうか。

 あなたがその人に笑いかける。

 あなたがその人に触れる。

 あなたがその人と抱き締め合う。

 あなたがその人と口づけを交わす。

 あなたがその人と体を重ねる。


 想像するだけで吐き気がする。

 あなたが帰りたいと思った時は止める権利なんてないと思っていたはずなのに、それが現実にあり得るとなったら、とてもではないけど受け入れられるものではなかった。

 この気持ちは、なんなのだろう。


 わたしは弱くなってしまった。

 いえ、ただ今まで自分の弱さを知ろうとしていなかった。


 あなたと二人きりの関係なら、その弱さに目を向ける必要はなかった。

 あなたはいつもわたしを温かく、優しく包み込んでいて、わたしは子どものようにいられた。

 でも、わたしの過去はあなたとの関係にも影を差していた。自分の弱さを知らないでいることは、もうできない。


 あなたの優しさにただ甘えているだけなのは、もう許されない。

 あなたがそれを許してくれるとしても、自分が許せない。

 きっと、それではいつかわたしたちの関係は破綻してしまうから。

 わたしはあなたに負い目を感じ続けるだろうし、そんなわたしにあなたもいつかは疲れてしまう。


 どんなに苦しくても、自分があなたに相応しくないと思っても、あなたのことを手放したくないのなら。

 わたしもあなたに向かって歩き出さないといけない。

 そのために、自分自身の気持ちと向き合わないといけない。


 わたしはあなたとの未来が欲しい。

 この気持ちに。

 想いに。

 わたしは何と名前を付ければいいのだろう。

 その答えを、もう出さないと。


 でも、もう少しだけ時間が欲しい。

 せめて、この冬が終わるまでの間は。

 雪が積もっている間は、きっとあなたもどこへも行かない。


 そんな悠長なことを考えていたからだろうか。


 繋がった視界の中で、行商人がソフィに手紙と、小さな箱を差し出していた。

 ソフィは、その小さな箱を受け取ろうとして。

 ふと、その手を止めると。


 視界の繋がりが断たれた。


「え…」


 唐突すぎて、頭が追い付かない。


 拒絶された、と理解した瞬間にわたしは堪えきれずに吐いた。

 わたしの頭も心も、あなたに拒絶されることに耐えられるようにはなっていなかった。

 蹲って、胃の中のものを全て床に吐き出す。

 それでも、えずきは止まらず、胃液だけを口から零れさせながら、苦しみと悲しみで涙が溢れた。


「やだぁ、やだよぉ」


 わたしは転がる様に家の外に飛び出し、足をもつれさせて頭から雪の中に突っ込む。

 裸足で、肌着のまま飛び出した外は凍えるような寒さのはずだけど、何も感じない。


 何度も、何度も転びながら雪の中を走る。

 涙が、止まらない。


「ソフィーーーっ」


 あなたの名前を叫びながら、走る。

 雪に足を取られて、もどかしいほど前には進めない。


 喉と肺が刺すように痛い。

 それ以上に、胸が、心が張り裂けそうに痛かった。


 待って。

 行かないで。

 わたしをおいて行かないで。


 あなたは決断する時は一瞬だから。

 もう、待ってくれないの。

 わたしのことを見限ってしまったの。

 手放す気なんてないって言ったのに。


 こんなことになって、やっと分かった。


 あなたが想ってくれたから、想いを返したかったんじゃない。

 あなたが傍にいてくれたから、傍にいたんじゃない。

 あなたがわたしを選んでくれたから、あなたを選んだんじゃない。


 あなたがわたしのことを想っていなくても。

 わたしがあなたの傍にいたいんだ。

 わたしがあなたを選んだんだ。


 滅茶苦茶に走ったせいで、息は乱れて、足は動かない。

 それでも止まることだけはできない。

 這ってでも進まないと。


 祈りなんて意味がないと思っていた。

 わたしに何もくれなかった世界に、何を祈ると言うのだろう。

 違った。

 あなたと出会わせてくれた。

 あなたを選ぶ機会をわたしにくれた。

 これが奇跡じゃないとしたら、何が奇跡だと言うのだろう。


 だから、お願い。

 もう一度だけ。

 あと一回だけ、あなたと話したい。

 もう終わってしまったのだとしても、それでも伝えたいことがある。


 涙と息切れで、目の前がぼやける。

 ああ、ついに幻まで見えてきた。


 あなたがわたしに向かって走ってきてくれるなんて。


「テレサっ」


 その声と、わたしを抱き上げる温かい腕の感触に、現実に引き戻される。

 ああ、ソフィだ。

 本物のソフィだ。


「こんな格好で何をしているのっ」


 咎める言葉すらも、私を想ってくれてのことだから嬉しい。

 わたしはあなたの首に縋りつくように抱きつく。

 温かい。柔らかい。いい匂い。

 久しぶりに触れるあなたに、心臓が甘い疼きを訴える。

 わたしはもう、その答えを知っていた。

 本当は、ずっと前から分かっていた。


「もういいの。私に触って」


 優しく問いかけてくるあなたに、抱きつく力を強める。

 どこにも行ってほしくない。

 もう遅いなんて思いたくない。


 涙と嗚咽がぼろぼろと零れ落ちる。

 わたしの心と感情は、ずっとあなたにかき乱されている。


「おねがい、だからぁ、わたしをおいていかないでぇ」


 わたしを抱き上げる力が強くなる。

 もし、あなたが去ってしまうのだとしたら、この一瞬が永遠であればいいのだろうか。

 そうじゃない。これで終わりなのだとしても、わたしはあなたに伝えたい。


「つたえたい、ことが、あるの」

「どこにも行かないわ。だから、帰りましょう」


 あなたがまだ、あの家を帰る場所だと言ってくれることだけが、わたしの希望だった。

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