春を想う 3
「お風呂を沸かしたから入って。そのままでは風邪を引いてしまうわ」
扉を開けて部屋に戻ってきたあなたの言葉が、どこか遠くから聞こえてきた。
動きたくはなかったけど、逆らう気力もなくて、のそのそと寝台から下りる。
シーツにくるまったまま、あなたの前を通り過ぎる。
じっと見られているのが分かるけど、あなたを見ることが出来ない。
引きずるような足取りで洗い場に向かうわたしの後ろを、あなたが着いてきているのが分かる。
洗い場の前で足を止める。
「一緒に入る?」
背中からかけられる声に、わたしは振り向かずに首を横に振った。
あなたとは、何度も一緒に入った。
お湯の中で飽きることもなく、裸で抱き合って口づけを交わした。
今となっては、なんでこんな恥ずかしい裸を見せられたのか分からない。
あなたに、見られたくない。
洗い場に入って、シーツを落とす。
お湯の張った浴槽に入ろうとし、ふとこの後、あなたも使うのかもと考える。
先に体を洗わなくては。
木台に腰を下ろして、布を濡らして体を拭く。
ごしごしと拭く。
汚れが、落ちない。
ごしごしごしごしごし。
この、
ごしごしごしごしごしごしごしごしごし。
なんで落ちないんだろう。
ごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごしごし。
なんでっ!
落ちてよっ!
こんなのじゃ、ソフィに見せられないっ!
いくら力を入れても落ちてくれない。
「テレサっ、やめなさいっ」
羽交い絞めにされて、拭くのを止められる。
「やだっ、ソフィ、汚れが落ちないのっ」
「血が出ているのが分からないのっ」
抱えられて、洗い場から連れ出される。
洗い場の外に用意されていた毛布でくるまれ、居間のソファーに下ろされる。
すぐ隣に腰を下ろしたあなたが、毛布の隙間からわたしの腕を引きずり出す。
腕は真っ赤になっていて、ところどころ血が滲んでいた。
「…触らないで」
「うるさいっ」
弱弱しく言ったわたしを、あなたが怒鳴りつけた。
頭が真っ白になる。
ソフィに、怒鳴られた。
あなたの怒鳴るところなんて、初めて見た。
本気で怒れば怒るほど、冷たくなっていく人だと知っている。
こんなふうに、感情を見せてくれるのは、わたしにだけだと知っている。
でも、あなたがわたしに、こんなに激しい言い方をすることなんてないと、どこかで思い込んでいた。
そんな無意識の甘えを指摘されたようだった。
「治しなさい」
人に命令することに慣れている声。
わたしには一度も出したことのない、感情を感じさせない声。
普段なら、例え命令口調でもわたしへの思いやりが滲んでいる。
逆らうなんて考えることもできず、法術を使う。
乱れ切った心では術式の構築が上手くいかず、簡単な治療法術の発動に時間がかかってしまった。
完全に治りきったのを確認して、ようやく手を離してくれる。
でも、肩が触れるほどの近くにいることは変わらない。
もう、わざわざ距離を取るほどの気力はなかった。
「テレサ、しばらく一人で入浴は禁止です。料理も駄目。私の目の届かないところに勝手に行くことも許さない」
あなたの声が、硬い。
入浴は一人がいい。あなたに見られたくない。でも、そんなことを許す声ではなかった。
わたしは答えることもできずに、頭から毛布の中に潜り込む。
「何があったのか説明して」
説明なんて…
できるはずはないけれど、できないで許してくれそうにはなかった。
黙り込んだわたしを、あなたは急き立てたりはしない。
でも、わたしから離れていったりもしない。
それが嬉しくて、苦しい。
わたしが口を開くまでの長い間、あなたが動く気配はなかった。
「…ソフィの初めてをもらえて、とても嬉しかったんです」
「私もテレサに求められて、嬉しい」
躊躇いもなく、そう返してくれるのが嬉しい。
嬉しさが増えるほどに、苦しさも増していく。
「嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて…わたしも、ソフィにあげたかった」
「あぁ。そういうこと…」
毛布の上から、抱き締められたのが分かった。
きついほど締め付けず、壊れ物を扱うほど優しすぎはしない、大好きな抱擁だった。
こんな、説明にもなっていない言葉だけで、あなたは理解してくれる。
「こんなこと言っても、意味はないかもしれけど」
あなたの声は、いつも通りの優しさに戻っていた。
「もちろん、テレサの最初は私が良かったし、奪った人たちは殺してやりたいほど憎いけど…でも、私にとっては今、テレサが一緒にいてくれることの方が大切なの」
わたしだってそうだ。
過去何てどうでもいい。あなたといられる今だけが大切だと思っていた。
でも、対等だと言ってくれたあなたと、自分がつり合っていないと気が付いてしまった。
与えられるものが、いつまで経っても追い付かないことが苦しい。
あなたが全てを擲って与えてくれた想いに、いつか追い付いて同じだけのものを返せると信じていたのに。
「…テレサは、私にどうしてほしいの」
「分かりません…」
本当に、何も分からなかった。
「私がいて辛いなら、出ていけばいい?」
「それはいやっ」
否定の言葉だけは、ああ、なんて簡単に出てしまうんだろう。
どんなに自分があなたにつり合ってないと気が付いても、解放してあげることが正しいのだと思っても、あなたを手放すなんて選択はわたしの中になかった。
「よかった。それなら、私はいいわ」
あなたが何を言っているのか分からなかった。
鈍くなった頭では何も理解できなくて、馬鹿みたいに聞き返す。
「…いいって?」
「好きなだけ悩めば? 百年でも、二百年でも。私は変わらない。貴女を振り向かせようとするだけ。でも、自分を傷つけることだけは許さないから」
いっそ、突き放すような言葉だった。
毛布の中で呆然とするわたしを他所に、抱擁が解かれるのが分かった。
あなたが腰を上げる気配がする。
「今日はもう寝て。…もう冬ね。寒くなってきたから温かくしてね」
あなたがわたしから離れていくのが分かる。
そのことに言いようのない寂しさを感じてしまうわたしは、勝手だ。
触らないで欲しいのに、傍にはいて欲しいなんて。
今日はまだ、おやすみの言葉ももらっていない。
いつも言葉と一緒にくれる口づけも。
だから、少し離れた、廊下の入口から掛けてきたのだろうあなたの言葉が、いつまでも頭の中に響いていた。
「今、貴女に言うべきことではないと分かっているけど」
「こんなことを言うのを許して」
「貴女の体で私の指と唇が触れていないところなんて、髪の毛一筋ほどもない」
「貴女の気持ちを分かってあげられるなんて言えないけど、理解はできる」
「それでも、私にとっては今さらすぎる」
「私は貴女を手放す気なんてかけらもないから」
「私から離れていこうとしたら許さないから」
「それだけ」
「おやすみなさい」
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