春を想う 2
わたしにしがみついて、小さく身体を震わせるあなたの足の間から指を引き抜く。
崩れるように、シーツの上にくったりと横たわるあなた。
今まであなたに触れていた指先を見ると、あなたが気持ちよくなってくれた証の半透明と、あなたが初めてであった証の赤が混ざりあっている。
わたしはしばらく呆然と指先を見つめていた。
鈍くなった頭で、この指先を口に含んでもいいのだろうか、なんて考えてしまう。
その欲求は抗い難いくらいに強くて、わたしはたぶん、あなたの体から出るものだったら何だって抵抗なく口にできる。
自分でも気持ち悪いと思うし、それが普通ではないという知識はあるけど、それを抑止するものがわたしにはない。
もともと、わたしは役割だけで生きてきた人間で、順法や倫理観と言った社会の規範を守る意識が薄い自覚がある。
役割のなくなったわたしにとって、全ての判断基準はソフィだ。
ソフィが喜ぶか。
ソフィが嫌がらないか。
ソフィが良いというものは良い。
ソフィが悪いというものは悪い。
それだけが、わたしの基準。
わたしとあなたは意見が合わないことが多いから、あなたとの間のことならあなたが許してくれる範囲で逸脱することもある。
それでも、あなたが駄目だと言うことを行うのは、わたしのなかでは「悪いこと」を行っている認識なのだ。
いま、これを口に含まないのは、きっとあなたが本気で嫌がるだろうと思うから。
そのうちに、ゆっくりと自然に目があなたの方を向く。
目を閉じて深い呼吸を繰り返す、あなたの形の良い胸が緩やかに上下している。
見慣れたはずの、自分にも小さいけどあるそれが、何故か見てはいけないものに思えて、でもどうしても目がいってしまう。
しっとりと汗ばんだ肌。美しい、芸術的と思っていた肢体が、わたしを誘う淫靡なものに見える。
なにも変わっていないはずのあなたが、今までとは違って見える。
ゆっくりと開いたあなたの目が、焦点を結ばずに彷徨う。
その蕩け切った目がわたしを捉え、幼子のように微笑んだ。
艶めく唇が動いて、音もなくわたしの名前を甘く呼ぶ。
その瞬間、胸の奥から感情があふれ出した。
喜び。
切なさ。
幸せ。
愛しさ。
愛欲。
独占欲。
わたしが、この人を女にした。
この人は、わたしのだ。
最初から最後まで、その全部がわたしのもの。
それを、この人はわたしにくれた。
髪の毛の一筋だってわたし以外には触らせたくないし、触らせないでいることができる。
少なくとも、その選択肢と可能性をわたしにくれた。
そのとてつもない達成感、優越感、そしてあふれ出す幸福感。
それが、あまりにも大きくて。
大きすぎて。
次にきたのは、絶望だった。
わたしは
わたしにはあなたにあげられるものが、何ひとつ残っていない。
「…あぁ」
わたしの口から絶望の音が漏れるのを、他人事のように聞いた。
それが、契機だった。
「あぁぁぁあああぁぁああぁあぁぁあぁあぁぁあああああああぁぁぁぁああああああああぁぁああああぁぁぁぁぁあああああああああぁぁああああぁぁぁぁぁぁああああああぁぁあああああぁぁぁぁああああぁぁああああああああああぁぁぁぁぁああぁ」
絶望がとめどもなく口から零れ落ちる。
叫びにすらない、ただの音。
心の中だけが、嵐のように荒れ狂っていた。
なんで。なんでなんでなんでなんでっ。
わたしもあなたにあげたかった!
なんで、わたしはあなたにあげられないの!
わたしの全部をあなたにもらって欲しかった!
わたしにはあなたしかいないのに!
わたし、大切なものを奪われていたんだ。
こんな大切なものを奪われていたなんて知らなかった。
どうして。
どうしてわたしは抵抗しなかったの。
せめて殴られても、無駄でも、抵抗すればよかった。
自分への、あなたへの言い訳が欲しかった。
何でもないことのように受け入れて。
いやだ。
恥ずかしい。
汚らわしい。
汚れた女なんて、そんな自覚では全然足りていなかった。
こんな女では、あなたが可哀想すぎる。
ソフィ。
たすけて。
違う。
あなたは分かっていた。
だから、わたしを救えないと泣いていた。
ぜんぜん、「そんなことできる人いるわけがない」ではなかった。
そんな人がいるなら、今すぐに過去のわたしを救ってほしい。
でも、やはり、いるわけがない。
どうしよう。
目の前が真っ暗だ。
心が、死んでしまう。
あなたがくれた、心が。
「…サっ、テレサっ」
温もりが、わたしを包み込む。
ソフィの温もり。
何度も、何度もわたしを包んでくれた温もり。
わたしをこの世に繋ぎ止める縁。
わたしを人にしてくれた温もり。
この温もりにすがりついてしまいたい。
でも、そんな資格はない。
なかったんだ。
「触らないでっ。こんな汚いものに触っては駄目っ」
わたしを抱き締めるあなたを押しのけようとする。
でも、さっきまでわたしの手で自在に弄ばれていたはずのたおやかな体は、巌のように小揺るぎすらしない。
そのまま頭の上からシーツを被せられる。
視界が塞がれて、真っ暗なはずなのに、さっきまでの目の前が真っ暗になる感覚が薄まる。
肌が直接触れる感覚が消えて、でも抱き締められる安心感だけは残っていて、少しだけ呼吸が落ち着く。
ソフィ。
あなたはこんなにも簡単にわたしに安心をくれる。
わたしに返せるものなんて何もないのに。
「うぅ…ううぅぅっ、うぇぇええぇぇぇぇ…」
少しだけ落ち着いた心が、今度はぼろぼろと涙を零させる。
シーツの中で、あなたの腕の中でわたしは呻くような嗚咽を漏らした。
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