月の満ち欠け 3
久々にテレサの体温を感じずに眠る夜は寂しかった。
あまり寝付けずに、意味もなくテレサがいる方の部屋の壁を見たりしてしまった。
いっそ、寝床に忍びこもうかとも思ったけれど、テレサも旅と家の掃除で疲れているでしょう。
ずいぶんと早く寝に入ってしまったし、睡眠の邪魔をして迷惑をかけたくもない。
眠りにつくのが遅くなったせいで、朝は少し寝坊してしまった。
欠伸をしながら顔を洗いに洗い場に向かうと、台所にテレサが立っていた。
料理をしようとしているのか、包丁を持ってはいるけれど、俯いたまま動いていない。
「テレサ、おはようございます」
私が声をかけると、テレサの肩が小さく震えて、それから振り向いた。
「おはよう、ソフィ」
その顔を見て、私は血の気が引いた。
いえ、血の気が引いた顔をしているのはテレサだった。
真っ青な顔で、無意識なのか、お腹に手を当てている。
「っ具合が悪いのですか?」
私は足早にテレサの傍に寄り、冷やりとした頬に触れる。
熱はなさそうだけれど、むしろ体温が低い気がする。
テレサは小首を傾げて、私の手に触れてくる。
「具合ですか。そう、ですね。少し良くないかもしれません」
「そんな顔を真っ青にして、何を言っているんですかっ」
私はテレサの体を横抱きに抱え上げる。
相変わらず、心配になってしまうほど軽い。
もちろん、人一人分の重さはそれなりだけれど、私と変わらない体格の女を持ち上げるつもりで力を入れると、想定した重みがこなくて吃驚してしまう。
「ソフィ、なにするんですか」
私の首にしがみつきながら抗議するように言うけれど、その声にも力がない。
私はテレサを抱き上げたまま無言で奥の部屋まで運んで、寝台の上にそっと下ろす。
そのまま体を横たえて、シーツをかける。
寝台に腰を下ろして、テレサの手を握った。
「どこが悪いのですか? 痛いところは?」
「…自覚症状としては、頭痛、吐き気、目眩、倦怠感、腹痛、と言ったところでしょうか」
立っていられないほど、ひどいわけではないようだけれど、症状が多い。
あれ、でもこの症状。
ですが、魔王討伐の旅の間も、テレサにそんな様子は見られなかったから、軽い方なのだと思っていたけれど。
「テレサ、月のものが重い方だったのですか」
「月のもの…?」
「え」
本気で何のことを言っているか分からないという顔をするテレサに、私もぽかんとする。
一瞬、見当違いだったかと思ってしまう。
だけれど、テレサはすぐに何の話しか理解したようだ。
「ああ。来たり来なかったりするあれですか。なるほど、今まで重くなったことはなかったのですが」
「待ってください。今、なんて言いました?」
「今まで重くなったことは…」
「そこじゃありません。来たり来なかったり?」
「ええ、まあ」
沸々と、怒りが湧いてくる。
私は何度、テレサのことでこの怒りを抱くことになるのだろう。
でも、けして、この怒りをテレサに見せてはいけない。
私は静かに息を吸って、吐いて、心を落ち着ける。
「テレサ。毎月くるから月のものと言うんですよ」
「別に困らなかったので…」
当たり前にあるものがないのは、普通の状態ではないからだ。
テレサの体も心も健康そうに見えて、本当はひどい負荷がかかっていたのかもしれない。
腹が立つのは、テレサが自分でそれに気が付いていないこと。そんな状態の方が当たり前で、当たり前になってしまう環境でしか生きられなかった。
テレサを救わなかった世界が与えた傷は、今も彼女を苛んでいる。
私はテレサが体調管理が完璧なのだと思っていた。
魔王討伐の旅の間、テレサが体調を崩したのを見たことがないから。
違ったのかもしれない。
ただ、テレサがそれを見せず、私が気が付かなかっただけなのかもしれない。
私はため息をついて、テレサの下腹部をゆっくりとさする。
テレサはほっとしたような息を漏らす。
「どうして、言ってくれなかったのですか」
「どうして…。済みません、人に言うという発想がありませんでした」
「そう…」
私は短く漏らして、しばらく無言でテレサのお腹を撫でた。
誰かに自分の不調を漏らしても、誰も慮ってはくれない。それどころか、自分にとって不利益なことしかおきない。
そんな人間が、他人に頼るという発想そのものをなくすのは当たり前のことでしょうか。
そんなはずは、ない。
それが当たり前だなんて、私は認めない。
「テレサは…私のことを頼るのもおいやですか?」
「ち、違いますっ」
私の言葉に、テレサははっとしたように体を起こそうとする。
それを私は緩く抑え込む。
「ソフィ。ごめんなさい。わたしは」
「ううん。責めているのではないの。ただ、私はテレサに頼られると嬉しいということだけは、知っていてほしいのです」
「…はい、心にとめておきます」
ふと、テレサの瞳が潤むように揺らいだ。
「わたしも、ソフィに心配してもらえて、嬉しいです」
そう言って、はにかむテレサは、あまりにも愛らしかった。
衝動的に口づけをしようと顔を近づけ、我に返って逡巡する。
体調が悪い人にすることではない気がする。
その私の迷いを見透かすかのように、手を握る力が少しだけ強くなり。
ほんの少し、でもたしかに引かれた。
指一つも動かせないような小さな力に導かれるように、テレサの唇に口づけする。
激しくしないように、ゆっくり優しく舐る。
どれだけの間、口づけをしていたのか、テレサが漏らした切なげな吐息で我に返った私は唇を離す。
ゆっくりと顔が離れる。
テレサの潤んだ瞳が、私の唇を追いかけているのが分かった。
愛しさに、心臓が痛いほど締め付けられる。
「わたしたち、毎日してますね」
「おいやですか?」
「いやではないです」
そんな顔をして、いやではないだけなんて認めない。
お腹を撫でていた手で、テレサの頬を撫でる。
「今日、一緒に寝てもいいですか」
「はい。…あの」
テレサが恥ずかしそうに顔を伏せる。
「今日だけではなくて、毎日がいいです」
「嬉しい。ですが、それならどうして部屋を分けたのですか」
「ソフィも一人になりたい時があると思って。それに、昨日は体調を崩し始めていたので、病だったらうつしてはいけませんから」
私の心配だったのですね。
複雑な気分で、頬から離した手でお腹をさするのを再開する。
「テレサ。これから一緒に暮らすのですから、思っていることはお互い言うようにしましょう。意見を違えることもあると思いますが、話し合っていきたいです」
「はい。でも、ソフィと意見が合ったことって一度もない気がしますけど」
「もう。混ぜっ返さないでください」
テレサが忍び笑いを漏らす。
よかった。少し、元気が出てきたみたい。
「さっそくですが、お腹撫でるの、やめてもらってもいいですか」
「あら。以前に私が同じことを言った時、やめてくださらなかった方がいるのですが」
「ソフィ、あの日のこと、根に持ってます?」
「ふふ。冗談です。でも、お腹を撫でると少し楽になると聞きますが、気持ちよくないですか」
「楽になりましたし、気持ちいいです」
私は首をかしげる。
撫でる手を止めないでいると、その手をテレサが恨めしそうに睨む。
でも、抵抗したりはしない。
「ソフィ、その…」
「なんですか」
「気持ち良すぎて、困ります」
消え入りそうな、その言葉に、私は弾かれたように手を上げた。
へぇ。
ふぅん。
そうなんですね。
「え、と。そんなにですか」
「だって、ひと月もしてくれないから」
ぽつりと漏らしたテレサの顔は真っ赤に上気していた。
たぶん、私も同じような顔をしている。
「昨日、わざとらしく避けたじゃないですか。少し傷つきました」
「だから、それはうつしたらいけないと思って」
私は上げていた手を下ろして、少し強くテレサのお腹を押す。
今度は、テレサもその手を掴んで押し返してきた。
でも、単純な腕力なら私がテレサに負けるはずがない。
押し切って、そのままテレサを抱き締める。
その耳元に唇を寄せて、そっと囁く。
「月のものが終わったら、いっぱいしましょうね」
「いやです」
するりとテレサの腕が私の背中に回される。
え、今、いやって言いました?
「それまで待てません」
囁き返しながら、私の耳を食んできた。
舌が耳たぶに触れる感触に、背筋がぞわぞわとする。
よくない。この人、絶対、よくない。
「この、魔女っ」
理性の糸は音を立てて切れたけれど、私は悪くない。
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