断章

雪の足跡

※NL。胸糞話。性的暴行を示唆する表現あり。苦手な人は読み飛ばし推奨。


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 雨は嫌いではない。

 雨が降ると人の営みは停滞するから。

 静かな雨なら、なお良い。


 人が多いのは怖い。

 多くの人に見られると、未だに身がすくむ。

 胸を患って売春宿を追い出されたことで一番良かったのは、男たちの視線にさらされなくなったこと。


 窓から見る薄汚れた裏路地には誰もいないどころか、雨の音しか聞こえないくらい静かで、心が落ち着く。

 今日は随分と冷えるから、雪になるかもしれない。


 この狭い部屋で客を取るだけの毎日だった。

 売春宿を出ても、体を売るくらいしかできることはない。

 男に抱かれるのには、もう慣れた。

 殴られなければ、それでいい。乱暴でなければ、もっといい。


 どうしてこんなことになってしまったかなんて、最近はもうあまり考えない。

 このローレタリアのずっと東、大陸東部の島国の巫覡ふげきの家に生まれて、幼い頃は姫様ひいさまと呼ばれるような立場だった。

 ある日、社が襲撃を受けて家族を皆殺しにされた。

 今でも理由は分からない。

 家族の死体の傍で、数え切れないくらいの男たちの慰みものにされた。

 いずれは聖女になるだろうと言われた法術の力は、恐怖に震えて何の役にも立たなかった。

 最初は泣き叫んで、そのうちに心が擦り切れた。


 人買いに売られて、その人買いを襲撃した野盗に奪われ、その野盗を滅ぼした領主の玩具にされ、競売にかけられて西に運ばれ、売られた先で使いものにならないと売春宿に払い下げられた。

 そのあいだ、ただ泣いて震えていた。

 きっと、もっと上手くやる方法はいくらでもあった。

 美しいと言われた容姿を最大限に使って、そのときどきの男に媚びを売って。

 あるいは法術の力を活かして。


 そんなことを、この狭い部屋にたどり着いてようやく気が付いた。

 気が付いた時には、すでに法術は使えなくなっていた。

 法術を使おうとすることと、社の惨劇の記憶は結びついていて、使おうとするだけで吐いてしまう。


 ふと、指でいじっていた巾着が滑り落ちた。

 これをくれた男は、この部屋に流れてきてしばらくしてからついた客で、それからはその人にしか抱かれていない。

 こんな場末の娼婦に払うには高すぎる金を毎回置いていく人だった。

 何を言われたわけでもないけど、他の男に抱かれるなと言う意味だと勝手に解釈して客を取るのをやめた。

 服を裏町に合わせても、育ちの良さが隠せていない人だった。

 使えなくても巫覡の目まで失われたわけではない。この国で言うところの心魔力が強く、おそらくは正教会の高い地位にいるのだと分かっていた。


 抱くときに愛を囁いた、初めての人。

 母様譲りの自慢の黒髪を誉めてくれるのが嬉しかった。

 別にここから救い出して妻にしてくれるなんて思っていたわけではない。

 それでも幸せな夢を見せてくれたから愛した。


 ある日、その人はお金の詰まった、この巾着を置いていった。

 一年、待ってくれと言葉を残して。

 地位を固めるために、足元を掬われるようなことはできなくなるのだと。

 一年経ったら迎えに来ると。結婚はできないが二人だけの家を用意すると。


 一人なら病の薬を買いながらでも、十分生きていける金額。

 一人なら。


 その時には、その人の子どもを身籠っていた。

 笑ってしまう。

 あれだけ好き放題されてできなかったのに、愛しいと思った男の子どもはこんなに簡単にできてしまう。

 なんて現金な体なんだろう。


 男には子どものことは言わなかった。

 言えば、男はその分のお金も出しただろうか。


 でも、委縮しきった心に、そんなことは言い出す勇気は残っていなかった。

 言ってしまって、男が豹変するのが怖かった。

 子どものできた女なんていらないと去る男。堕ろせと怒鳴り、暴力を振るう男。悪い想像だけはいくらでもできて、物ごとが良いほうに進むなんて考えることも、そのために努力することもできなかった。


 お金は子どもを無事に生むために使った。

 薬代は最低限に、栄養をつけることと、信頼できる産婆にかかることに費やした。

 巾着にはもう、ほとんどお金は残っていない。

 男との約束までの残り二か月あまりを生きることはできない。

 もう他の男に抱かれるつもりはなかった。

 でも、それ以外に生きる術を知らなかった。

 

 いえ、たんにもう生きる気力がない。

 幸せな夢を見せてもらった。

 愛した人と愛し合った証拠も残せた。

 きっと、これ以上の幸せはもう来ない。

 だから、ここで終わりたい。


 粗末な寝台の枕元に目を向ける。

 おくるみに包まれた赤ん坊と目が合う。

 不思議なほどに泣かない子だった。

 男の菫と、自分の黒が混ざった紫の瞳。髪の毛はまだ薄くて分からないけど、男が誉めてくれた黒髪になりそうで良かった。


 巾着をおくるみの中に押し込んで、赤ん坊を抱きあげる。

 愛しさは感じるけども、それは男との愛の証明に対する満足感と区別はつかない。

 なんてひどい母親なんだろう。

 自分の満足のためだけに、苦しみしかないであろう生を与えた。


 赤ん坊を抱いたまま外に出る。

 雨は、雪に変わっていた。

 ゆっくりと歩くうちに、雪はしだいに積もっていく。


 冷えると胸の病は悪化して、咳が何度も出る。

 ずっと俯いて歩いていたけど、ふと立ち止まって顔を上げる。


 遠く、小高い丘の向こうに立派な宮殿が見える。

 そう言えば、二年ほど前に双子の王子と王女が生まれたと、お祭りがあった。

 王女様の名前はソフィーリアと言うらしい。


 抱いた赤ん坊に目を向ける。

 名前も付けていないことに、今さら気が付いた。

 五王国のお姫様とは比べられないけれど、この子も姫と呼ばれてもおかしくなかった。

 いえ、自分が姫と呼ばれたままだったら、この子は生まれなかったか。

 

 お姫様にあやかった名前を付けよう。

 きっと、誰にも呼ばれることのない名前。

 でも、それでいい。

 真名は親と本人以外には、誰にも知られてはいけないものだから。

 この名前が、少しでもお姫様の幸せをこの子に分けてくれたらいい。


 ソフィア。


◇◇◇


 裏町に積もった雪に、小さな女の足跡と、ぽつぽつと血の跡だけが残されていた。

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