第35話
三宝具を身に着け、神殿の扉の前に立つ。
「その選択でいいのですね」
傍らに立つティティスが、私に問いかける。
私に道を示したくせに、翻意を促すかのよう。あるいは、覚悟を試されているのかもしれない。
「ええ。きっと、好機は今しかありません」
「話し合う、という選択もあるのですよ」
「ありません。すでに私は、判断をテレサに委ねるという失敗をしました。同じ失敗は二度しません」
私はもう、テレサの言葉を待たない。
一方的に、我儘に、私の望みを押し付ける。もともと、そうやって始まった関係なのだから。
「そうですか。それでは、ご武運をお祈りいたします」
「けっこうです。ただ、ご助力には感謝します」
私は祈らない。
テレサを救わないこの世界に祈ることなんて、何一つない。
私は扉に手をかけ、押し開いた。
寂れた礼拝堂。
その内陣に設置された祭壇に横たわる修道服姿のテレサ。
たった一晩なのに、もうずっと会っていなかったように胸が苦しい。
その姿を求めるように手を伸ばし、一歩、神殿内に踏み込む。
一瞬の意識の暗転。
そして、次の瞬間、私は小さな庭にいた。
いえ、私はそこにはいなくて、ただそこに意識だけがあった。
見覚えのある、テレサと出会った孤児院の裏庭。
以前にマリーとお話しした窓下。
そこに、膝を抱えて座っていた。
私には感じられないけれど、枯れた草木を見ると季節は冬。
やせ細った手足がまる見えの襤褸では、きっと凍えるような寒さ。
靴も履いていない裸足の指は、赤く霜焼けをおこしており、小さな手でもみほぐしている。その小さな手もあかぎれと霜焼けで真っ赤になっており、痛々しい。
短い袖からのぞく骨と皮だけのような細い腕にはうっすらといくつもの痣がある。
日暮れから完全に夜になるまで、ずっとそうしていた。
子どもの寝静まる時間になって、ようやくこっそりと窓から孤児院の中に戻っていく。
そして、廊下の端で毛布もなく、丸くなって眠る。
これは、記憶。テレサの記憶。
そこから、テレサの人生を一瞬で、あるいは永遠の時間をかけて共有する。
孤児院での生活は厳しいものだったけれど、そのなかでもテレサは嘆くこともなく冷静な立ち振る舞いをしていた。
日中は孤児院を管理するジュナ侍祭の手伝いを常にしていて、日が暮れてジュナ侍祭が部屋に戻ると、目立たないように孤児院の庭に隠れてしまう。
そうやって自分への被害を最小化する。それでも、小突かれたり、転ばされたりはしょっちゅうで、痣や生傷が絶えることはない。
テレサは泣かない。怒らない。反論することはないけれど、卑屈になることもない。
それが他の子どもたちには不気味で、過度ないじめになることを抑えていた。
同時に誰もテレサと話すこともない。
テレサは孤児院にいる間、ジュナ侍祭から言いつけを受けることと、言いつけを終えた報告をする以外の言葉を発することは一度もなかった。
テレサの見る世界は、いつも冬のように彩りが感じられなかった。
孤児院を出たテレサは、ジュナ侍祭の紹介状で正教会に入る。
王都にある神殿の一つに、テレサと同じ捨て子の女の子だけが集められていた。
修道士の修行と並行して、貴族に仕える作法などの凡そ神職には関係ない教養が詰め込まれる。
余計な知恵をつけさせないために、子どもたちの生活は完全に管理され、ここでもテレサは誰かと会話することはなかった。
泣き出す子も多いほどの厳しい教育を、淡々とこなしていくテレサ。
所作の確認のために、鏡で自分の姿を見せられる。
質素ながら身だしなみを整え、食生活が改善されたテレサは日々、花が開くように美しくなっていく。
そして、その花はいともあっさりと手折られる。
何度も、何度も、何度も、何度も。
やめて。
こんなのは見たくない。
見せるな。
テレサと私の意識の境界が曖昧になる。
いくつもの夜。何人もの男たちが通り過ぎていく。
人が動物の見分けができないように、人の見分けができなくなる。
自分をモノだと認識する。
モノはただ使われるだけ。
人の器を持った、人の望みを叶えるだけのモノ。
モノだから生きることに苦しまなくていい。
モノだから望みなんて持たなくていい。
世界の色がくすんでいく。
ある日、突然にそんな日々が終わる。
男たちが捕縛され、引きずられていく時も、ただ静かにそれを眺めていた。
本神殿での新しい生活が始まる。
新しく与えられた役割は、修道士見習い。
ただ学び、お務めをこなす。
モノは誰かに話しかけたりしないし、話しかけてくる人もいない。
正教会内部で囲われていたことはまことしやかに噂になっていて、潔癖なものたちからは眉を顰められていたし、中には聞こえるように売女などと言うものもいた。
法術士として類い稀な才能を持っていたことが、余計に周囲との溝を大きくした。
十五歳の成人の儀で、
本神殿は、蜂の巣ををつついたような大騒ぎとなった。
向けられる憐れみ、蔑み、阿り。だけれど、等しくその目の奥にあるのは恐怖だった。
聖女が正教会内部で慰みものにされていたなどと世間に知られたら、正教そのものが崩壊しかねない。
誰もが、顔色をうかがってくる。
ただ、聖女の役割だけをこなす。
それが、何を考えているか分からないと、周囲の恐怖を助長していると感じた。
本神殿にいることは望まれている役割ではないと理解し、ジュナ侍祭の引退を聞いて元の孤児院に戻る。
安心したような司教たちの顔を見て、これで正しかったと感じた。
孤児院では院長という役割をこなす。
子供たちには公平に接して、足りないものにはより手厚く、皆が同じ視線に立てるように。
叱ることはあっても怒鳴ることはなく、常に穏やかな笑みを浮かべて。
子どもたちを脅かすものからは、例え何からでも守る。
それが、与えられた役割だから。
場面が移ろい、宮殿の一室で王太子の頃の王と会見する。
そこで聖女とは何か、そして魔女に選ばれたことを伝えられる。
仮初の永遠。永遠の檻。
それを、何を問い返すこともなく了承する。
世界から色が失われて、薄闇に閉ざされる。
モノは悲しんだりしない。
でも、ほんの少しくたびれてしまったかもしれない。
モノだって、いつかは壊れるのだから。
私/あなたに出会う。
最初は、王女という役割を演じる、自分とよく似た人だと思った。
でも、求めるものの形が見えない。
聖女の役割をしていれば何も言わないけど、聖女であることを求めているわけでもない。
観察しているうちに、その美しい所作を自分のものにしたくなり、真似し始める。
旅のさなか、反応術式から身を挺して守られる。
わたしを守った?
違う。わたしが聖女だから、それがこの人の役割だから守っただけ。
でも、誰かに守られたのは初めてだった。
王女という役割に誇りを持っていると知る。
与えられただけではない、自分で選んだ役割。
それなら、わたしを守ってくれることもあなたの意思なのだろうか。
いつのまにか距離が近くなっていく。
他愛ないおしゃべり。
触れ合い。
それは聖女の役割だったのだろうか。
あなたの傷を知る。
その生き方に思いを馳せる。
それは聖女の役割だったのだろうか。
友だちになりたいと言われる。
それが、この人の求めるわたしの役割なのだろうか。
たいとうと言われる。
対等。
モノであるわたしがあなたと。
それともわたしが、人だって言うの。
なんで今さら。
いまさらいまさらいまさらいまさらいまさら。
わたしのどこが、あなたと同じ、人だって言うの!
わたし/貴女が私/あなたを拒絶する。
意識に境界が引かれる。
私/わたしたちは。
求める/拒絶する。
知りたい/演じる。
触れ合う。
口づけを交わす。
体を重ねる。
想いが重なる。
テレサの中で私との思い出だけが、色づいている。
怒りも、喜びも、悲しみも、楽しさも、すべての感情が私に紐づいている。
そのすべてを大切に、大事に心の奥底にしまい込む。
そして、背を向けて去っていく。
私との思い出だけを胸に。
それはとても悲しいことなのに、嬉しいと思ってしまう。
私の全部をあげるから、貴女の心と想いの全てが欲しい。
ここでテレサの意識に溶けてしまえば、私たちは一つになれるのでしょうか。
でも、それではテレサに触れることはできないし、テレサも私を感じることはできない。
そんなの、意味がない。
私たちは似ているけれど、同じじゃないことに意味があるのだから。
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