第23話

「テレサ、医師を呼ばなくて平気ですか」


 言葉もなく、テレサと二人きりで静かに過ごすことは心地よい。

 ですけれど、握った手が冷やりとして心配になる。


「大丈夫です。大げさにしないでください」

「ですが…。どうして倒れていたのですか」

「…ただの寝不足です」


 たしかに、顔色があまりよくはないし、隈もできている。

 自分の体調管理に関しては完璧ともいえるテレサには珍しい。あの過酷な魔王領の旅のさなかですら、一度として体調を崩したところを見たことがない。


「そんなになるまで、寝ないで何をしてたのですか」

「何も、ただ寝付けなかっただけです」


 目を閉じたまま、テレサは抑揚のない声で答える。

 安静にしてほしいのに、あの美しい紫紺の瞳が見れなくて残念だな、と思ってしまう。


「…どうして」

「姫さまが、来てくれないから」

「え」


 テレサの目がゆっくりと開き、その眼差しが私のそれと絡まる。


「意地悪をしすぎてしまったのかな、と。さすがにやり過ぎだったと反省しました」

「それは」


 どういう意味なの。

 眠れなくなるくらい、私のことを気にしていたの。


「姫さまがお怒りなるのも当然です。もう、ここには来てくれないかと思いました」


 たしかに怒りもあったけれど、何に対してのものか理解しているのでしょうか。

 貴女の唇を他の誰にも奪われたくないなんて。

 そんなこと、理解できるはずもないけれど。


「今日は、どうして来てくれたのですか」

「公務で貴女に伝えることが。それよりも、私が怒っていると思っていたのですか」


 公務とか今はどうでもいい。

 それより、貴女の方が私を見限ったと思っていたのに。


「違うのですか?だって、わたしと口づけすることが泣くほどお嫌だったのでしょう」


 ほら、何も分かっていない。


「姫さまが王女であることを軽んじていました。王女の唇はたしかに、わたしなどが奪っていいものではありませんでした」


 この人は、本当に何も分かっていない。

 怒っていると言うのなら、今まさに腸が煮えくり返るほどに腹を立てている。


 私の心を簡単に弄ぶくらいに理解しているのに、どうして分かってくれないの。

 分からせたい。

 もし、分かっていてやっているのなら、思い知らせたい。

 傍にいられればそれでいいと思えた私なんて、もういなかった。


「そうですね。王女の唇はそんなに軽いものではありません」


 テレサの手を握る力を強める。

 そのまま、テレサに覆い被さるようにして、顔を近づける。

 彼女の黒髪に私の金が混じり、斑を作る。


 テレサの瞳が不思議そうに私を見る。

 本当に、何て美しい瞳なんでしょう。

 宝石のように煌めくわけではないけれど、吸い込まれそうなほどに深い色。底の見えない海のように、身がすくむような畏れを感じさせるのに、目が離せない。

 引き込まれるように、長いまつ毛の眦に、そっと唇を落とす。


「姫さま?」


 名前を呼んでほしいと思った。

 その、紅もさしていないのに艶めく、薄紅色の柔らかそうな小さな唇で。

 姫ではなく、私の名前を。


 でも、けして呼んではくれない唇を。

 あまりに憎らしいから、自分の唇で塞ぐ。


 触れるだけの口づけを交わして、顔を上げると、表情一つ変えないテレサの顔。

 嫌悪も、喜びも、恥じらいも何もない。

 なんて、憎らしい。

 私との口づけなんて、貴女には何の意味もないの。


 悔しいから、むきになって何度も、何度も唇を落として、軽く唇を啄む。

 ああ、口づけってこんなに気持ちいいものなのね。

 誰としても、こんなに気持ちいいのかしら。

 きっと、違う。

 貴女だから。貴女以外となんて、したいとも思わない。

 私の心は、こんなにも喜びに満ちているのに、貴女は。

 心臓が痛いほど締めつけられて、息がもたない。


 少し顔を上げて、テレサの様子を窺う。

 唇が薄く開いて、荒い呼吸が漏れている。肌が白いから、頬が上気しているのがよくわかる。潤んだ瞳が、私を見つめている。

 歓喜と、それ以外の言葉にできない様々な感情が一瞬で膨れ上がり、心が破裂しそう。


 テレサも気持ちいいの?

 それならすごく嬉しい。だけれども。

 そんな、顔をして。

 そんな顔を、私以外の人にも見せたの。

 駄目。駄目。絶対、駄目。


 薄く開いたテレサの下唇を軽く食んで、舌先で舐める。

 応えるように、テレサの唇が私の舌を食む。

 それが、あまりにも嬉しくて、深く唇を重ねた。

 抵抗するように、迎え入れるように、テレサの舌が私のそれと絡まる。


 頭がおかしくなりそうなほどに気持ちいい。

 下腹の奥が疼いて、下着が大変なことになっているのが分かる。


 いつの間にか、私が握っていない方のテレサの手が、私の頭に回されていた。

 その指が私の髪を搔き分け、うなじを羽根のような優しさで撫でる度に、快楽の波を連れてくる。

 どこか余裕のある態度に、反抗心が湧き上がる。


「口づけは、したくなかった、のでは」


 だから、口づけの合間に途切れ途切れに言うテレサに苛立つ。


「軽く、ないと、言ったの、です。私の、口づけは、高く、つきます、よ」


 私は話す時間ももったいないくらい、テレサとの口づけに夢中なのに。


「今、しているのは、姫さま、です」


 うるさい。

 少し、黙って。

 今はおしゃべりなんてしたくない。

 私と同じくらい、夢中になってほしい。


 大人しくさせるために、私は軽く触れるくらいに唇を離して言う。


「テレサが最初に誘ったのですから、貴女が悪い」

「わたしに、どうしろと言うのですか」

「二度と、私以外の人としないで」


 それは、切実なまでの私の本音。


「また約束ですか」

「そうです。王女の唇の対価としては安いものでしょう」

「それはどうか分かりませんが、姫さまがそう望むのであれば。今回も約束を破ったら打つのですか」


 どこか、揶揄うようにテレサが聞いてくるが、私はまったく笑えない。

 少しも冗談のつもりや、勢いで言っただけではないくらい、真剣だから。


「殺します」


 語気を強めるでもなく、無表情で言う私に、さすがのテレサも一瞬黙る。

 そうよ。私の気持ちを思い知ればいい。


「貴女を殺して、貴女とした人も殺して、私も死にます」

「…それ、」


 何か言いかけたテレサの唇を、噛みつくように塞ぐ。

 私はもうおかしい。狂っているのかもしれない。

 私を律する王族としての責任感は、テレサを前にすると何も機能しなくなる。

 お友だちになりたいと思った女の子に、こんな気持ちを、こんな行為をぶつけている私は、本当にどうにかしている。

 

「いい加減、黙ってください」


 テレサの頬に掌を当て、濡れた唇を親指でついと撫でた。

 静かになったテレサの目と私の目が至近で交わる。


 額を合わせて、鼻先を軽く擦りつける。

 薄紙一枚の距離で触れ合わない唇から漏れた吐息が、熱い。

 早く、唇を重ねたい。ですけれど、このもどかしい時間も狂おしいほどに愛おしい。


「目を、閉じないのですね」


 頬を撫でながら言うと、ぷいとテレサが顔を逸らした。

 ああ、そんなの駄目。


「私から目を逸らさないで」


 無理矢理、顔を正面に向けなおす。


「黙れと言ったり、話しかけてきたり、今日の姫さまは勝手すぎます」

「ふふ、そんな日もあります」


 機嫌を取るように、テレサの唇を啄む。

 固く閉じてしまった唇を舌で何度かつつくと、次第に緩んできて受け入れてくれる。

 はぁ。可愛い。


 怒りから生まれた激情はしだいに鎮まり、ただただ愛おしさだけが胸に残る。

 優しく、ゆっくりとテレサの唇を味わう。


 もともと、寝不足と言っていたテレサの目が、とろんとしてくる。


「テレサ、眠ってもいいですよ」


 私はテレサの隣に横たわり、細い体を抱きしめる。

 今日は公務で来ているのでドレスだから、きっと皺になってしまうけれど仕方がない。

 私の言葉には答えず、それでも緩慢な動きで、テレサが私を抱きしめ返してくれる。


 あの夜と同じように、目の前にテレサの顔がある。

 もう、唇が触れ合うことにためらいはなかった。 

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