第22話

 思い出が欲しい。

 そう思った。


 私がテレサといられる時間は、思ったよりも短いかもしれない。

 アレクが王位についたときが、一つの区切りになると先ほどの会議で気が付いてしまった。


 アレクが王になれば、私の立場は王の妹と言う微妙なものとなる。前王の直系の娘だから王女と言う公的な立場は変わらないけれど、現王から見ると直系ではなくなる。

 王位継承権を持たないから、伯爵家くらいの高位貴族なら結婚を申し出ても不敬にはならない。

 私を通してアレクに取り入ろうとするものや、私の子どもが聖剣を継承できれば、王家の傍流になることができると考えるものも現れるでしょう。


 以前に、アレクが私が結婚しないのが最善と言っていたのはそういうことだ。

 アレクにとっては王宮にいるだけで、政治的には邪魔な存在でしょう。


 こうした場合、私のような立場の王族は、一般的には正教会に入る。

 正教会の司祭は結婚を禁じているわけではないけれど、修道院に入れば世俗との関りを断つことができるから。

 テレサとの立場は近しいものとなるけれど、一緒にいることはできない。

 聖女は正教会の象徴的な存在だから、王都にいなければいけない。修道院は世俗との関りを断つ性質上、人里離れた辺境にあるから、物理的に引き離されることになる。


 何もかも擲てば、テレサと一緒にいられるでしょうか。

 いえ、それも難しいでしょう。

 王都の神殿に席を設けてもらうことはできる。ですけれど、今のような関係をテレサと続けることはできない。

 テレサは聖女なのだから。

 正教が崇める精霊に最も近しいとされる、現人神とも呼べる存在に、気安く接することなんて許されない。

 いまの私たちの関係は、王宮と言う、ある意味私の領域だから成り立っているのだから。

 そばにいるのに、触れることもできない。

 そんな生殺しは耐えられない。


 私たちの関係は、もう終わっているのかもしれない。

 未来は見えないし、もしかしたらあの夜にテレサに幻滅されてしまったかもしれない。

 お友だちにもなれないなら、積み重ねた全てを壊してもいいから縁が欲しいとすら思う。


 あの唇を奪って。

 体を重ねて。

 自分勝手な想いの全てをぶつけて。


 そんなこと、できるはずもないけれど。

 でもたしかに、そうしたいと望む私もいるのだ。


 もし、テレサが私に対する興味を完全に失っていたらどうしよう。

 私の心は、きっと決定的にひび割れるでしょう。

 それどころか、砕け散ってしまうかもしれない。

 その時、はたして私は理性的でいられるでしょうか。


 今ですら、心のどこかで、テレサが悪いと思っている。

 私の心をかき乱して、弄んで、こんなにもテレサのことばかりを考えるようにしてしまった。

 それがすべて、テレサが意識して行っていることだと理解しているから。

 だったら、その報いを受けるのだって、おかしなことではないでしょう。

 今さら、私に興味をなくすなんて駄目。許せない。


 そんな、自分勝手なことを考えてしまう。

 お友だちになろうと勝手に近づいておいて、応えてもらえないと分かると一方的な気持ちをぶつけようとするなんて、わがままにもほどがある。


 離れへと続く湖畔の道を、そんな答えの出るはずもないことを考えながら歩いていると、いつの間にか離れにたどり着いてしまった。

 言われてみれば、分かる。

 離れを中心に庭先程度までの範囲で結界が張られている。

 もともと結界は感知がしにくいうえに、私にとってはまったく無害となれば、そこにあると言われないと気が付くはずもない。


 テレサ。どうして、この結界を張ったの。

 私がテレサであれば、きっと同じことをしていた。

 だって、テレサとの時間を誰にも邪魔されたくないから。

 テレサも同じように感じてくれていたと、期待してしまう。


 私には何の干渉もしない結界を、でも私は踏み越えることが出来ない。

 その、覚悟ができない。

 結界の表面に手を伸ばす。

 けれども、テレサの心と同じように、結界に触れることはできない。

 触れることも、見ることもできないのだから、何の確信もなくても進むしかないことは分かっている。


 それに、近衛の目があるからいつまでも立ち止まれない。

 私のせいで、王家の心象を悪くすることは許されない。

 こんなときでも王女でしかいられない自分が、少しいやになるけれども。

 どんな理由でもテレサと向き合う勇気が欲しいから、言い訳でもいいから一歩を踏み出せればそれでいい。


 私はアレクから託された責務を理由に、結界を踏み越える。

 嫌な汗が滲むのを、意思の力で抑えて、入り口の扉を開ける。


 いつもなら、私を出迎えるテレサの穏やかな「おかえりなさい」の言葉がなかった。

 しんと静まり返った居間は、テレサがいないと火が消えたように寒々しい。

 私はこの感じに覚えがある。

 母がいなくなったこの家は同じように寒々しくて、私はこの家に近寄らなくなってしまった。


「テレ、サ…?」


 全身の血が凍り付いたような寒気がする。

 まさか、出て行ってしまったのでしょうか。

 私との約束なんて、なかったことのように無視して。

 アレクから預かった書状を納めた長箱を取り落とした音が、静かな居間に大きく響く。


 息をすることも上手くできなくて、視界も定まらなくて、ふらつく足取りで寝室に向かう。

 朝の早いテレサにはあまり考えられないことだけれど、まだ寝ているのかもしれない。


 震える手で、寝室の扉を開ける。

 床に、テレサが倒れていた。

 その姿を見て、心配するよりも先に、テレサがどこにも行っていなかったことに安心した私はあまりにも最低だ。

 しかも、薄い夜着で倒れるテレサの、床に広がる美しい黒髪や、露になった細い肩や、裾がめくれて覗いた柔らかそうな白い太ももに目を奪われた私は、最低も最低。


 我に返った私は、慌ててテレサの様子を窺う。

 口元に耳を寄せて、規則正しく呼吸をしていることを確認。外傷や出血はない。首筋に指を当てて、脈が正常に打っていることも確かめる。

 危険な兆候がないことに、少しほっとする。


「テレサ、テレサ」


 あまり揺らさないように、軽く肩をたたきながら呼びかける。


「ん、ぁ」


 艶めかしい声を漏らして、テレサの目がゆっくりと開く。

 いつもの醒めた目とは違う、どこかぼんやりとした潤んだ瞳が、私の姿をとらえた。


「…姫さま、おかえりなさい」


 子どものような無防備な笑みを浮かべた、テレサの甘やかな声が耳朶を打ち、背筋がぞくっとする。


「大丈夫なのですか、テレサ」

「何がですか?」


 首を傾げて、何でもないことのないように立ち上がろうとするテレサを、私は無理矢理抑えつける。


「急に動いては駄目ですっ」


 不満そうな顔をするテレサを、私はため息をついて抱え上げた。

 その体の細さと軽さに、ちょっとした衝撃を受ける。

 私たちの体格はそんなに変わらないように見えるけれど、やはりテレサは骨格から華奢な気がする。

 そのまま寝台に運んで、シーツを掛けて寝かせつける。


「あの、病人ではないのですが」

「倒れていたのですよ。しばらく安静にしていてください」


 私は寝台に腰をおろして、テレサの手を握る。

 テレサの体から力が抜けて、寝台に沈むのが分かる。


 その顔を、そっと横目で窺う。

 ここに来るまでに感じていた恐怖は、もうない。

 テレサが傍にいてくれれば、暗い感情や衝動は消えて、ただ甘やかな痛みだけが胸に残っている。


 あの夜のことは、テレサにとっては大したことではなかったように見える。

 それはそれで蟠るものはあるけれど、一緒にいてくれるならそれでいい。

 先のことは何も分からない。

 それでも、今はテレサが傍にいてくれるこの瞬間を大切にしたかった。

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