第20話

「姫さま、口を開けてください」

「…はい」


 寝台の上で上半身だけを起こした私は、テレサ手ずから食事を与えられていた。

 何、この幸せな辱め。


 魔獣との戦いの後、意識を取り戻した私は、テレサの住む離れの寝台にいた。

 バルジラフは騎士団が無事にとどめを刺し、私が助けた子どもも保護されたらしい。

 戦いで負った傷は、助かるか微妙なほどのものだったけれど、痕一つ残っていない。失われたはずの左腕も繋がっている。

 私の知る限る、これほどの治癒法術を使えるのはテレサしかいない。


「あの、テレサ」

「何ですか」


 声が無茶苦茶冷たくて怖い。


 目が覚めてから三日、私はこの家に隔離されている。

 浄化の結界が張られたこの家から出ることは許されず、反対に自分以外がこの家に入ることをテレサは認めなかった。

 アレクが来た時ですら、テレサは追い返した。

 無言で対峙する二人は、私から見ればバルジラフ以上の魔獣が一触即発の雰囲気で向かい合っているような恐怖だった。


 体は信じられないくらい完全に再生されているけれど、失われた血液や生命力まで戻るわけではないので、倦怠感が強い。 

 左腕は神経まで完全に再生しているものの、一度切断されると元のように動かせるようになるまで数日がかかるのは、旅の間の何度かの経験で分かっている。

 とは言っても、ゆっくりとなら動かせるのだから日常生活に不便はさほどない。

 それにも関わらず、テレサは私の側をまったく離れず、何から何まで世話をしようとする。

 お風呂で身体を洗われるのは死ぬほど恥ずかしかったし、下の世話までされそうになったは、さすがに泣きついて何とか許してもらった。


 テレサがかまってくれのはとても嬉しいのだけれど、さすがに恥ずかしさが限界だった。

 しかも、テレサの目は冷たく、にこりとも笑ってくれない。

 それが怖くて今まで何も言えなかった。


「いくら左腕が不自由でも、こうもつきっきりでお世話いただかなくても大丈夫なのですが」

「何か勘違いしていませんか」

「勘違い?」

「これは罰なんですよ」

「え?」


 理解できずに聞き返した私に、テレサは呆れたようにため息をつく。


「姫さまはご自分が約束を破ったことをお忘れなのですか」

「それ、は、忘れてはおりませんが」


 怪我をしないと言う約束を、私はまったく守れなかった。

 はじめから守れるはずもない約束だったけれど、だからと言って反故にするつもりはない。

 でも、それが何の関係があるのだろう。


「何でもすると言ったのは姫さまですよ」

「たしかに言いましたけれど」

「怪我をしないという約束だったのですから、怪我が治るまでは姫さまはわたしの言うことを聞かなければいけません」

「あ、これってそういう」


 恥ずかしいご褒美なのかと思っていたら、罰だったとは。

 あ、だから。怖いと思ったら怒っていらっしゃるのね。

 でも、何に対して怒っているのでしょう。

 約束を破ったこと?テレサだって、無理な約束であったことは、分かっていたはず。

 あの約束は、不合理なことをする私に納得できないテレサに対して、妥協点を提案しただけなのだから。


 いまだに私は、テレサが何を考えているのか、ほとんど理解できていない。

 孤児それも捨て子であったこと。

 聖女なのに本神殿にはいたくないこと。

 おそらくは他人にほとんど無関心なこと。

 私に対する嫌いは、テレサにとってはとても珍しい感情であること。

 そして、私の弱いところをくすぐるような言動は、演技であること。

 分かっているのは、表面的なことばかりだ。


 それが知りたくて、テレサの顔を見るけれど、無言で匙を差し出してくる。

 私は口を開いてそれを迎えながら、彼女の端正な顔を見つめ続けた。


◇◇◇


 この家には寝室は一つしかないし、寝台を二つ置くような広さもない。

 だから、私たちは同じ寝台で寝ている。


 テレサの手で寝る準備をすっかり整えられた私は、暗闇の中にうっすらと月明りだけが差し込む寝台の上で破裂しそうな心臓を抑えるように膝を抱え込んでいた。

 私の部屋でも一緒の寝台で寝ていたけれど、全然違う。

 だって、私の部屋の寝台は端と端で眠れば、手を伸ばしても触れられないくらいの広さがあったから。

 抱きしめて眠ったこともあるけれど、それでも眠ってしまえば自然と体が離れる余裕があった。

 でも、この部屋の寝台は完全に一人用のものだ。

 母の使っていたものだから、一人では余裕のある程度の大きさはあるけれど、成人二人はさすがに無理がある。

 二人で寝るには、ずっと密着している必要がある。

 いや、そんなの言い訳だ。

 私の部屋にいたころと今、たった数日の間に私のテレサに対する気持ちに不純なものが大きく混じるようになってしまっただけ。

 そんな気持ちの夜を何日も過ごして、私の情緒はぐちゃぐちゃになりそうだった。


「姫さま、先に寝てていいんですよ」


 寝室の扉が開いて、テレサが入ってくるのが分かる。

 狭い部屋だから、お風呂上がりのテレサの甘い匂いがかすかに鼻腔をくすぐって、心臓が痛いほどにぎゅっとする。

 寝台に、テレサがゆっくりと腰を下ろす。

 大きくもない寝台の真ん中に私が座っているから、テレサの背中が私の足に当たっている。


「姫さま、もう少し寄ってください」


 テレサが背中で軽く押してくるのを、私は抵抗する。


「あの、やはり、私が居間のソファーで寝ますから」

「はい?」


 だから、声が怖いんです。


「わたしがいつそんなことをしろと言いましたか?」


 言いながらテレサの手が私の腰に回されて、壁際に追いやるように押し倒される。

 いくら弱っているとはいえ、力なら私の方がずっと強い。

 なのに、テレサに触れられると、私の体は子供のように無力になり、何の抵抗もできずにされるがままになってしまう。


 暗い部屋の中、いつかの夜とは逆に、私がテレサに後ろから抱きしめられている。

 薄い夜着を通して、テレサの淡い胸の膨らみが私の背中に当たっているのが分かる。

 あの時は下着をつけていないことを怒ったくせに、今はそのことを残念に思ってしまう私はあまりにも自分勝手だ。

 左手は私の肩を抑えるように触れていて、右手はさわさわと私のお腹をさすっている。私だって自重して、お腹を撫でなかったのに。

 下腹のあたりがぎゅっとして、じくじくとした知らない感覚が生まれる。

 うなじにかすかに触れた唇から零れた吐息が、首筋をくすぐって、身体を甘く痺れさせる。


 私の体はテレサの思うがままだ。

 簡単な女だって思われていることは分かっている。

 こうやって触れられるだけで、どんどんテレサへの執着を強めている。きっとそれは、テレサの思い通りなのだろう。


「テ、レサ…お腹を撫でるの、やめてください」

「何でですか」

「何でって…その、変な感じがするので」

「お腹の調子が良くないのですか」


 天然で言っているのか、分かっていて意地悪しているのか、まるで分からない。

 それを問いただすことも、できない。

 だから、私は無言で体の向きを変えて、お腹を撫でられないようにした。


「あ…」


 私は馬鹿だ。

 こんな密着した状態で向き直ったりしたら、テレサと正面から抱き合うようになってしまう。

 唇が触れ合いそうなほど近くに、テレサの顔があった。

 月明りを反射して神秘的に輝く深い紫の瞳に、吸い込まれるように目が釘付けになる。


 お腹を撫でていたテレサの手が、そのまま背中に回されて腰を引き寄せられた。

 咄嗟に私は俯くように、テレサの首筋に顔を潜り込ませる。

 そうしなければ、唇が触れ合っていた。


「あら残念。避けられてしまいました」

「ど、どういうつもりですか」


 破裂しそうな心臓の鼓動を必死で抑えながら、私はどもり声で聞く。

 意地悪にしても、今のは度が過ぎている。


「こちらを向くから、していほしいのかと思いまして」

「そんなはずないでしょう」

「同じ寝台で寝るならするのが普通では。神殿ではそうでしたが」

「え」


 私はその言葉に、自分でも驚くくらいに心を揺さぶられていた。

 そして、直後にきたのは怒りにも近い感情だった。

 正教会の事情にではない。

 それを普通と言うテレサも、誰かとしたのではないのかということに。

 私以外の誰かが、テレサの唇に触れた。

 そんなこと、許せるはずがない。


「…テレサも、したことがあるのですか」

「まあ、数え切れないくらいには」

 

 私は唇をかんで、感情を押し殺す。


「その人のことが好きだったのですか」

「好き?それが役割なら誰とでもしますが」


 もう限界だった。

 これ以上は聞きたくなかった。


 私はテレサを押し退けて、起き上がると、寝台から下りる。

 悲しみなのか、怒りなのかも分からない感情でぐちゃぐちゃになり、涙が零れ落ちた。

 それを見られたくなくて、足早に部屋の出口に向かう。


「だから言ったのに」


 感情の色のない声が、私以外の誰かに向けるのと同じ声色が、刃物よりも鋭く背中を突き刺した。


「わたしのことなんて知っても、いいことなんてないって」


 追いかけてくるその言葉から、私は逃げた。

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