テレサ 3
あなたが遠征に出てから、一日が経とうとしていた。
わたしは湖畔の東屋で、ぼうっとしていた。
膝に広げた書物は、一頁たりとも進んでいない。
自分が分からない。
あなたを変えてやろうと思っていたのに、順調なはずなのに、わたしが変えられている気がする。
あなたが行くのを何故、止めようとしてしまったのか。
わたしに依存しはじめているくせに、いまだ誇りを優先することが気に入らなかったのか。
だから、あんなことをしてあなたの誇りをぐちゃぐちゃに踏みにじってしまいたくなったのか。
あなたはすぐに約束という言葉を口にする。
わたしはその言葉を好きにはなれない。
だって、契約ですらない、言葉だけの約束なんて何の意味もないでしょう。
とくに今回の、無傷で帰るなんて約束、果たせるはずもない。
あなただって、そんなことは分かっているはず。だけど、守るつもりもない約束を無責任にしているとは思わない。
あなたはとても大切なことのように、わたしとの約束を喜ぶから。
首筋にそっと手を触れる。
そこに、甘い疼きが残っている。
痕なんて残っているはずもない、触れただけのあなたの唇。なのに、感触だけがいつまでも残っている気がする。
本当に痕をつけられても、何も感じたことはないのに。
自分がなぜ、あなたに変えられそうなのかが分からない。
あなたの気持ちが、あなたとの交流がわたしを変えたのならまだいい。だけど、わたしにそんなまともな感受性があるとは思えない。
それよりは、わたしに宿ったものの影響と考えた方が納得がいく。
だとしたら、きっとこれはよくない。
あなたがわたしに執着するのはかまわないけど、わたしがあなたに執着するのは許されない。
あなたがわたしに執着しても、近いうちに訪れる別れであなたが傷つくだけだ。無遠慮にわたしに近づこうとした報い。いい気味だと思うし、そうしてあげようと思っていた。
それであなたが壊れてしまっても、それは別にかまわない。
でも、わたしがあなたに執着したら、あなたはわたしのものになってしまう。
それは、あなたの意思に関係のないもので、わたしの望む結果ではない。
こんなふうにあなたのことばかりを考えているのが、もうおかしい。
わたしは、そうではないはずだ。
人間になんて、何の興味もない。名前や容姿で個体認識しているだけで、実のところ見分けがついているのかすら怪しい。たぶん、同じような背格好の人間が髪型や服装などの特徴を似せられたら、区別できないと思う。
でも、あなたであれば、指先が触れただけで、それがあなただと分かってしまう。
こんなことを考えてしまうのも、あなたが傍にいないからだ。
だから、早く帰ってくればいいんだ。
そんなことを考えていたからか、東屋に入ってきたその人を一瞬あなたと見間違えてしまったのは。
顔立ちはよく似ているけれど、あなたよりも幼いし、そもそも少年だった。
第二王子のジョルジオス殿下。先日の祝典の時に挨拶だけはしている。
「こんにちは。ジョルジオス殿下」
「…っこれは、聖女様。お休みとは存じ上げず失礼いたしました」
俯き気味に東屋に入ってきた殿下は、わたしに気が付いて少し驚いた顔をする。
それでも、すぐに品のある笑顔を浮かべて挨拶を返してくるのは立派だ。
「こちらこそ。お邪魔いたしました。わたしは失礼させていただきます」
格式的に言えば、いまだ成人していない第二王子よりはわたしの方が上。それでも、ローレタリアの宮殿内で、その王族に対して目上を主張するつもりはない。
そもそも、王侯貴族というのはわたしにとって、積極的に関わりたい存在ではない。
わたしは聖女の仕事として、持たない人が普通に生きるための手助けはするけど、貴族のように持って生まれた人には関わる必要性を感じない。
「あ、その、お待ちいただけますか」
腰掛を立ったわたしを、慌てた調子で呼び止める。
「何でしょうか」
「その、告解をさせていただけないでしょうか」
告解とは、罪や悔恨を司祭に告白すること。
司祭はそれを聞いて、必要とあれば助言を行う。そして、聞いた内容はけして口外してはいけない。
通常は神殿に設けられた、告白者と告白を受ける司祭が区切られた専用の部屋で行われる。
正直なところ、王族の告解なんて聞きたくもない。面倒なだけ。しかし、断ったらそれはそれで面倒ごとの原因になりそう。
「どうぞ。お掛けください」
わたしは座りなおして、殿下にも座るように促す。
「感謝します」
殿下は近すぎず、離れすぎず、適切な距離を保って腰掛ける。
すぐに身体のどこかが触れるほどの距離にくる、あなたが変なだけだけど。
本来、未婚の男女が二人きりと言うのは、よからぬ噂をされてもおかしくない、避けるべきことだけど、大きな声を出せば聞こえるくらいの距離には近衛が待機しているし問題ないでしょう。
よくない、と言うのは殿下にとってであって、貴族ではないわたしには関係ないけど。
そもそも、そういう意味での醜聞ならわたしはとっくに手遅れが過ぎている。
「ご存知かもしれませんが、姉上が魔獣災害の対応に行かれています」
自分の中で言葉を整理するように、殿下はゆっくりと話しはじめる。
告解を受ける司祭は、求められない限り基本的に途中で言葉を挟んだり、質問をしたりはしない。
「詳細は聞かされていませんが、おそらくは姉上を単独で魔獣に当てる作戦です。いくら姉上と言えども、生きて帰れるか分かりません」
その言葉はかなり不快だった。
あなたが無事帰ると約束したのに、何でそんなことを他の人から言われなければいけないの。
「あ、申し訳ありません。姉上の友人である聖女様に、こんな言い方は良くないですね。僕が言いたいのは、それくらい危険な作戦だと言うことで。しかもそれが姉上である理由が、王家の体面のためでしかないということです」
いや、わたしはあなたの友だちじゃない。
わたしのことを友だちだと周りに言っているのかしら。
「だから、僕が聖剣で代わりに戦うべきだと、兄上に言ったら叱責を受けました」
それはそうでしょう。
いくら聖剣の力が宝具より格段に優れていると言っても、実戦経験のない子どもとでは、あなたとの実力は天と地ほども違う。
こと魔獣戦において、あなたの実力は大陸でも有数なのだから。
「第二王子の立場を考えろと。聖剣を使えるくらいで思い上がるなと。もちろん、僕が姉上より強いなどと思っているわけではありません。ただ、王家の対面を保つためだけであれば、僕でよかったのではないかと。もし、どちらかが死ぬのなら僕よりも姉上の方が絶対に多くの人が悲しみます」
それはただの無駄死にだ。
あなたであれば生きて帰る可能性も五分だし、例え敗れたとしても魔獣の力を大きく削ぐことは必ず成し遂げる。殿下ではそれすら覚束ない可能性が高い。
「その、何が言いたいかと言いますと、自分の未熟さが情けなくて。兄上は比べるべくもない立派な人ですし、姉上は生まれついての障害にも負けない強い人です。二人に比べると僕は何のとりえもなくて、そもそも比べてしまうこと自体がみっともないと思いませんか」
言葉を止めて、こちらを見てくる殿下。
わたしの助言を求めているのだろうか。言うだけ言って終わらせてくれればいいのに面倒くさい。
「どうして比べることがみっともないのですか」
「努力は人と比べるためにするものではないでしょう。今の自分を超えていきたいんです」
「それに何の意味があるのですか」
「…え」
「相手はただ一人でも大勢でもいい。他人と比較して、他人から評価を受けない努力は、自己満足にしかなりません。それが悪いわけではありませんが、それは閉じた世界です。人は社会的な生き物です。人に認められたい、人より優れたいという欲求は正しいものです」
「では、どうしてそれが美しく思えないのでしょう」
「その欲求が過ぎると、手段と目的を取り違えるからではないでしょうか。自分が努力することを忘れ、他者を貶めることで欲求を叶えようとする」
「…人は弱いですからね」
「殿下が正しく努力を続けられるなら、その奥にあるものが、劣等感でも、認められたいと言う欲でもいいではありませんか」
年齢的にまだ潔癖で、自己肯定感の低い少年に与える言葉は、こんなところだろうか。
自分の言ったことを、わたし自身は欠片も理解できないけれど。
努力って何だろう。自分に与えられた能力と立場で、何をどうするか決めて、必要なことをする以外に人に出来ることなんてない。
「ありがとうございます、聖女様。話してすっきりしました」
「それなら、よかったです」
わたしは作った微笑みを殿下に向ける。
どうやら、それなりに正しい答えだったようだ。
ふと、上空を影が覆った。
見上げると、飛行船が宮殿に向かって降下していた。
宮殿上空は飛行禁止区域のはず。しかも、一隻だけなんて。
何か嫌な予感がする。
「何かあったのでしょうか」
そう呟く殿下の声も固い。
それだけ、宮殿への飛行船の直接降下が異常事態だと言うことだ。
ふと、見上げる空に影が過ぎり、漆黒の鳥が東屋の柵に降りる。
見覚えがある鳥。ティティスの使い魔。
鳥は真っ直ぐにこちらに目を向けてきた。
鳥としてはおかしな挙動に、殿下が警戒してわたしの前に立ち塞がる。
「ここにいたか、テレサ」
まるで鳥がしゃべったかのように、鳥からティティスの声が聞こえた。
使い魔を媒介した声送りの術式。
使い魔は魔術士が強い自意識を持たない生物を契約で支配する術式。使い魔の魔力と感覚を共有することが可能で、使い魔となった生物は主に合わせて変質する。
この鳥などはティティスの使い魔として百年以上を生きていると言う。
だけど、使い魔は主からしか魔力の補給を受けられないから、主の死は同時に使い魔の死を意味する。
「アレクが呼んでいるぞ。妹が死にかけているらしい」
その言葉を聞いた瞬間、わたしは、衝動的に走り出していた。
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