第15話

 テレサが庭園の家に移ってから、数日が過ぎた。

 あの日、テレサがあの家に移ることを認めてしまったことを、私は後悔していた。

 当たり前だけれど、私も一緒に、というわけにはいかない。いくら宮殿の敷地内でも近衛が私の側を離れることはできないから。

 宮殿に王族がまとまっていれば、近衛はそこだけを警備していればいいけれど、私があの家に移れば警備体制そのものを変えなければいけなくなる。

 さすがに私のわがままで近衛に無理をさせられない。

 移るにしても、警備体制を変えるだけの時間をおかないと。


 だから、テレサに会える時間が、夕食から就寝前までのわずかな時間に減ってしまったことも仕方ない。

 と、理性は理解している。

 だけれど、感情はまるで納得してくれなかった。


 あれからほんの数日。だけれど、長すぎる数日。

 テレサが一緒に部屋に戻ってくれないことに、怒りにも似た苛立ちが募る。

 眠るとき、近くにテレサがいないことに泣きそうなくらいの寂しさを抱く。

 朝起きたとき、必ずテレサが部屋のどこにいるか探してしまう。

 

 無理だ、と思った。

 この状態は、長く続けることはできない。絶対に近いうちに破綻する。

 精神に失調をきたすか、その前にテレサに泣きながら不満をぶつけるか。

 あの涙は、私の部屋から出るため、つまりは私から離れるための方便だったのではないかと。そんなはずはない、と思うのに黒い疑念が消えてくれない。


 早くあの家に移れるようにアレクにお願いしよう。

 ため息をつきながら、テレサが待つ家へといそいそと歩く。

 小舟は使わなくても、湖の脇を抜ける道は普通に存在する。


 林を抜けて、家が見えてくると、煙突から煙が上がっていた。

 家の前まで来ると、いい匂いが家の中から漂ってくる。

 子どもの頃、泣きながらこの家に来ると、私を出迎えてくれた懐かしい匂いだった。


 玄関を開けると、居間にテレサはおらず、匂いにつられて台所に向かう。

 台所を覗き込むと、テレサが料理をテーブルに配膳しているところだった。

 白いスープの煮込み料理と、パンだけの、質素ともいえる料理。だけれど、私は胸を締め付けられるような郷愁を覚えていた。

 私が言葉もなくその様子を見ていると、テレサの方がこちらに気が付く。


「おかえりなさい、姫さま」


 ああ、この家でその言葉を言ってくれた人は、もういない。

 そして、その人もよく、この料理を作ってくれた。

 なのに、どうしてその料理は私のために作ってくれたものではないの。

 そんなの理不尽だって分かっているのに、私は愕然とするほど、心を揺さぶられていた。


「どうして?」

「何がですか?」

「どうして、その料理を?」

「ああ、わざわざ食堂に行くのが面倒になりまして。料理長が熱心な正教の信徒でしたので、神殿の買い上げと言う形で食材を融通していただけることになりました」

「そういうことではなくて!」


 思わず大きな声を出してしまい、そのこと自体に驚いて、慌てて口を押える。

 我に返ると、自分の考えのあまりのおかしさに恥ずかしくなる。

 それでも、胸の内のわだかまりは消えてくれない。

 それを追い出すように、私は大きく息を吐いた。


「ごめんなさい。何でもないです」


 私は疲れを感じて、テレサの向かいの椅子に腰を下ろす。

 テレサは首を傾げつつも、自分も腰を下ろして、食事を始める。


 私は行儀悪く、両肘で頬杖をつきながら、テレサを眺める。


「美味しそうですね。私の分はないのですか」


 自分でも驚くほど、刺々しい声が出ていた。


「え、姫さま、いつも夕食はすまされていますよね」

「そうですけど…」


 不満の声をもらした私の前に、匙が差し出される。


「一口、食べますか?」

「本当、ずるい人」


 私は差し出された匙を口に入れる。

 美味しい。そして懐かしい味。

 煮込み料理に牛乳を加えて味をまろやかにするのは、母の郷土の風習だ。もちろん完全に同じ味ではないけれど、よく似ている。


「美味しいです」


 私の口を離れた匙が食器に戻り、そしてテレサの口に運ばれる。

 その匙の動きから、私は目が離せずに追ってしまう。

 私が口に入れたものが、テレサの口に入ることに、気恥ずかしさとともに背徳的な悦びを覚える。


「この料理、どこで覚えたのですか?」

「この間読んだ本に、北の方では煮込み料理に牛乳を加えることがあるという記述があったので試してみました」

「そうですか」


 テレサをじっと見るが、どこまで意図してやっているのか、私に見分ける術はない。

 ただ意味もなく、テレサが食事を終えるまで、私は見つめていた。


「今度は私の分も作ってくれますか」

「かまいませんが、姫さまは夕餉は王家の方ととられるのでは?」

「そうですけれど。そうなんですけれど。待ってください。何とかしますから」

「はぁ」


 どちらにしろ、ここに移る話をする理由が一つ増えただけだし。

 テレサは、食べ終えた食器を洗っている。

 私はその背後にひっそりと近づいて、お腹に手を回して抱きしめた。


「姫さま?」

「私もこの家に住んでもいいですか?」

「わたしが住まわせていただいているのですが」

「誰の家かという話ではなくて。テレサが私と住むことを許してくれますか、ということです」

「意外です。そういうこと気にするのですね」


 今までの強引さから、そう思われるのは仕方ないけれども、少しむっとする。

 強引にしなければ逃げていたくせに、と思ってしまう。

 言ったところで何の証拠もあることではないので、強く抱きしめることで不満を表す。


「気にしますよ。だって、嫌われたくありませんから」

「嫌いですよ。大嫌いです。でも一緒にいるのがいやなわけではありません」


 その嫌いは今までとは違って聞こえて、私は傷つかなかったし、一緒にいることを本当は嫌悪しているかもしれないと恐れていたから、嬉しかった。

 テレサの首筋に、そっと顔を寄せる。

 私たちはほとんど背は変わらないけれど、テレサの方がほんの少しだけ高いから、私は少しつま先立ちになる。


「それは、一緒に住んでもいいということですか」

「お好きにすればよろしいのでは」

「ちゃんと答えてください」


 私は唇をテレサの首筋に寄せる。

 唇がかすかに肌に触れて、くすぐったいのかテレサが身じろぎする。


「姫さま、ちょっと」

「ちゃんと答えてくれないと、痕つけますよ」

「何ですか、それ」

「恥ずかしいでしょう?嫌ならちゃんと答えてください」

「別に気にしませんので、どうぞ」


 どうぞ、の言葉が頭の中で反響して真っ白になった。

 ただの冗談のつもりだったのに、思考停止した私は、そう言われて唇を首筋につけていた。

 ぴくりと肩を震わすテレサの反応に、我に返って唇を離す。


「も、もう冗談ですよ」


 私の方が恥ずかしくなってしまい、抱擁も解いて、数歩後ずさる。

 嫌な汗が出るくらい、心臓が早鐘を打って、顔が上気してるのが自分で分かった。


 テレサは振り向きもせずに、洗い物を再開している。

 今の自分の顔を見られずによかったと思うけれど、まったく動じてくれないテレサに少し悔しくなってしまう。


 だから、きっと気のせいだ。

 唇を離す瞬間、テレサの肌に赤みが差していたのは、私の願望が見せた気のせいだ。

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