第13話
微睡みのなかで、私は甘い匂いに包まれていた。
官能的だけど、不思議と安らぐ匂い。
頬に触れる、最高級の羽枕よりも心地よい、柔らかさと弾力が至上のバランスで備わった感触。それよりも柔らかな感触には、どこまでも顔を埋めていたくなる。
ずっと、こうしていたくなる幸せな気分だった。
だけれど、髪や頬を撫でる指先のくすぐったさに、次第に意識が浮かび上がってくる。
「姫さま、お目覚めですか」
その声が、あまりにも優しくて、最初テレサだとは分からなかった。
夢うつつのなかでぼんやりと、声が聞こえた頭の上に目を向けると、テレサの紫紺の瞳が私を覗き込んでいた。
吸い込まれそうな美しい瞳が、いつもよりも優しくて魅入ってしまう。
そこで、完全に意識が覚醒する。
私、テレサに膝枕されている!?
それに、私が顔を埋めていたのは、テレサのお腹と言うか、もうほとんど足の付け根の…
え、え、これって許されるの?
いくら女同士でも、駄目なのでは。
子どもならともかく、成人がやったら完全に変態だ。
優しい目だと思ったけれど、実は可哀相なものを見る目だったとか。
恐る恐るテレサの目をもう一度見ると、微笑んだまま首を傾げられた。
気にしてない、のかな。
他人に見られたら貴族的には終わるくらいの行為だと思ったけれど、一般的にはそうでもなかったのだろうか。
この幸せな気分を、また味わう機会を期待してしまう。
名残惜しいけれども、目が覚めてしまったからには、起きるしかない。
「済みません、テレサ」
体を起こした私は、テレサに頭を下げる。
散歩に誘っておいて、相手の膝枕で寝てしまうなんて、非礼が過ぎる。
「公務でお疲れだったのでしょう。夜も遅かったですし」
労わるような言葉だけれど、何故か責められたように感じられたのは、気のせいでしょうか。
まさか、しばらくかまえなかったことを怒っている?
そんなはずはない、よね。
いくらなんでも自意識過剰すぎる。
「そろそろ、戻りますか」
空を見上げて、テレサが独り言のように言う。
つられるように空を見ると、雨はすでに止んでいた。
夕方と言うほどではないけれど、太陽はだいぶ傾いてきている。
ご飯を食べたのはまだ昼前だったから、たっぷり二刻は眠っていたことになる。
せっかくのテレサとのお散歩が、ほとんど潰れてしまったのはもったいないけれど、膝枕と言うあまりにも幸せな時間を思えば、相殺かもしれない。
「あと一か所だけつきあってくださいますか」
私は長椅子を立って、テレサに手を差し出した。
重ねられた手を取り、テレサが立ち上がっても、私は握った手を離さなかった。
◇◇◇
湖から流れる小川に沿って周囲の林を抜けると、長閑な自然の景観が広がっている。
もちろん、庭師の手は入っているけれど、もともとこの場所にあった自然に、ほとんど手を加えてはいない。
林から続く小川のほとりに、小さな家が建っている。
離宮や別荘と言うほど、立派な建物ではない。
田舎の村落に、どこにでもありそうな家を模している。
木材を組んで建てられたその家は、立派ではなくても、どこか温かみがあった。
「姫さま、ここは?」
どこか、呆っとした様子で家を見ながらテレサが問いかけてくる。
「父が母のために建てた家です」
私たちの母は、辺境伯の娘だった。
百年ほど前までは独立した小国の王族だった辺境伯家は、家格としては公爵家にも匹敵するけれども、実体としては田舎貴族でしかなかった。
母も魔獣の襲来には騎士として剣を取り、平時には畑を耕す。そんな娘だったという。
成人の儀で出会った父に見初められて結婚した。
ローレタリアに限らず、五王国の王室は祖王の系譜以外の血が入ることを厭う。血統主義と言うよりは、血が薄まることにより
辺境伯家が傍流とは言え、祖王の血を薄く引いていたこと。
正室の子とは言え、父が当時、第四王子でしかなかったこと。
それらを差し引いても、結婚に至る道は険しかったらしい。
その結果として、アレクと言う祖王の再来とも言われる傑作が生まれたのは、皮肉でしかない。
まあ、王家の直系で初めて
多才だった母は王妃としての公務を十二分に果たしていたけれど、本質としては田舎を駆け回っていた少女のままだったのでしょう。
父はそんな母のために、豪華な離宮でもなく、風光明媚な別荘でもなく、この自然の中の小さな家を贈った。
「入って、テレサ」
私はテレサの手を握ったまま、家の中に入る。
本当に小さな家だ。
私の自室の半分の広さもない居間の他には、寝室と台所とお手洗いと湯場くらいしかない。
暖炉のある居間も、カーペットの上にソファーとテーブルが置かれているくらいで、高価な調度品の一つもない。
「懐かしい、子どもの頃のまま」
呟きながら中へ進もうとするけれど、手を握ったままのテレサが動かなかった。
何気なく振りむいた私は、一瞬、呼吸をすることすら忘れてしまった。
瞬き一つせず居間を見つめるテレサの頬を、静かに涙が伝っていた。
言葉にできない感情の嵐が私の中を吹き荒れて、身じろぎもできずにその涙に見入ってしまう。
何が、何で、どうして。
私は、泣かせるつもりなんて。
混乱する頭で、それでも籐籠から取り出した手拭いを、テレサの目元に交互に当てる。
指先が、みっとないくらいに震えていた。
「泣かないで」
そう言う私自身の声も震えていて、泣きそうだった。
「泣く?わたしが?」
自分が涙を流していることに気が付いてもいないのか、テレサは不思議そうに首を傾げる。
指先を目じりに当て、そこに乗る雫をじっと見つめる。
「これが、涙」
得体のしれないものを見る目でしばらく涙を見ていたテレサは、やがて忍び笑いを漏らし始めた。
「何、なに?どうしたのですか」
私はまったく思考がついていけなくて、更に混乱してしまう。
「わたし、人に泣かされるのなんて初めてです、姫さま」
悪戯っぽい笑みを浮かべるテレサ。
意地悪なその顔が、あまりにも愛らしくて、ずるいな、と思った。
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