第3章

間章 2

 それは、魔王領に入ってひと月ほど経った頃。

 狭隘な渓谷をわたくしたちは進んでいた。


 逃げ場のない地形や、反対にあまりにも開けた地形は魔獣からの襲撃を誘発するので可能な限り避けていた。

 だけれど、地形上やむを得ず、その渓谷に入ることになった。


 相も変わらず私が先頭を歩く。

 そのすぐ後ろには、アレクがいた。

 背後からの不意打ちを警戒する必要が薄い地形なので、ティティスを挟んでテレサが最後尾に回っている。

 

 この渓谷に入ってから、胸騒ぎが止まらない。

 地形に対する不安からくる、根拠のないものだと思いたいけれど、あまりにも静かすぎる。

 まるで、小動物たちが息をひそめているかのような、不自然な静謐。

 私は普段よりも歩調を早めて、薄暗い谷底を進む。


 一刻も経った頃だろうか。

 私は足を止めて、手振りで後ろに止まるように合図する。

 ティティスやテレサは探知魔術で常に魔獣の存在を警戒しているが、何も警告してはいない。


 おそらくは隠ぺいの魔術が施されているが、それでも隠せないものもある。

 前方の暗がりから漂う濃密な殺気。

 無言で腰から小剣を抜き放ち魔力を込めると、光の刃を帯びる。同じように左腕の腕輪からは光の盾が発生する。

 ローレタリア三宝具の光輝の剣と蓮の聖盾。


 暗がりから飛び出してくる狼型の魔獣を、それよりもはるかに速く動いたアレクが迎撃し、聖剣の一閃で両断する。

 そのまま、暗がりから続々と現れる魔獣の群れに突撃していく。


 アレクの剣は天衣無縫。

 初めて剣を持った時からその扱い方を完全に理解し、型に囚われずに自由。

 それにも関わらず修練を欠かさず、今や精鋭中の精鋭である近衛騎士ですらアレクに勝てる人はいない。

 更に聖剣の加護を受けたアレクは、最早人の範疇を超えた理不尽な存在だ。


 だから私は、アレクと一緒になって動いたりはしない。

 ついて行けるわけがないから。


 私の役割は、アレクが取りこぼした敵を、後衛に通さないこと。

 倒さなくても、足を止めれば、即座にティティスが攻撃魔術で倒してくれる。

 ティティスは、意外にも集団戦が巧みだ。単純に強力な魔術が使えるのにとどまらず、小さな魔術を戦況に合わせて的確に使用する。

 魔術を戦闘に使用することに特化した、軍属の戦術魔術士にも匹敵する。

 今も私とアレクの間に弾幕をばら撒きながら、私が接敵した相手を一撃で仕留めている。


 テレサは…

 いつもなら結界で援護してくるテレサの動きが見られず、隙を見て様子を窺う。

 テレサは、私たちに完全に背中を向けていた。


 そして、私たちが来た道を完全に塞ぐ巨大な結界を展開していた。

 その結界には、無数の影が纏わりついては弾け消えている。

 影類魔獣!


 影に潜むことができるこの魔獣種は、潜んでいる間は探知系の魔術にも引っかからないため、最も暗殺に向いた魔獣として恐れられている。

 しかし潜んでいる間は、繋がった影の中しか動けない。

 つまりは、始めからこの付近に埋伏していたということ。


 完全な待ち伏せ。

 前方の魔獣は隠ぺいの魔術で探知から逃れ、後背には影類の魔獣を潜ませる。

 もしテレサが気付いていなければ、前方の魔獣に気を取られている隙に、影類の不意打ちを受けていた。

 テレサはその聖女と言う肩書に反して、物ごとの裏を読むのがおそろしく得意だ。

 その根幹にあるのは、どんな事態にも動じることのない心の強さ。

 私はテレサが慌てたり、感情的になるところを見たことがない。


 だけれど、いくらテレサでも、この規模の結界を展開し続けるのは消耗が大きいでしょう。

 早く前方の敵を処理して、テレサの援護に回るべきだ。


 私は戦いに集中することにしたけれど、その戦いは長引いた。

 ティティスの強力な魔術をはじめ、渓谷の崩落を恐れて広範囲の攻撃を控えていたのが大きい。

 長時間の戦いは、体力と集中力を奪う。

 

 そもそもが、襲い掛かってくるのが獣型の牙類魔獣ばかりな時点で違和感を抱くべきだった。

 隠ぺいの魔術を使った魔獣の存在を。


 魔獣の群れの奥で高まる魔力の気配。

 疲労からくる一瞬の反応の遅れ。

 でも、致命的な一瞬。


 咄嗟にテレサを庇って、聖盾を展開する。

 一瞬の判断の遅れが招いた、不完全な展開。

 高速で走った魔力の誘導線が聖盾に触れた瞬間、発生した黒い球体が聖盾を砕き、威力を減衰させながらも私の左の二の腕から先を飲み込んで、消し飛ばした。


 宝具の腕輪だけが宙に残され、そして地面に転がる。

 遅れてくる激痛を堪え、内魔力による身体制御で出血を抑える。


 頭の片隅で、ただの女の子である私が痛みと腕を失ったことに悲鳴を上げているが、王女として、騎士としての私が、それを黙殺するのを奇妙に他人事のように受け取める。


 そんな心とは乖離して体は勝手に動き、光輝の剣を放り投げながら地面を転がり、突撃してきた魔獣の攻撃を躱す。転がりながら拾った蓮の聖盾に腕を通し、落ちてくる光輝の剣を受け取り、振り返り様に魔獣の首を叩き落とす。


 いま、私が倒れるわけにはいかない。

 アレクとティティスは、私の様子を見て、消耗戦は不利と判断して攻撃に意識を傾けている。

 ティティスが迎撃から抜けた分、テレサの守りが薄くなる。

 せめて、前方の敵が片付くまでは私が守らないといけない。


 視線を感じて、一瞬だけ後ろを見る。

 瞬きもせずに私を凝視するテレサと目が合う。

 そこに、いつもの穏やかさも、観察するような様子もなかった。

 私はなぜか、その視線から逃げた。


◇◇◇


 意識が覚醒すると、そこは天幕の中であった。

 記憶が混乱している。


 渓谷で魔獣に挟み撃ちにされて、左腕を失い…

 そのあと、戦いの中でいつ意識を失ったのか、記憶がない。

 途中から、ほとんど無意識で戦っていたよう。


 じわりと、涙が滲むのを堪える。

 左腕がなくなってしまった。

 ただ切り落とされただけなら、テレサほどの高位法術士がいれば繋げることもできる。

 でも、さすがに完全に失われたものを再生することはできないでしょう。


 王女としても、騎士としても終わってしまった。

 騎士としての技量はそこまで優秀ではないのに、片腕では戦う力は更に落ちる。それに、片腕のない王女なんて、民の前に出れたものではない。

 ただでさえ欠陥品の王女が、完全に壊れてしまった。

 この先の旅にも、足手まといでついて行けない。

 かと言って、一人で国に戻れるほど、魔王領は優しい土地でない。私を戻すために、アレクたちの時間を使うのなんて論外。


 自害、かな。

 それが一番、きれいな身の処し方な気がする。


 私は何枚も重ねられてくるまれた厚手の毛布の中で右手を動かして、なくした左腕に触れようとする。

 柔らかくて、温かいものに右手が触れた。

 何かうまく頭が働くなくて、しばらくまさぐってから、それが人の体だと理解する。


 毛布を持ち上げて覗くと、テレサが抱きついて眠っていた。

 私の左腕に。


「…え」


 理解が追い付かなくて、二度見する。

 私の左腕はちゃんとついていて、それをテレサが抱えている。

 外気に触れて身震いしたテレサが、うっすらと目を開ける。


「…う、んぅ」


 いつもすっきりと目を覚ますテレサが、珍しく気だるげに身を起こす。

 どこか焦点のぼやけた、とろんとした目で私を見る。

 うっすらと開いた唇から漏れる吐息。乱れてほつれた髪。その艶めかしいともいえる物憂げな雰囲気に、一瞬、何かおかしな感情が浮かんだ気がした。


「…ひめさま、おはようございます」

「おはようございます。って、そうじゃありません!」


 私の出した大きな声に、テレサが顔をしかめる。


「わ、私の腕、どうして!?」

「治してはいけませんでしたか?」


 小首を傾げるテレサ。

 そうじゃない。そういうことじゃないでしょ。


 左腕を動かしてみる。

 あまり感触を感じないから、ゆっくりとだけれど、たしかに動く。


「これ、元通りに動くようになるのですか」

「はい。再生した神経が馴染むのに数日かかりますが」


 また、元通りに動かすことができる。

 左腕を胸元に抱え込んで、先ほどとは別の涙がこみあげてくるのを堪える。


 テレサは気だるげにしたまま、何てことなさそうにしている。

 この人、私の命とか人生とか救ったって、分かっているのかしら。


「法術でこんなことができるなんて知りませんでした」

「教会でも秘奥に属する、使えるものもほとんどいない術ですから」

「なぜ秘密なのですか。むしろ教会の権威を高められそうなものですが」


 人体の再生なんて、まさに奇跡だ。

 これを衆目の前で行えば、聖教の頃のような権威の復活すら可能なのではないでしょうか。


「この『聖餐』が対価術式だからです」


 対価術式とは、魔力以外に術式の効果に応じた触媒を要する術式のこと。

 触媒は生贄や供物とも言い換えることができ、禁術に指定されていることが多い。

 なるほど、つまり表に出すにはあまり心象の良くない触媒ということなのでしょう。

 触媒と言う以上、多くは術式によってもたらされる効果に近しいものとなる。火を起こすなら火に近しいもの。それなら、人体を再生するための触媒とは。


「私の腕を治すのに、何を対価にしたのですか」

「わたしの命です。腕一本の再生ですから数年分の寿命でしょうか」


 あまりにもあっさりと言うから、理解が遅れた。


「どうして、そのような…」


 自分の顔から血の気が引くのが分かる。


「聖女の命を粗末にしないでください!」


 聖女の命の価値は、代替の効く一王女の腕などと引き換えにしていいものではない。

 聖女の命が一年失われるのは、その間に救われる多くの民の命が失われるのに等しい。


「姫さま、わたしからも申し上げたいことがあります」


 突然の私の大声にも動じることなく、テレサが静かに、でもいつになく厳しい口調で口を開く。


「わたしは常に三つの術を励起状態にしています。ですから、あのように庇っていただく必要はありません」


 魔術や法術の術式を構築せずに励起状態で待機させておくのは、高位の術士の必須技能だけれど、宮廷術士でもほとんどが一つしか保持できず、多くても二つが限界。

 それを三つも保持できるのは、さすがに聖女と言うしかない。

 外魔力も心魔力も持たない私には、異次元過ぎて理解すら及ばない。

 それでも。


「あれは魔力に反応した消滅術式です。強力な魔力により強い効果を発揮します。貴女でも咄嗟に防げたかは疑問に思います」

「防げた可能性も十分にあります」


 私はゆるゆると首を横に振る。


「防げなかった可能性がある以上は、私は何度でも同じことをします。この旅で、私より先に貴女が命を落とすことはあってはならないのです」

「姫さまがいなくなれば、わたしたちの戦力は大きく落ちます。わたしたちを守るためにも姫さまはご自身を守ることもお仕事のうちです」

「それはその通りです。ですが、何よりも優先されるのは貴女たち三人の命です。そして、その時がいつかは私が判断します」


 無言で見つめ合う私とテレサ。

 私たちの意見は、何も違うところはない。ただ、その判断の基準が異なるだけ。

 そして、そうであるが故にけして交わることがない。


「やめましょう。この話は不毛です」


 私は大きくため息をついて、話しを打ち切った。


「それよりも、助けていただいたのに礼もまだでしたね。ありがとうございました」

「わたしはわたしの仕事をしただけです」


 何でしょう、仕事という言葉に違和感を覚える。

 文脈としてはおかしくないのに、私とテレサの間に齟齬を感じる。


 私にとって王女としての責務は、誇りであり、心の寄る辺だ。

 だからこそ分かる。今のテレサの言葉は、聖女としての使命や責任から発せられたものではない。それが、聖女としての仕事だからやっているだけだと言うような無機質さ。

 まるで、食堂で料理が出るのは当たり前だろうとでも言っているよう。


 この人は、私が思っているような完璧な聖女ではないのかもしれない。


 私はこの時、はじめて聖女ではないテレサと言う人に興味を抱いてしまったのだ。

 無自覚に、軽はずみに、軽薄に。

 それが、私にとって抜け出すことのできない底なし沼になるとも知らずに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る