第9話
ジュナ様の部屋を出た私は、よろめいて壁に寄りかかった。
子どもたちがじっと見ているが、取り繕う余裕もなかった。
テレサの話ができるかもと思い、聞かれたくなくて近衛を外に待機させておいて良かった。こんな姿は、さすがに騎士たちには見せられない。
先ほど知ってしまった事実が、私を打ちのめしていた。
テレサは捨て子だった。
このローレタリアにおいて、その意味は重い。
たんに心情的な話しに留まらず、実際的な意味で。
出生時に役所の登録を受けなかった捨て子は、ローレタリアの国民ではない。
それは、その人生の道をとても狭める。
当然、真っ当な職に就くことすらできない。
そういった捨て子の将来は、裏社会で生きるか正教会に席を置くかのほとんど二択となってしまっている。本来は国民に等しく公共福利を与えるための制度が、裏目に出てしまっている法の瑕疵。
その被害を受けた人が、無法な社会か、政治に不介入の教会に所属するため、批判の声が表立って上がらず、対策は後回しにされ続けてしまう。
それどころか、国の失策で生んでしまった、そうした捨て子を国民ではないからと、差別するような風潮すら生まれてしまった。
国は孤児院の運営に補助金を出してはいるが、それはあくまでも国民である孤児に対してだから、親の分からない捨て子を抱えるほど、孤児院の運営はひっ迫する。
義務ではない捨て子をわざわざ育てるのは、国営である大きな孤児院ではなく、正教会が運営する慈善活動の小さな孤児院の場合が多いから、本当に運営は厳しくなる。
だから、そうした捨て子は孤児院の中ですら迫害の対象になりやすい。
テレサもたんに貧しい以上の厳しい環境で育ったのかもしれない。
そのテレサに、私はパレードの時に何てことを言ってしまったのだろう。
自国の聖女、なんて。
国民として認めもしなかった国の王族が、どの口で。
あの時、テレサは何を思って、私の言葉を聞いていたのだろう。
呆れただろうか。憎んだだろうか。嫌われてしまった、だろうか。
狭い廊下の壁を撫でて、テレサはどんな気持ちでここで育ったのだろうと考える。
どんな気持ちで、私が暮らす丘の上の宮殿を見上げたのだろう。
鬱々とした気分でいると、ふと覚えのある視線を感じた。
廊下の突き当りの窓から、建物の影から見ていた女の子が、顔をのぞかせていた。
「あーっ、おまえ、顔だすなっていっただろー!」
年長の男の子が怒鳴ると、女の子はさっと顔を引っ込めた。
男の子は窓の方に駆けだそうとする。
「待って」
私が呼び止めると、男の子の動きがぴたりと止まった。
近づいて、男の子の傍で膝をついて屈む。
ぎこちない動きで振り向いた男の子の顔は、真っ赤に上気していた。
そんなにあの女の子に怒っていたのかしら。
「どうして、あの子は顔を出してはいけないの?」
「あ、あの、あいつは親なしだから、です」
「親なしって?」
「親が分からないから、ほこりあるローレタリアの民じゃないって大人が。だから、王女さまの前に出しちゃいけないんだ、です」
「…そう」
この子を、間違っていると責めることは私にはできない。
そんな権利は、私にはない。
「ねえ、貴方のお名前は?」
「フィル、です」
「フィル君にお願いがあるのだけど、いいかしら」
「は、はい!」
「貴方の周りにいる女の子を守ってあげてほしいの」
「…親なしも、ですか?」
「そう。あの子も守ってあげられるフィル君を、私は王女として誇りに思います」
「分かっ、りました!」
真っ赤な顔で頷く男の子を、私は微笑んで抱きしめた。
なんてひどい偽善。
私はテレサに似た境遇のあの女の子を助けたつもりになって、過去のテレサに贖罪したつもりになりたいだけ。
私は固まってしまった男の子を離すと、廊下の突き当りに行き、窓を開けた。
女の子は、窓の外で壁を背に座り込んでいた。
腰ほどの高さの窓枠をひょいと乗り越える。
はしたないけれども、玄関を通って近衛に見つかりたくなかった。
すぐ近くに着地した私を、女の子は驚いた顔で見上げる。
窓を閉めて、そのまま女の子の隣に腰を下ろす。ドレスが地面について汚れてしまうけれど、別に構わない。
「こんにちは」
微笑んで女の子に声をかける。
痩せ細り、薄茶色の髪は傷んでいるけれど、よく見れば愛らしい顔をしている。幼い、と最初は思ったけれど、それはたぶん栄養が悪くて成長が遅れているだけで、十歳に近いのかもしれない。
「こ、こんにちは」
消え入りそうな小さな声で、挨拶が返ってくる。
「少しお話ししたいけれど、いい?」
「あの、わたし親なしだから王女さまとお話ししちゃいけないって」
「そう、でも私は貴女とお話ししたいわ。ダメ?」
女の子は首を横に振る。
年齢は先ほどの男の子とほとんど変わらないのに、ずいぶんと落ち着いている。
「ありがとう。お名前は?」
「マリーです、王女さま」
「いいお名前ね。マリーは私に何か聞きたいことがある?」
「あの、テレサお姉ちゃんは元気ですか?」
テレサお姉ちゃん。
その親しみを込めた呼び方に、私の胸は少しざわつく。こんな小さな子に、呼び方くらいで嫉妬してしまう私はどうかしている。
「元気よ。今はお城にいるわ」
「お姉ちゃんはここには戻ってきませんか?」
それは、難しいと言わざるをえない。
すでに聖女として顔を知られてしまったテレサが、ここにいれば無用の騒ぎを呼び込むことになる。
「マリーは戻ってきてほしいの?」
「ううん。お姉ちゃんが元気ならそれでいいです」
本当は戻ってきてほしいのでしょう。
この子にとっては境遇を等しくする、唯一の理解者で保護者であったはず。
「マリーは、私のこと嫌い?」
「?」
ことんと首を傾げる姿は、年相応で可愛い。
「親がいないからって、馬鹿にされたり、いじめられたりするのは嫌よね」
「それは、はい」
「何も悪いことをしていないのに、普通に生きていくこともできないこの国は嫌い?」
マリーの顔に警戒が滲む。
頭のいい子だ。この質問に答えることが、相手によっては危険だと言うことを理解している。
マリーはしばらく考えてから、口を開いた。
「テレサお姉ちゃんが言っていました。自分の生まれとか育ちを恨んだって意味はないって。与えられたものでうまく生きていくことを考えなさいって」
テレサらしい合理的な考え方だけれど、その根本にあるのは諦観のように思える。
恵まれた生まれの甘えた考えなのかもしれないけれど、他人との互助を期待しない考えは悲しい。
それにそれは生き方の話しであって、感情は思い通りになるものではない。
「難しいけど、怒るのも、泣くのもお腹が減るだけで疲れます」
「ふふ。そうだね。お腹がすくのは嫌だね」
「国とか難しいことは分からないけど、王女さまは綺麗で、優しくて素敵です」
それは、王家に対する畏敬からくる言葉でも、阿るための言葉でもないけれど、無垢な子どもの言葉でもなかった。
危険な言葉を避けて、相手の心地よい言葉を与える。
未熟だけれど、これがテレサから学んだことなら、テレサの言葉は。
私はマリーの小さな体をぎゅっと抱きしめる。
こんな子どもが、言葉で人の心を操ろうとするのが悲しかった。
驚いて身を固くするけれど、次第に力が抜けていく。
「王女さまはいい匂いがします。テレサお姉ちゃんもいい匂いがしました」
それは、まったく同感。
「どちらが好き?」
「比べられません。王女さまの匂いはあたたかくてほっとします。テレサお姉ちゃんの匂いは甘くてくらくらしちゃいます」
分かる。テレサって香水もつけていないのに、何であんなに甘い匂いがするんだろう。
それも鼻につく甘ったるさではなくて、瑞々しい果物のような香り。
私がテレサに触れたくなる理由の一つだ。
「マリーはここを出たらどうするの?」
私はマリーの抱擁を解いて問いかける。
孤児院は養育期間が十歳までと定められていて、その後は商家や職人に奉公に出ることになる。
マリーはもう、その歳が近いはずだけれど、どうするのかが気になった。
まともな職につけない女の子の選べる道は少ない。身を売るような仕事、それも非合法なものしかないと言っても過言ではない。
マリー一人くらいなら、私がどこかに紹介してもいい。
それは偽善だと分かっているし、私がやるべきことは捨て子が差別を受けないように働きかけることだけれど、だからと言って目の前のテレサと縁のある女の子を見捨てることはできない。
「テレサお姉ちゃんから、正教会への紹介状をもらっています」
小さく息を吐く。
私なんかが気にすることを、テレサが考えていないはずがなかった。
正教会が捨て子を受け入れていると言っても、無制限に受け入れるはずもなく、基本的には多少なりとも心魔力の適性がある子どもだけ。
でも、聖女の紹介状があれば無下にはされないでしょう。心魔力の適性がなければ修道士から昇格することはできないけれど、それでも裏社会よりはまともなはず。
「よかった。元気でいてね」
「はい。テレサお姉ちゃんにも、お元気で、と伝えてもらえますか?」
「必ず伝えるわ」
私はもう一度、マリーを抱きしめる。
この子はきっと、テレサにとって妹のような存在。それなら、私にとっても大切な子だと、そう思えるのだから。
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