第3話『仮初の契約Ⅲ』

 扉に背中を預けて、息を整える僕。

 一応入れたか、でも出るわけにもいかなくなったな……。

 さて、どうしよう。リリスの力を借りれば何とかなるらしいが。


 扉の反対側から、金属を踏む音や、床が軋む音が聞こえる。猛獣が階段を駆け上がり、扉を隔ててすぐそこまで来たことがわかった。荒い息が、背後からはっきりと聞こえてくる。

 階段がほとんど抜け落ちてるから登ってこれないと思っていたが、駆け上がってきたか。


 さて、どうする?


 僕はふと、利き手である左の掌を見つめた。そして、その拳を意識的に固く握り締める。


 下のシャッターは体当たりすれば、破壊して簡単に入ってこれるだろうが、生憎二階の裏口はお前には狭すぎるんだよ。悔しかったらこの壊れたドアを前足で器用に開けろ……!


 僕は自分自身を強く鼓舞した。そして、平静にはならないまでも、身体の震えが武者のそれになったことを、肌で感じ取った。


 リリス、本当に大丈夫なのか……? と、不意にリリスが心配になる僕。

 いや、今はこれをどうにかする方が先か。邪視、使うしかない。


 僕が伊達眼鏡に手を掛け、外そうとした、その瞬間――心の内側から、恩師の声が脳内に湧き起こる。


『君には“邪視”の素質がある』

『君は恨みの籠もった視線を投げかけることで、その人を最悪、殺すことが出来る』

『ただしその力を使うことで、不幸にはなっても、決して幸せにはならない。私が良いというまで、その力を絶対に使うな。いいね?』


 僕は『それ』を使わなければあまりに絶望的過ぎる状況に、思わず涙が込み上げてきた。


「まだ使っちゃいけないって、そう言うんですか……? なら、どうすればいいんですか……? この状況、もう、それ以外で切り抜けられません……」


 そしてとうとう、僕は視界が霞んで前が見えなくなる。


『考えろ』

「……え?」


 突然頭に彼女の声が響き渡る。僕は懐かしいその声音に、今度は違う種類の涙が込み上げてきた。


『言っただろ? 君は必ず生き残る。信じろ。私は自分に嘘を吐くが、人に嘘は吐かない。お前は約束を守る男だよな?』

「はい、はい!」

『二つ目の約束は?』

「そんなの、覚えてるに決まってるじゃないですか!」

『「 生きろ! 」』


 サエカさんの声を聞いたお陰で、一気に頭が冷静になる。


 さて、なんとかしてリリスを救い出さないと。とりあえず契約はする方向でいこう。

 ……ん? そういえば、背後からもう鼻息が聞こえてこないな。奴はどこへ行ったんだ?


 次の瞬間、本来の入り口である一階のシャッター辺りから爆音が室内に響き渡る。耳がつんざくように痛い。


 下のシャッターを壊すことにしたか。知能はある程度あるみたいだ。……対してこちらは、頭は冷静だが体力的にもうほとんど余裕がない。とりあえず、中に入って来た瞬間に背後の階段で一気に駆け降りるしかないか。契約を済ませればどうにかなるだろう。少し下の階を覗いてみるか……。

 僕は二階の吹き抜けから一階の様子を見つめた。


 もうシャッターの隙間から光が差し込んできてる。今すぐにでも壊れそうな勢いだ。せめて後ろの階段から転がり落ちてくれれば余裕があったのに。しかし、あの巨体でよく持ったな、あの階段。まさか崩れ落ちてないよな?


 僕は背後の扉を開けて軽く階段の強度を確認した。大丈夫そうだが、少し手すりが心元ない。これちゃんと降りれるのか?


 と、思った矢先――。シャッターの壊れる派手な轟きがビル内に響き渡り、あまりの一驚に身体が座礁する。これを合図に、大量のアドレナリンが再び全身を駆け巡り始めた。


 ここで下手に動くと回り込まれてしまう。出来るだけ引きつけて階段を降りるべきだ。奴は下の商品棚にぶつかりながら僕のことを捜している。一直線に来る訳ではないか。むしろ早く来てくれ、心臓に悪い。次に僕は階段を駆け降りて、リリスを拾って――。


 いや、待てよ?

 背後のドアを開け、踊り場に出る僕。


「章!? 大丈夫だったの!? あの魔獣、中に入っていったみたいだけど!」

「うるさい! お願いだから黙れ! 大丈夫だから!」


 僕は思いっきり息を吸い込むと――。


「壊れろおぉおぉぉおおお!」


 覇気と共に、階段の手すりを思いっきり蹴り飛ばして完全に破壊した。数秒前まで階段の手すりだった鉄屑が、無残にも地面に横たわる。

 そして背後から荒い息遣いと体温を感じ取ると、僕は勢い良く裏口のドアを閉め切った。手すりなしで一気に階段を駆け降りる。一段飛ばし、二段飛ばし、一段飛ばし……。最後に跳び上がってむき出しの地面に受身を取る僕。


 直後、背後からの爆音。二階の裏口のドアが壁ごと破壊されて吹き飛んだ。ドアを壊す為に体当たりしたであろう猛獣は、その勢いを維持したまま虚しくも宙を舞う。そして着地に失敗し、地面に叩きつけられる。あれは確実に足を挫いた。

 踊り場が狭いので外から突進することは出来ないが、内部から外に飛び出すのであれば話は違ってくる。


「あの魔獣! ざまぁみなさい!」


 声色から察するに、リリスは上機嫌だ。


「リリス、もう契約でも何でもすることにした。それは手短に出来るものなのか?」

「仮契約だけなら、可能ね」

「何をすればいい?」


 必死の形相で僕はリリスに話し掛ける。命に係わることなので、当然の如く真剣だった。


「まず私を開きなさい」

「…………は?」

「いや、だから、ページを開きなさいって言ってるのよ! ゆっくりしてる場合じゃないわよ! 何考えてるの!」

「あ、ご、ごめん!」


 開いていいのか……?

 僕は妙な背徳感を持ちながらリリスに謝り、『魔導書』を開く。


「中に書いてある呪文を唱えるだけで大丈夫、同時に言うわよ」

「何語なんだ? こんな文字見たことが――」

「光る部分なら読めるはず! いいから早く!」


 猛獣が再び立ち上がろうとしている。僕は慌ててページをめくり、光る文字の載っているページを見つけ出した。


「よ、読める……! 何故か読めるぞ!」

「対象に右手を翳して、いくわよ?」

「了解!」

「「我が血潮は心臓を巡り、全身を巡り、脳髄を巡れり。満たされよ器、満たされよ霊魂、満たされよ気魂きこん。大地に巣食う精霊どもよ、生の力をうぬらに与う。与えし活力を以って我が脅威を圧倒せよ。焼き尽さん、火炎の右手ストリーミングフレイム!」」


 唱えた直後、翳した手の前に半径五十センチメートルほどの魔法陣が現れる。昼間だからあまりよく見えなかったが、それは青色に光り輝いていた。轟音を出しながら、猛獣へと向かっていく火炎流。それはさながら獲物を追いかける蛇のようであった。


 それは猛獣に当たり、焔が少しずつ全身へと広がっていく。その間にも、ダメ押しと言わんばかりに火炎は注がれ続ける。猛獣は仰向けになり、手足をばたつかせながら暴れ続けた。


 ……何十秒経っただろうか。それはしばらく悶え苦しんだのち、糸の切れたマリオネットのように、動かなくなった。そしてそれは、強い光を発しながら、その場から消滅した。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 緊張が解けて、思わず尻もちをつく僕。


「やれたわね」


 傍らの魔導書が呟く。すると、今度はリリスが光を放ち始めた。光を帯びたシルエットが魔導書から人型へと変形していく。するとそこには、鮮やかな緋色の眼、灰色のさらりとした長い髪、雪のような白い肌を持つ少女が、佇んでいた。


「君はいった……い…………」


 僕の意識が段々と遠のいていく。気を失う直前に見たのは、心配そうな顔をしながら僕を気遣うその少女だった。

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