第2話『仮初の契約Ⅱ』
「どこへ向かうの?」
「廃ビル。昔スーパーだった場所。とにかく逃げないと」
全速力で自転車を漕ぎながらリリスに応答する。少し息が切れてきたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「あの魔獣はあなたの魔力を食らおうとしているの。多分私と接触してからオーラが強くなったせいだわ。狙われるのも仕方ないわね」
「ほんと迷惑な奴だなお前」
「とにかく今は逃げ切ることを考えた方がいいんじゃない?」
「言われなくてもそうするよ!」
彼女の脳天気な物言いに、僕は声を荒らげた。
なるべく距離を離す為、死に物狂いで漕ぎつづける。十分くらい経った頃だろうか、僕はやっとこさそこへと辿り着いた。その時にはもう、僕は肩で息をする程に困憊していた。
――地元で有名な、お化けビル。
郊外にそびえ立つサビだらけのその不気味な様相はお化けビルの名前にふさわしく、秘密基地として中に入り込む小学生が後を絶たなかった為、ある時から入口がシャッターで閉鎖された。
元は小さなスーパーだったらしいが、今の様相から、『ハイカラ』だった当時の様相を想像することは、不可能に近い。
僕は後ろを確認して、先ほどの猛獣がまだ目視出来ないことを確認する。そして脇に自転車を止めて、その横でコンクリートの外壁に寄り掛かり、息を調えた。
「あの魔獣、凄いスピードでこちらに近付いてるわよ」
「わかるのか?」
「感覚で分かるの。体内の魔力が呼応するからね」
「……急いで中に入らないと」
このビルは幼稚園時代によく悪戯で入り込んでいたのだが、今は
しかしながら、朽ちた錆びだらけの階段を伝った先にある、二階の裏口からなら、侵入可能だ。
ただその階段はところどころ抜け落ちている上に、階段から下が見えてしまうので、相当な覚悟が必要になる。
「かなり不安定だけど、中に入る為には登るしかないか……」
「ねぇ、何故そこまでしてここに入り込もうとしてるの?」
「ここしか僕の眼を使える場所が無いんだ」
「眼……?」
姿は見えずとも、声色から、僕の言葉を聞いてきょとんとしている様子は容易に想像がついた。
「何のことか知らないけど、とにかく他の場所を探しましょう!」
「駄目だ。出来るだけ暗い場所でやらないと」
「…………」
表情は読めないまでも、僕の頑固な意志に押されたのか、黙りこくるリリス。
「さて――」
「待って」
話を真剣に聞いて欲しかったのだろうか、これまでで最もひたむきな声音で話し掛けてきた。
「なんだよ」
「あなたに何の力があるのか知らないけど、私と契約すればあんな魔獣すぐに倒せるわよ。悪いことは言わない、契約した方が良い」
「…………」
僕は黙り込んで、少しの間、どうしようかと考えた。
「……ごめん。出来れば、そういう怪しい契約はしたくない。もう他に逃げる場所は無いだろ? それにここくらいだよ、僕が誰にも迷惑かけずにあの猛獣を倒せる場所」
「……は?」
「それに、悪魔か何かだったら困るしな」
「悪魔? 悪魔ですって……? もういいわよ! 勝手にしなさい! あの魔獣、猛スピードでこっちに近付いてきてるわよ!」
「狼だしな。距離は?」
「天空の
突然リリスが変なことを言い出すので何かと思ったが、どうやらお得意の魔法らしい。
「やっぱりフィールド外だと使えるか……」
「──それで、距離は?」
「あと二キロくらい! 速さからして一分強で遭遇するわよ!」
一分強か。僕は目の前の錆びた階段を数秒間注視した。
今から自分がしようとしていることに多少の恐怖を覚え、動悸が激しくなる。
念のため、保険としてリリスを胸に忍ばせた。
「……登るぞ」
「はいはい、十分に気を付けなさいね! ちなみにあと一・八キロメートルだから!」
慎重に、慎重に。僕は全神経を足に集中させた。
一段踏み締める度に、ミシミシと、金属の軋む音が聞こえてくる。中には斜めになってしまった段もあり、落ちるといけないので、手すりを掴みながら二段跳びで跳び上がる。
あと六段、あと五段……。一歩一歩を踏みしめながら上がる。
冷や汗が、階段の遥か下の地面へと滴り落ちた。
「あと一・六キロメートル!」
軋む階段。踏み締める足。更に軋む階段。
あと四段、あと三段、あと――。
その瞬間。
階段を踏み締めたはずの足は、突然、宙に投げ出された。
視界ががくんと揺れる。
抜け落ちた。
階段が……抜け落ちた。
咄嗟に足を前に踏み出したが、もう少しのところで届かない。身体がうまく、動かない。
僕は死に物狂いで手すりの下部に掴まり、一命を取り留めた。地面に魔導書――リリス――が落下した。
肩が上下し、大量のアドレナリンが全身を駆け巡る。
生きてる! 生きてる! 生きてる……!
僕はひたすら
「章!? 章!? 大丈夫!?」
「大丈夫……なんとか」
「もう時間が無いわ! 私のことはいいから早く避難して!」
リリスを拾いに戻りたいが、着地するわけにもいかない。仮に手を離したとしてこの高さなら足を折ってアウト。その後、ゆっくりと確実に
……どうする? いっそ死ぬなら、この目の前の階段の板の強度が持つことに賭けてみるか?
僕は手すりをしっかりと持ち、懸垂のように一段下へ移動して、手を階段の奥側に引っかけ、完全に体重を預けた。やり場のない足が、空中で空しく宙を移ろう。引っかけた手を支えにして、這いずる様にして段の上に身体を持ち上げる。そして手すりに掴まりながら、なんとか這い上がることに成功した。
もう腕が動かない。まさか階段の強度が持つとは思わなかった。この段だけ錆びが進行していなかったのかもしれない。
けれど、もう身体が限界だ。死ぬんじゃないか、僕。
「章! 急いで! 早く!」
リリスの声に勇気づけられ、段々と生命力が湧き上がる。
あの猛獣が駆けてくる音が聞こえた。
もう、戻れない。
僕はためらいを消した。
「お前本当に大丈夫なのか? 噛み千切られたりしないよな?」
「大丈夫だから!」
「わかった! 後で文句言うなよ」
よろめいた身体を手と足で必死に支え、階段を登り切る。
疲れからか、視界全体がどこか暗く感じた。
──そして僕は、昔無理矢理鍵を壊したドアノブを回し、
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