第1話『仮初の契約Ⅰ』

 身支度をし、上着を厚めに着て、自転車に乗る。吐く息が白い。向かう場所は、無駄に広い敷地の中にこじんまりと佇んでいる、地元の古びた図書館だ。


 それほど家から遠いわけでもなく、急いでいるわけでもなかったので、僕は、冬独特の澄み渡った空気の爽やかさを、身体全体で味わいながら、ゆっくりと自転車を走らせた。


 途中、赤信号で自転車を止め、空を仰いだ。一面が雲に覆われている。

 ふと頬に、小さな氷の結晶が降りてきた。


「雪だ……」


 僕は冬生まれということもあり、麗らかな純白の雪と、冬独特の明るい曇り空が大好きだった。


 *


 図書館の前にある、小石の敷き詰められた駐輪場へと自転車を置く。

 そして中に入ると、ふわっとした柔らかな暖気が、身体全体を包み込んだ。


 司書さんと軽く挨拶を交わし、まずは借りていた本を返却する。休みに入ってから幾度も通り抜けた通路をするすると歩いていくと、ものの数秒で目的のSF作品が置いてある一角に辿り着いてみせた。


 さてどれを借りようかと悩んでいると、何やら右の視界に違和感を感じ、思わずそちらへ目をやった。すると、整然と収まっている本の中に、弱々しく光を放つものがある。思わず自分の目を疑い、目を擦っては何度も凝視した。やはり微弱ながらもその本は光を放っている。


 なんだこれは? 夢でも見ているのか?

 僕はまず、自らの目を疑った。


 “それ”に近付き、外見を注意深く観察すると、ほんの軽い気持ちで……僕は手を伸ばした。

 すると、その本に触れた瞬間、不思議な声が脳内に響き渡った。


「――聞こえる?」

「……え?」


 辺りを見渡したが、周りには誰も居ない。遠くで司書さんがコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるだけだ。周りにはただ、まるでこの体験が虚構であるとでも言いたげな、何の変哲もない光景が広がっている。


「気のせいか……?」


 目の前で起こっている超常現象に、僕は思わず身構えた。部屋を満たす空気が、生ぬるく不快に感じられた。


「その様子だと、聞こえてるみたいね」


 なんだ? 僕は一体何処から話しかけられている……?

 僕はきょろきょろと辺りを見回したが、やはり何も異常は見られない。強いて見られるとすれば、僕の耳にだろう。


「目の前に居るわよ」


 目の前といっても、あるのはただの本棚だけ。さらに手前となると、今まさに手に持っている本しかないわけだけども。


「まさか、いや、まさかな。“これ”なわけがないよな」

「『これ』呼ばわりは流石にないんじゃない?」

「……は?」


 本が喋るという驚きの光景を目の前にして、段々と血の気が引いていく僕。


「私には『リリス』っていう名前があるの。ちゃんと名前で呼びなさいよ」


 本当に『この本』が……?

 口を開けて、目を見開いて、呆然と立ち尽くす。現実離れした目の前の出来事に対しあまりに驚き、僕にはすっかり周りの音が聞こえなくなってしまっていた。


 ――十数秒が過ぎた頃だろうか。

 僕は彼女の声に応じてみることにした。


「そんなこと言われても、困るんだけど」

「ほら、私が自己紹介したんだから、あなたも名乗ってくれないと困るわ」


 何だかやたら高飛車な奴だなと思い、僕は少しだけ苛立ちを覚えた。それでも、目の前で起きている怪奇現象を少しでも前に進めたいが為に、一応名乗ってみる。


能源のうげんあきらだよ。これで満足か?」

「そう。よろしくね、章」


 本と互いに自己紹介って、なんだこの状況?

 僕は今現在体験しているわけのわからない出来事を前に、段々と混乱を覚え始める。

 そして、その混乱をどうにかする為に、僕は彼女に次々と質問を投げかけた。


「それで? 本に名前があるなんて不思議なことがあるもんだな」

「私は天から使わされた者の一人だからね。名前くらいあるわよ」


 あまりに突拍子のない答えに、しばらく茫然自失となる僕。

 どこから突っ込めばいいんだ……?


「やっぱり流石に驚くわよね。生ける魔導書って言っても差し支えないのだけれど」

「はぁ。それはどういう喩えなんだ?」

「いや、そのままの意味よ」

「…………」

「…………」


 互いの認識のすれ違いが続き、思わず双方が黙りこくる。

少し気まずい空気が流れる。

 何を言ってるんだこいつは……?


 周りからは空調の音しかしない。

 いっそのことこの気まずい空気を喚起してもらえないだろうか。


 その後十数秒かけて、僕は気持ちを切り替えた。

 とりあえずこの状況に対する情報を集める為に、本なんだから中を読んでみよう。

 そう思い、僕はのページを開こうとした。しかし、いくら頑張っても、微塵も開けることが出来ない。


「いきなり開くなんて、レディに対する態度がなってないんじゃない?」


 自称レディの本が何かを言っているようだ。相変わらずイライラさせるのが得意な奴だな。


「そういえば一つ大事なことを言い忘れていたのだけど」

「何だよ」

「私の声、他の人には聞こえないから」

「……は?」


 はっとして、あたりを見回す僕。司書さんがこちらを訝しげに覗き込んでいたが、僕と目が合うと、しれっと目を逸らした。


「すぐにこの場を離れるべきではないかしら?」

「元はと言えばお前が……! いや、これじゃらちがあかないか。仕方ない……」


 リリスを本棚に返して立ち去ろうとする僕。


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」

「よくよく考えたら本が喋るわけないしな」

「待って!」

「今日はどのシリーズを借りて帰ろうかなー」

「今日を逃すと大変なことになるんだから!」

「あれは目の錯覚だったのかなー」

「ストップストップスト――」


 リリスのもとへ駆け足で駆け戻る僕。


「冗談」

「……悪いけど地獄に落ちてくれない?」

「ごめん、ごめん」


 さて、気を取り直して、と。この喋る本を持ち帰るにしても、普通に司書さんに見せていいものか。


「リリス、お前をどうやって持ち帰るか検討中なんだが、司書さんに見せて持ち帰れるのか?」


 リリスを口に近付け、小声で話しかける僕。


「は? そんなわけないじゃない」


 彼女の声色とその台詞からは、苛立ちが滲み出ている。あからさまにからかわれたんだから、そりゃそうなるか。


「とりあえず司書さんの死角に行ってコートの中に隠すか。とりあえずカムフラージュとして目的だったSF作品は一応借りてくとして――」

「司書さんにはもう見られてるわよ? レディに対する扱いがなってないんじゃない?」


 自業自得と分かっているものの、ここまで切り込まれるのは、非常に面倒くさい。

 僕は思わず、強めの口調で彼女を抑えた。


「お願いだから黙れ」

「は? 元はといえばあなたが――」

「お願いだから、黙れ」

「…………」


 よしよし、なんてな。


 *


 僕はその任務──リリスを持ち出すこと──を無事遂行すると、足早に図書館を出た。


 あーあ、持ち出してきちゃったよ。もう取り返し付かないぞ。これ、下手したら盗難なんじゃないか……?


 僕は盗みのようなことをした後ろめたさからか、周りの様子がやたらと気になり、きょろきょろと辺りを見渡し、注意を向けた。


「後のことなら安心していいわよ。あの図書館に所蔵されていた本じゃないから、足はつかない」

「そういう問題じゃな――」


 図書館の裏、駐輪場とは反対側の、物陰から漂ってきた異様なまでの瘴気しょうきに気を取られ、思わず言葉を切る。


「なんだ……?」


 周囲が不穏な空気に満たされていく。そして、“それ”は黒いオーラとともに、ゆっくりとその荘厳な姿を、物陰からあらわにした。


「なんだこいつ……なんだこいつ……!?」


 暗黒のオーラをその身に纏った、身の丈を優に超す大きさの化け物。その影は狼のそれに似ている。空腹の絶頂で獲物を目の前にした喜びからなのか、口からは大量のよだれがしたたっている。その圧倒的な威圧感に、本能的に足が竦んだ。


 生命の危機を感じ、足に力が入らなくなる。そしてそのまま膝から崩れ落ち、コートの内側にしまってあった魔導書――リリスが転がり落ちた。


あきら……!」


 その猛獣は、まるで退路を断たれた獲物を弄ぶかのように、ゆっくりと、こちらに接近してきた。


 二メートル。

 ――一メートル五十センチ。

 ――――一メートル。

 ――――――眼前三十センチ。


 “そいつ”の鼻息を肌で感じるほどの距離。

 僕は死を覚悟した。


 が、まさにその瞬間、轟音と共に稲妻が眼前の絶妙な距離を一閃する。その衝撃で、地ならしが辺りに発生した。あまりに強いその閃光に、しばらく目が眩む。


 何が起こったのか理解が追い付かず、しばらく茫然とへたりこむ僕。


 やがて視界が開けてくると同時に、意識がはっきりしてくると、目の前で身丈ほどもある“そいつ”が痺れ、ぐったりと倒れ込んでいるのがわかった。


 サエカさん……?


 姿は見えなくても、僕は直感で、天から彼女が助けてくれたのではないかと感じた。


「今の……何なの……?」


 一方リリスは目の前で起きた出来事に困惑しているようだった。

 説明してもいいのだが、その余裕がない上に、自分の考えていることに確証が無いので、話しても仕方がないと思った。


 雲が開き始め、淡い日差しが差し込み始める。すると空に、天使の梯子がかかった。

 僕は天空そらを見上げ、目を瞑って手を組む。


「この魔獣はまだ復活する! すぐにこの場から離れましょう!」

「分かった!」


 僕はリリスを拾い、自転車の籠に乗せると、全速力で郊外の方へと漕ぎ始めた。

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