百合の雫は赤い世界に落ちて

みたよーき

百合の雫は赤い世界に落ちて

 私、赤井璃理は、クラスメイトの秋川雫に憧れている。



 彼女は、私の理想とする女性像を体現する存在だ。


 何かがずば抜けているわけではない。だが、決して凡庸でもない。



 彼女を美人と評する男は6割にも満たないかも知れない。同じように、可愛いと評する男も6割前後。


 だが、それら集合の共通部分の割合は思いの外低い。つまり、合わせれば多くの男から好意的に見られると言うことだ。



 勉強も、特別優れた成績を残すわけではない。


 だが、テストでは各教科70点を下回ることはなく、殆どが80点以上だ。


(後に、そう指摘した私に彼女は、英語はギリギリで70点なんだけどね、と、可愛くはにかんで言うのだ)



 運動も、そつなくこなす。


 ただ、水泳だけはあまり得意ではないらしく、25メートルを泳ぎ切ったことを無邪気に喜んでいた。


 だが、そういった弱点のようなものがある事は、彼女にとってはむしろプラスに働いているように思える。



 他にも、その姿勢、その声、その生活態度――、このように、表面的なものだけ見ても、彼女に有って私には無いものは枚挙に暇が無い。



 翻って、私だ。



 決して不細工ではない、と自分では評価している。


 だが、つり目がちなせいでキツい印象を与えるらしく(物言いがキツいのも良くないのだろうが)、異性からすり寄られたことはない。


 ただ、それは自分にとって悪いことではない。むしろ、ありがたいとさえ言える。


 以前から異性を意識したことはないが、最近は頓に男というものを悪い意味で意識してしまうから。


 きっと原因は、父親に対して感じる不快感とも違う、あの形容しがたい嫌悪感だ。


 どちらも不愉快に変わりないが、どちらも思春期を過ぎれば変わるのだろうか?


 今の私にはそうは思えないが、そうなるのかも知れないし、そうならないのかも知れない。



 閑話休題。



 勉学に関しても、私はムラがある。


 数学や物理と言った、いわゆる理数系は得意分野だが、周期表の暗記のような部分は苦手だ。


 同様に、社会などのような、ただ覚えるだけという要素の強い(少なくとも自分にとってはそう感じられる)分野では赤点を回避するのがやっとという有様だ。



 運動も、そう。


 足は速い。


 だが、それだけだ。


 何故か、球技はおろか、鉄棒のような単純なものでさえ、道具を使うとなるとまるでダメになる。



 こんな私だから、秋川さんに憧れてしまうのも仕方ないと思う。



 ――そして、彼女に憧れているからこそ、今の状況に、尋常ではない戸惑いを覚えているのだ。



 二人きりの、社会科準備室。


 窓の外からの光が室内を暖色に染め上げている。



 日直の私と彼女で与えられた仕事を済ませて、さあ帰ろうかと振り返った私の目の前に、じっと私を見つめ、秋川雫が佇んでいる。


 そして彼女は、躊躇いがちに口を開き、一度私ときちんと話してみたかった、と言った。



 去年、細かい経緯は覚えていないけれど、課外授業の時に、教師に対して堂々と苦言を呈して見せた、私の姿が強く印象に残っているのだという(そのせいで、他の細かい事は記憶から飛んだのかもね、と言って彼女は笑った)。


 周りの人はそんな私を好意的に見ていなかったようだけれど、少なくとも彼女にとっては、その時の私が輝いて見えたそうだ。


 それ以来、私の事が気になりつつも、いや、意識していたからこそか、彼女の(私から見たら)ずば抜けて高い社交スキルを持ってしても、私に上手く話しかける事が出来なかったのだという。



 何だそれは、と思う。


 それではまるで、恋する乙女じゃないか(とくん)。


 でもそれは、私の中の密かな願望が自分にそう思わせただけ。


 彼女がそんな気持ちを持っているわけじゃない。


 ――そう自分に言い聞かせたのも束の間。



 彼女は、そっと右手を、私の頬へ添える。


 その目は潤み。


 頬は心なしか上気して。


 そのまま、距離が近づく――。



 これは、いけない。


 これ以上はダメだ。


 私の気持ちは、憧れじゃないといけないから。



 だって私は、彼女に好きになってもらえるような人間じゃない。


 感情的になりやすく、その振れ幅も大きい。


 いつも穏やかに見える彼女とは大違いだ。


 私は、そんな自分が嫌いだから、彼女に好かれる自信が無い。


 でもそれ以上に、そんな私だから、感情的に、衝動的に、彼女を傷つけてしまう事が、恐い。



 そして、私の本当の気持ちは、醜いから。


 だってきっと、私がその気持ちを彼女に向けてしまう事は、男子たちが、私が大嫌いな、欲望を湛えた視線を、彼女に向けるのとそう大差ない。


 そんな醜い私を、彼女に知られてしまう事が、とても恐い。



 ――だからこれ以上は、ダメなのに(とくん、とくん)。



 彼女の顔が近付くほど、否応なしに私の心が裸にされる。


 私が、“あこがれ”という言葉でごまかしていた気持ちが、“憧れ”じゃなくて“愛恋あこがれ”だって暴かれて、もう、ごまかせなくなる。



 女の子同士だから。


 そんな言葉も、もう、何の意味も無いほどに、私の気持ちはハッキリとしてしまう。



 ああ、こうなってしまってはもう、諦めなければいけない。


 私が自分の気持ちを偽る事を、諦めなければいけない。


 そう思ったときにはもう、その諦めは完了していて。



 私は、そっと、(どくん、どくん)目を閉じる――。



 期待と、恐怖は、触れた柔らかさに吹き飛んで。


 膝が、腰が、ピリピリと、痺れたように、力が抜けそうになる。


 なのに体中はガチガチに緊張して、私はされるがままに、ただそこに。



 そして、何かに驚いたように、弾かれるように彼女が離れる。


 そして彼女は、ごめんなさい、と言った。



 その言葉に、私の頭の中は疑問や、怒りや、戸惑いや、寂寥が吹き荒れて。


 だけどすぐ、私は自分が涙を流している事に気付き、彼女の言葉の意味を推し量る。



 だから私は彼女の手を掴んで、言葉を絞り出した。



 ――人は、嬉しいときも、泣くんだよ。だから――。



 それ以上は言葉にならず、交わる吐息に、溶けて消えた。


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