メロン

あべせい

メロン

 


「もしもし」

 歩道の植え込みの前にエプロン姿でしゃがみこみ、草取りをしている婦人に、通りかかった男が声を掛けた。

「エッ?」

 婦人が背後を振り返り、男を見上げる。

 男はスーツを着て、薄い鞄を脇に挟んでいる。30才前後のいい男だ。

「あなた、どなたですか?」

「わたし、私は、役所から来ました」

「お役所、ですか」

 婦人は立ちあがり、エプロンのゴミを振り払いながら、

「どこかでお会いしたような……」

 独り言を言いながら、男の背後を見つめる。

 歩道の前には大きな屋敷が建っていて、キャスター付きの頑丈そうな鉄柵が訪問者を拒んでいる。婦人はその屋敷の住人らしい。

「すいません。わたし、仕事がありますので……」

 婦人は30代前半、ぽっちゃりタイプの美形だ。

 屋敷に戻りかけた婦人を、男が呼びとめる。

「奥さん」

「はァ?」

 婦人は立ち止まり、男を警戒するように振り返る。

「何でしょうか」

「エプロンの、ポケットの中の物を出してください」

「エッ!?」

 婦人の顔がみるみる、赤く染まる。

 エプロンの下のほうにある大きなポケットに両手を入れ、中の物を掴んでいる。

「それは、役所の物です。お預かりします」

 婦人はポケットに手を入れたまま、後ずさりを始めた。

「これは、ダメ、ダメです。これは……」

 歩道幅は約2メートル。歩道から、間口4間ほどの屋敷の門まで6、7メートルある。

「奥さんが歩道の植え込みで、ジャガイモ、ナス、トマト、イチゴを栽培なさっていることは知っています。イチゴまではしょうがないと思っていました。しかし、メロンはダメです。市民感情が許しません」

 歩道には約50センチ×200センチの植え込みが等間隔にあり、その広い屋敷の門と塀の前に、4つの植え込みが並ぶ。

 他の植え込みには市の条例でサツキが植えられているが、その屋敷の前の4つの植え込みには、さまざまな野菜が形よく栽培されている。

「でも、わたしが苗を植え、必要なだけ水と肥料をやり、定期的に草取りをしているンです。それが罪ですか?」

「この植え込みは、公共の財産です。奥さんはそれを私物化している。こんな大きなお屋敷なンですから、メロンを作るくらいなら、いくらでも場所はあるでしょう……」

 男は、目の前の屋敷を見渡すようにして話す。

「いったい、何が不足なンですか?」

 通行人が足を止める。その足の数が瞬く間にふえる。

「他人目(ひとめ)がございます。どうぞ、中にお入りください」

 婦人は、男を案内して、門の脇の潜り戸を押し開いた。


 屋敷の中には、建売住宅4軒分ほどの二階建て純和風の木造家屋がある。1階居間の縁側の前には、錦鯉が群れをなして泳ぐ、20畳ほどの池が掘られている。

 婦人と男は、その池を巡る小道をゆっくりした足取りで歩いている。

「芽衣子さん、でしたね」

「はい」

「芽衣子さん、この立派なお屋敷が抵当に入っているのですか。ご主人はお亡くなりになって、借金だけが残った。来月には、競売にかけられる。その話を信じろとおっしゃるンですか?」

「穂頭(ほがしら)さん、信じるも信じないも、その通りなのですから」

「芽衣子さん、この池をご覧なさい。ここに群れている、まるまると太った錦鯉は、どう安くみても、1匹50万円はします」

「あなた、鯉がおわかりですか?」

「金目のものなら、なんでも興味がありますから、研究しています。鯉はざっと数えても30数匹。少なく見積もっても、全部で1500万円」

「この鯉は抵当には入っていませんが、明日業者が引き取りにきます」

「芽衣子さん、その取り引きはあなたがされる。この屋敷の奥さまでもないあなたが。あなた、こちらの家政婦とおっしゃいましたよね?」

「この大城家の遠い親戚で、学校を出てぶらぶらしていたら、『ちょっと手伝って欲しいらしいよ』と父に言われて、数ヵ月のつもりで来たのですが、気がついたら6年たっていました」

「ということは、居心地がよかったということですか。大城家のご家族は、半年前に亡くなられたご主人のほかには?」

「いま、八王子のほうの老人ホームにおられる奥さまの菜実さん、お子さまは大学を卒業後、『東南アジアを旅してくる』とおっしゃって、ふらッと出かけられた果至央(かしお)さま、おひとりです」

「その果至央さんから、連絡は?」

「わたしがこちらにうかがって2年ほどは、ときどき葉書が来ていたようですが、最近は全く連絡がありません」

「生死は不明?」

「そういうことになります。でも、お体の丈夫な方だそうですから、近いうちに、ひょっこり帰って来られるのじゃないでしょうか」

「ずいぶん呑気ですね」

 穂頭の嫌味は通じなかった。

「あの方はそういう人なンです」

 芽衣子は、エプロンのポケットから、何かを取り出すと、池に投げた。鯉の餌らしい。鯉が一斉に集まり、争ってパクつく。

「明日、鯉の業者が引き取りに来るとおっしゃいましたね」

「それが?……」

 芽衣子は、「それが、どうした」と言いたげに険しい表情を作った。

「鯉を売ったお金はどうなさるンですか?」

「銀行口座に振り込まれることになっています」

「奥さまの?」

「当然でしょッ」

 芽衣子の声が一段、高くなった。

「こちらの家計はどうなさっているンですか?」

「穂頭さん」

 芽衣子はそう言って、もらった名刺を取り出し、それに目をやると、

「さきほどいただいたお名刺では、穂頭さんは、市の道路整備課となっています。税に関係する方でもないあなたに、そこまでお話する必要がございますか?」

 穂頭は、ひるむどころか、内心ほくそ笑んだ。

「私、実は来月の異動で、住民税課に移るよう内示が出ているのです。それで、お差し支えなければ、と思いまして。もっとも、きょうは単なる個人的な関心からですが」

 芽衣子は、警戒心を露わにした。

「わたしは家政婦ですが、ご長男の消息がございません。ですから、認知症が進行している奥さまの、成年後見人を務めさせていただいております」

 穂頭は、うんうんと自分に言い聞かせるように、納得したしぐさをみせる。

「それは、まことに賢明なご対応だと考えます。ということは、奥さまの預貯金もすべて、あなたが管理なさっておられる」

「ですが、さきにも申しましたように、ご主人は大豆相場で大損して、屋敷をはじめ主だった不動産はすべて抵当にとられているのです。奥さま名義のものは、ほんのわずかです」

「ご主人の遺産を相続する権利は放棄なさったということでしょうか?」

「そう理解していただいてけっこうです」

 穂頭は、わざとらしく首をひねった。

「しかし、相続放棄の手続きは、まだすませておられない。そうでしょう?」

 芽衣子の美しい顔が、醜く歪んだ。

「奥さまのお加減がすぐれません。それで、手続きが遅くなっているのです」

「しかし、あと1週間で、相続放棄ができなくなる期限が来ます。3ヵ月近くも、奥さまとご相談する機会がなかったということになります。それとも、3ヵ月の猶予期間をやり過ごし、相続の単純承認を狙っておられる?」

「穂頭さん!」

 芽衣子は、エプロンのポケットを裏返して中にあった鯉の餌を、勢いよく全部池にぶちまけた。

 鯉が、何匹も口をパクパクさせて飛びつき、池が大きく波立った。

 穂頭は、からみつくように話す。

「へたに相続放棄なンかすると、係累をたどって、相続権を主張する人間が現れないとも限らない。こんな時代ですから借金が多くても、資産と相殺して、例え数十万円でも手元に残ればいいと考える人間は、ゴマンといますから」

 芽衣子が言い返す。

「ご主人の借金がいくらだったかご存知ですか。3億、3億円ですよ!」

 芽衣子の懸命の主張も、穂頭には通じない。

「こちらの資産は3億くらいじゃ、ビクともしない。確かに表向きは、この屋敷とアパート1棟分で、2億円程度かもしれない。しかし、隠し資産がかなり眠っているとお聞きしています」

 芽衣子の表情から、なぜか緊張感がほぐれていく。

 穂頭は得意然として続ける。

「それに、相続放棄をすると言っておけば、債権者は少しでも貸し金を取り立てようと、債権額を低くして返済をもちかけると聞いています。現に、大豆相場の取引会社が、3億円の債権のうち1億円の減額を申し出ているのじゃないですか」

「あなた、本当にお役所の方ですか?」

 穂頭は、問いには答えず、

「この池の鯉がいい例です。あなたは、競売にかけられるこの屋敷の錦鯉を無断で処分しようとしている。成年後見人であるあなたが、奥さまの資産を少しでも守ろうとして奮闘なさっていることの1つなのだと理解できますが、売却するのは鯉だけではないでしょう」

 芽衣子は黙った。無言で穂頭を見つめる。唇が艶やかだ。

「このお屋敷には、この辺りでは珍しい蔵があります。元々、大城家はこの一帯の名主で蔵は築2百年、リフォームして壁も白く塗りなおされています。あの蔵の中には、書画骨董の類いが眠っている。しかし、いまあるのは、時価数万円のガラクタばかり。1点、数百万円は下らない価値のあるものは、すでに腕利きの骨董商に買い取らせている。その総額は……」

「やめてください。穂頭さん……、うかがわなくてもけっこうです」

 芽衣子は弱々しい声で、話す。

「いろいろな事情から、奥さまのために、必要な処置をとらせていただいております。奥さまは現在、高級有料老人ホームにおられますが、日中は専門の介護ヘルパーがついているため、ホームの管理費を含めると毎月50万円以上の出費になります。そのお金を工面するには、それなりの工夫が必要なのです。奥さまは、まだ70才。これからの支出を考えますと、内密の不動産の処分も慎重に行わないといけないのです」

 芽衣子はそう言って、穂頭に一歩近寄った。

 2人の間は、20センチに接近した。

 背丈は、穂頭が5センチほど高い。穂頭は、まだ30代前半の、芽衣子の若い肉体を強く意識した。芽衣子は、穂頭の厚い胸板に、そっと頬を寄せて、ささやく。

「穂頭さん、果至央さんから連絡があったのでしょう?」

 芽衣子の耳に、穂頭の胸から、ドックンという心臓の大きな鼓動が伝わる。

「そうでないと、おかしいわ。果至央さんから、以前、手紙で、『ぼくの大学時代の友人に、役所に勤めている男がいる。役所の手続きで困ったことがあったら、相談すればいい』と書いてきたことがあるの。もう1年以上も前のことだけれど。半年前にご主人が亡くなられたことは、すぐに果至央さんにもお知らせしたのよ。最後の手紙が来た、バリ島のアパートに。でも、お帰りにならなかった。それで、わたしが奥さまの成年後見人になって……わかってくださる、でしょう?……」

 穂頭は体が熱くなるのを感じる。

 美女が、おれの胸にすがりついている。女性から、こんなことをされたことはない。

 穂頭は、両腕を芽衣子の背中に回し、抱きしめたい衝動に駆られる。

「果至央からエアメールが届きました」

「エッ、いつ?」

 芽衣子が、穂頭の胸から顔を離して仰ぎ見た。しかし、余り驚いてはいない。

「今朝です」

「どんな?」

 穂頭は、ズボンのポケットにねじこんでいたエアメールを出した。

 2人の間に1メートル弱の距離ができる。

 芽衣子は、封筒の中から手紙をとりだすと、目を通す。

 それには、

「お元気ですか。親爺が死んだことは知っている。しかし、その後、あの屋敷がどうなったのか、一切連絡がない。屋敷には、遠縁の娘が家政婦として入っていると聞いているが、どうも心もとない。おれはいま、金銭的に困っている。こちらで立ち上げたコーヒー農園の事業が、資金不足で行き詰まっている。早急に1千万円を送って欲しい。お礼は十分するから……」

 芽衣子は、読み終えるとその手紙を、ワンピースの豊かな胸の谷間にすべりこませた。

「それは……」

 穂頭は、手紙が消えた一点を見て、一瞬、冷静な判断ができなくなった。

 いったい、この先、どうなるのか。

「芽衣子さん、果至央のエアメールの差出国は、インドネシアです。住所も、昨年と変わっていません。果至央に電話をして、相談なさっては、いかがですか?」

「穂頭さん……」

 芽衣子が再び、にじり寄る。こんどは顔を正面に向け、じっと穂頭の目を見つめる。

「はい……」

 穂頭には、どう対応していいのかわからなくなっている。

「あなた、果至央さんが、奥さまのためになることをなさるとお考えですか? そうではないでしょう。果至央さんは、お帰りになったとしても、きっと、奥さまの資産のすべてをもって、再び国外に脱出なさるおつもりです。そうなったとき、奥さまのお世話は、どうなるのですか? あなた、ご結婚は?」

 穂頭は、芽衣子のベットリと濡れているような唇に引きつけられる。ノドの乾きを強く覚えた。

「ひとり身です」

「わたしも、ひとりです。奥さまを支えるには、さきほども申しましたように、莫大な費用がかかります。果至央さんに資産管理を任せることは、奥さまの死を早めることになります」

 穂頭も、そう思う。果至央のような道楽息子の言いなりになってはいけない。

「穂頭さん、わたしを手伝ったくださるおつもりは?……」

 芽衣子が、穂頭の両手を掴み、自分の胸に引き寄せる。

「わたしと奥さまを、助けていただけないのですか?」

 穂頭は、芽衣子の手を強く握り返すと、決意した。

「芽衣子さん、やります。果至央が何を言ってきても、手出しをさせるものじゃない」

「穂頭さん。わたし……」

 芽衣子は目を閉じ、唇をこころもち、突き出す。

 穂頭は、芽衣子の心を十分に理解したと考え、両手を彼女の背中に回す。

 と、突然、芽衣子は気がついたように、華やいだ声で、

「そうだわ。心が1つになった記念に、さきほどのメロンをいただきましょうよ。それがいい。こっちにいらっして……」

 芽衣子は穂頭の手を取ると、若い娘のようにはしゃいで、縁側から居間に入った。

 数分後、芽衣子はメロンを8つに切り、スプーンを添えて、穂頭が待つ座卓に置き、彼の真向かいに坐った。

「いただきましょう。おいしいのよ。これ。実がついてからはビニールをかぶせたり、外したりして。温度や水の調節がけっこう難しくて……しない人にはわからないでしょうね。こんな苦労は……」

 穂頭は、勧められるままに、メロンを口に入れた。

 うまい、甘くて。歩道の植え込みでどうしてこんなにうまいメロンができるのか。いくら日当たりがいいとはいえ、信じられない。

「芽衣子さん、おいしいです」

「それはよかった。穂頭さんはお役所にお勤めだから、ご存知でしょう。こんなに大きなお屋敷に、高齢のご夫婦だけがおすまいで、しかも、こどもや親戚が余りない。もし、ご夫婦が亡くなれば、遺産は国庫に没収されるというお屋敷が、全国各地を探せば、それなりにあることを……」

「エッ……」

 穂頭の口から、食べかけメロンのかけらがポロリと転がり出た。

「芽衣子さんは、こちらのご主人の遠縁の方では?」

「あなた、なに寝ぼけたことを言っているの。ひとは、アダムとイブから生まれたのよ。ということはこの世の中の男女は、すべてつながっている。それでなくても、この狭い日本に住む人たちは、それぞれの血脈を辿れば、どこかでくっつくはず。だから、遠縁には間違いないでしょう」

「そりゃ、そうでしょうが……」

「この仕事は、このお屋敷が初めてだけれど、探索チームが次のお屋敷の見当はつけているわ」

「こんなことをほかでもやるということですか? そうだッ」

「なに?」

「果至央から、近いうちに一度帰国すると電話がありました」

「いつ?」

「4、5日ほど前です」

「そう」

 芽衣子は少しも慌てない。

「あなたにはまだ言ってなかったけれど、果至央さんはもうこの世にいないの。こういうお仕事は、秘密が大切でしょう。だから、仲間が処分したわ。その電話の後かな」

「エッ! 今朝私に届いたエアメールは?」

「ばかね、アリバイ工作に決まっているじゃない。果至央は、世界のどこかで生きている、って」

「そんな、芽衣子さん……」

「芽衣子と呼んでくださって、いいのよ。わたしたち、もう仲間なンだから」

「仲間!?」

「あなた、いまいただいたでしょ。メロン。歩道の植え込みにできた、違法に育てたメロンを……」

「共犯だとおっしゃるのですか」

「当たり前じゃない」

 そのとき、廊下を乱暴に踏みしめる元気な足音が近づいてきた。

「あれは……」

 穂頭が聞き耳を立てる。

「果至央ね。但し、アリバイ工作をしている偽のね」

 和室の襖が開き、穂頭と同年齢の男が、穂頭の背後に現れる。

「いま、帰ったよ。芽衣子さんというのは?」

 芽衣子は、顔をあげ、

「ご苦労さま。あなたとは初対面よね。バリ島ではたいへんだったでしょ」

「たいへんだったよ。暴漢に襲われて。危く殺されかけた」

「エッ!」

「幸い、学生時代、海外生活に備えて空手を習っていたから、撃退することができた」

 穂頭が声に驚いて振り返る。

「おまえ、果至央! 生きていたのか」

「穂頭、久しぶり。暴漢は、ジャカルタの留置場に入っている」

 芽衣子が下唇をかみ、

「あのバカ、ヘマをしたのか」

「穂頭、その家政婦さんか。おれの資産を食い物にしようとしているのは……」

 芽衣子は、ガラリと、

「果至央さん、いま切ったばかりのおいしいメロンがあるの。一緒にいただかない? そのあと、2人だけでゆっくりお話しましょう」

               (了)

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メロン あべせい @abesei

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