この毒は誰の毒?
もちづき 裕
この毒は誰の毒?
ルーチェは何も持たない女の子。
何でも持っているのは妹のアンネッタ。
ルーチェのお友達も婚約者も、父も母も、祖父も祖母も、全て、全て、妹のアンネッタの方が大好き。だから、誰一人として姉のルーチェのことは見向きもしない。
「お前はなんて醜いんだ、妹のアンネッタは女神のように美しいというのに、何故、お前は妹に似なかったんだ?」
婚約者のランベルトは吐き捨てるようにして言うし、
「本当に、ルーチェはアンネッタとは全然違うね」
アンネッタの婚約者であるリヴィオは呆れたように言う。
「一体誰に似たのかしら?」
と言って、母は侮蔑の眼差しをルーチェに送るし、
「・・・・・」
父はそもそもルーチェを視界にも入れない。
主人の反応がそうであれば、使用人たちもそれに倣って同じような視線をルーチェに向けるようになる。
「お姉様は私とは違うのよ」
二つ年下のアンネッタは、まるで虫ケラでも見るような眼差しでルーチェを見ては、
「視界に入るのも嫌なんだけど、同じ場所で息を吸わないで!吐き気がする!」
と言い出すので、ルーチェはすぐさま外に放り出されることになるのだった。
皆んなから嫌われるルーチェは、ある時、執事に呼ばれて、父の執務室へと行くことになったのだ。執事はまるで罪人でも運ぶようにルーチェの腕を掴んで引きずると、執務室で待ち構えていた父は扉の前でルーチェを出迎えるなり、
「何故!可愛いアンネッタに毒を盛ったんだ!」
と、大声をあげたのだった。
すると侍女の一人が小瓶を掲げながらこちらの方へと向かって走りながら、
「ありました!毒が入っていると思われる小瓶がルーチェ様のお部屋にありました!」
と、大きな声をあげている。
「ルーチェ!貴様!」
ルーチェの胸ぐらを掴んだ父は、大きな手のひらをルーチェの顔目掛けて振り下ろす。ルーチェは持っていた木の棒を、太った父の腹目掛けて突き出した。
◇◇◇
「アンネッタ、愛してる」
「私も、ランベルト様のことを愛しているわ」
ランベルトは侯爵家の嫡男であり、ルーチェの婚約者でもあったのだが、ランベルトは自分の婚約者よりも、見目麗しい妹のアンネッタに夢中となっていた。
両親からも愛されたアンネッタは二人きりの姉妹のため、姉が侯爵家に嫁いだ後は、アンネッタが伯爵家を継ぐ予定でいる。そのため、入婿予定の伯爵家の次男、リヴィオがアンネッタの婚約者になっていた。
互いに婚約者はいるものの、障害がある方が恋は余計に燃え上がるというもの。そもそも、自分よりも格上となる侯爵家に、普段から見下している姉のルーチェが嫁ぐということ自体が気に食わない。
だったら、姉の代わりに自分が侯爵家に嫁げば良いではないかと思うだろうけれど、残った姉が伯爵家を継ぐということがまた気に食わない。
虫ケラのような姉は最後まで地面に這いつくばって、虫のように潰れて壊れて死ねば良い。姉に何か一つでも得になるようなことがあれば、ヒステリーを起こしたくなるアンネッタとしては、早々に姉を破滅に追いやってしまいたい。
「ランベルト様、私、最近とても怖いんです」
「何が怖いというんだい?君の憂いは全て僕が払って上げるから、何でも僕に言って欲しい」
「ランベルト様、お姉様が、ランベルト様と私の関係に気が付いているみたいなのです」
気が付いているもなにも、ランベルトは婚約者を訪問するために伯爵家を訪れているというのに、一度も顔を見せに行ったこともないし、堂々と妹のアンネッタと逢瀬を交わしているので、伯爵家にいる人間は、誰しも、アンネッタとランベルトの関係を知っている。
「最近、お姉さまに憎悪の目を向けられているんです」
ちなみに、アンネッタの視界に入らないようにするためにということで、ルーチェは物置小屋に追いやられている。そのため、妹の視界に入ることはまずない状況だと言えた。
「お姉さまの視線には殺意のようなものも感じるんです・・私・・怖い!」
そう言って震えながらアンネッタがランベルトの胸に縋り付くと、ランベルトはアンネッタを強く抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ、アンネッタ」
ランベルトはアンネッタと唇を重ねながら言い出した。
「君の憂いは全て僕が取り払ってあげる」
甘いキスをしながらランベルトは繰り返すように言い出した。
「全てだ、全ての憂いを払ってあげる」
とろりと蕩けた笑みを浮かべたアンネッタは、帰っていくランベルトを見送ると、次の日の朝、ピッチャーに注がれた水を飲んだ直後に、喉を掻きむしるように苦しみながら倒れ込んだ。
悲鳴をあげた専属侍女は、即座に人を呼び込んだ。緊急で呼び付けられた医師は、アンネッタの苦しみは毒によるものだと診断した。
その後、アンネッタの、
「お姉様が・・お姉様が・・」
と、繰り返される譫言から、ルーチェが毒を仕込んだ犯人ではないかと判断される。そうしてルーチェの部屋から毒と思われる小瓶が発見されるに至り、父は妹に毒を盛った姉の胸ぐらを掴んで殴りかかろうとしたのだ。
だがしかし、ルーチェが実の父に力いっぱい突き込んだ木の枝はそれなりに先が尖ったものだったため、
「ぐうっ」
父はルーチェを放り投げるようにして手を離した。
◇◇◇
父であるロドリゴ伯爵の執務室は庭に面した一階にあるため、開け放たれた大きな窓からは太陽の光が燦々と注いでいるような状態だった。
父の執務室には侍従の一人が書類の整理をしていたのだが、何かが目の前を素早く通り過ぎた時には、一体なにが通り過ぎたのか理解できなかったという。
父の手から逃れたルーチェは、即座に父の執務室に飛び込むと、開け放たれた窓から外へと飛び出し、そのまま庭を駆け出して行ってしまったのだった。
「お・・おのれ・・」
木の棒で、服の上から腹を力いっぱい突かれたので、血が出るようなことにはならなかったものの、先が尖っていることもあって、伯爵は自分の娘に腹を刺されたと勘違いした。後から冷静になって考えると、どうやらナイフなどで刺された訳ではないらしい。
足元にはそこらへんに落ちているような木の棒が落ちていた為、おそらく、この木の棒で娘は腹を突き立ててきたのだろう。
「ルーチェを捕まえろ!今すぐにだ!」
伯爵の怒号と共に、屋敷中の人間が動き出す。
二階の自分の部屋で父の怒号を聞いていたアンネッタは、思わず一人、ほくそ笑んでいた。いくらその場から逃げ出したとしても、広い伯爵邸からは逃げ出しようもない。これで姉の破滅は決定したも同じこと。
「さあて、お姉様、この屋敷の中でどれだけ逃げ続けることが出来るのかしら?」
アンネッタとしては10分はもたないだろうと思っていたのだけれど、いくら経っても姉が捕まったという一報が訪れない。
昼を過ぎて夕方となっても姉は見つからず、捜索の手を屋敷から外へと伸ばし始めた頃に、ようやく誰かが帰って来たようだった。
毒を飲んだアンネッタはベッドから移動することは出来なかったものの、役人らしき男が部屋までやって来た為、毒を飲んだ症状はどういったものかと質問を受けることになったのだ。
「喉が・・喉が焼けるように痛くて、最初は息も出来ないほどでした」
「ふむふむ」
「それから、心臓がありえないほどドキドキして止まりそうになりました」
「なるほど、心臓にショックを与えるような毒だったということですかな?」
「そうだと思います!」
涙ながらに訴えるアンネッタを見下ろした役人の口元が微妙に引きつっていることにアンネッタは気が付かぬまま、その日は、姉がどんな処分を受けることになるのかとウキウキしながら就寝することになったのだった。
◇◇◇
父の腹を突いた。
思いっきり突いた。
持っていたのは15センチにも見たない普通の枝だったけれど、先が僅かに尖っているものを選んだから、父はナイフで腹を刺されたものだと勘違いしたみたいだった。
どのような状況になっても、木の枝であの太ったお腹を刺せるように、何度も、何度も練習をした。庭園の隅にある楢の木に向かって何度も練習したから、楢の木も良い迷惑だったとは思う。だけど、こちらは生きるか死ぬかが掛かっているのだ。ここは相手になってくれた楢の木には我慢してもらいたいところ。
父の執務室は一階にあり、午前中は窓を開放して仕事をする習慣があることは知っていた。窓の高さを考慮すると、飛び降りるまでに躊躇があっては怪我をすることもあるかもしれない。
窓の高さと同じ高さを押し込められた物置部屋で作り出して、何度もジャンプして降りる練習を繰り返した。
逃走経路については野良猫の指示に従った。
別に野良猫が直接教えてくれた訳ではないのだけれど、野良猫を追いかけているうちに、伯爵邸を囲む塀に子供一人であれば通り抜けられるような隙間が出来ているのを発見した。この隙間を利用して外へと飛び出すと、警邏隊の駐屯地目掛けて、走って、走って、走り続けて来たのだった。
「おや!お嬢さん!一体どうされたのかな?」
立番をしている警邏のおじさんが、ちょっと驚いた様子で問いかけてきた為、
「殺されそうなんです!助けてください!」
おじさんに飛びつきながら、ルーチェは涙声で訴えた。
「私はロドリゴ伯爵の娘でルーチェと申します!妹の偽証により殺されるところだったんです!助けて!助けて!」
「なっ・・・」
警邏隊は街の治安を守る部隊となるため、貴族の令嬢が殺されると言われたとしても、何かが出来るわけがない。
そもそも、伯爵家の娘であると言うルーチェは、継ぎはぎだらけの粗末なお仕着せを着ているし、到底、伯爵家の娘などには見えないのだが。
騒ぎを聞きつけて表に出てきた上官は、恐怖で震える令嬢を駐屯地の中へと招き入れることにしたのだが、事情を聞くにつれ、その表情は強張ったものへと変化していくことになったという。
そうするうちに、ロドリゴ伯爵の馬車ではなく、サヴェッリ伯爵家の馬車が駐屯地の前へと到着すると、漆黒の髪に翡翠の瞳を持つ、顔立ちが整った青年が馬車から降り立つことになったのだ。
漆黒の髪の青年は、ボロボロのお仕着せ姿の令嬢をエスコートしながら馬車に乗り込むと、そのまま何処かへと移動して行ってしまったのだが、その姿を眺めていた警邏の男は、
「やっぱり、貴族の令嬢だったのかな?」
と、独り言を呟いたという。
◇◇◇
我が国のエマヌエーレ王には三人の妃と三人の王子がいる。
正妃の産んだ王子が王太子として有望株であったところ、8歳の時に落馬事故で亡くなり、以降は、第二王子、第三王子の継承争いが続くような形となっている。
正妃は隣国の王族となるが、第二妃はこの国の公爵の娘。第三妃は伯爵家の娘ということもあって、継承争いは第二王子が有利とも言われていた。
馬車で移動をしたルーチェは、ボロボロのお仕着せのままの姿で第三妃マルゲリータの住まう離宮へと移動をすると、いつまでも乙女のように若々しいマルゲリータ妃が、多くの侍女を引き連れた状態で出迎えてくれたのだった。
「まあ!まあ!ルーチェ!なんてことなの!」
今は亡きルーチェの母は子爵家から伯爵家へと嫁いだ人だったのだが、ルーチェの母とマルゲリータ妃は従姉妹同志の間柄であり、本物の姉妹のように仲が良かったとも言われている。
ロドリゴ伯爵はルーチェの母の死後、後妻として招き入れたのがルーチェの母の異母妹となるソニアになる。伯爵は結婚後も、妻の妹と関係を続けていたというのは有名な話であり、ルーチェにとってアンネッタは父親は同じ異母妹ということになる。
「ソニアとの結婚など認めるものではなかったわ!あの時は私に力がないばかりに、貴女を辛い目に遭わせてしまってごめんなさい」
まるで宝石のような涙を流すマルゲリータ妃の抱擁を受けながら、ルーチェも思わず涙を流した。
ルーチェも全てを奪われて生きてきたが、ルーチェの母もまた、全てを奪われて生きて来たのだという。
ルーチェの母であるカルロッタは、父母の愛も、婚約者の愛も、全てを妹ソニアに奪われて生きてきた。結局、婚約者であるロドリゴ伯爵と結婚をしたものの、伯爵は実の妹との不義を続けていたし、それを、カルロッタの両親は認めていた形となる。
精神的に追い詰められたカルロッタは、
「ごめんね、こんな家に産んでしまってごめんね」
と、泣きながら、失意のうちに亡くなった。そうして、後妻として入ってきたソニアは、姉の娘であるルーチェを姉の身代わりだと言わんばかりに虐げ、精神的に排除し続け、自分こそが最高に幸せなのだと誇示し続けて来たのだった。
「私もようやっと力をつけることが出来たのよ。だからこそ貴女一人くらい、いくらでも守ることが出来るわ」
「そうだよ、ルーチェ」
第三王子となるフェルディナンドは、ルーチェの頭を優しく撫でながら言い出した。
「後は、私たちに任せなさい。決してルーチェの悪いようにはしないからね」
フェルディナンドは、エマヌエーレ王に瓜二つの容姿をした3番目の王子である。彼は黄金の瞳を細めて微笑を浮かべた。
その後、離宮で保護されたルーチェは、極度の栄養失調状態にあり、強い力で掴まれた腕の痣と、背中に残る鞭のような跡が、王宮の医師の証言として記録されることになったのだった。
伯爵家の令嬢に対する継子虐め、それも二代に渡る悪辣な行為に、人々が眉を顰めたのは言うまでもない。
◇◇◇
「お母様、最近、お茶会への招待が全くないの。どうしてなのかしら?」
「そうね、貴女が毒を盛られたという噂が流れているのだから、お友達たちも気を遣っているのではないかしら?」
「そうかしら?最近は、ランベルト様もいらっしゃらないのだけど?」
「ほら、ルーチェが貴女に毒を盛ったという噂が流れているみたいだから」
毒を飲んでアンネッタが倒れた日以降、毒を盛ったと思われる姉のルーチェは行方不明となっている。毒物はルーチェの部屋から発見されており、婚約者と妹が仲良くしている姿に激しく嫉妬したルーチェが、妹であるアンネッタを殺そうとしたのである。
「今は社交界で噂が流れているところだから、ランベルト様も自重されているのでしょう?」
「本当に、お姉様さえいなければこんなことにはならなかったのに!」
「本当にそうね」
ソニアは可愛い自分の娘の頭を撫でながら、小さなため息を吐き出した。
ソニアが自分の姉であるカルロッタに出会ったのは6歳の時のことだった。カルロッタの母が病で亡くなったということで、後妻としてソニアの母が父となる子爵の元に嫁ぐことになったのだが、ソニアは何もかも、全てを持っているカルロッタが大嫌いだった。
王家に乞われて嫁ぐことになった才女マルゲリータの従姉妹であり、マルゲリータと本物の姉妹だと言われるほどの美貌を持つカルロッタ。本物の姉妹はソニアであるはずなのに、いつでも仲間はずれにされているような感覚を覚えたのだった。
カルロッタが意地悪をするのなら、私だって同じことをしてやるわ!
容姿は美しかったとしても、内向的で引っ込み思案のカルロッタを罠に嵌めるのは簡単で、あっという間に家の中にカルロッタの居場所はなくなっていった。
いつでも邪魔に入るマルゲリータは、第三妃として王家に嫁いだ後は、愛する従姉妹(カルロッタ)どころの話ではなく、こちらに干渉することが無くなった。その機会を利用して、ソニアは姉の婚約者を奪い取ってやったのだ。
姉の婚約者であったロドリゴは、結局、カルロッタと結婚する道を選んだけれど、それはソニア自身の手で修正を加えることにしたのだった。
侍女の一人を使って、姉に毒を盛って弱らせた上で殺す。協力してくれた侍女は暴漢に襲わせてすでにこの世の人ではなくなっている。
姉の娘が一人いたけれど、家の中を平和に保つためには、一人くらい仲間はずれがいないと面白くない。そんなわけで、ソニアはルーチェを見せしめのように排除することを決意した。すると、さすが我が娘というところだろうか。アンネッタは母であるソニアと全く同じようなことをやり始めたのだった。
アンネッタの方が母であるソニアよりも苛烈な性格だったようで、自ら毒を煽った上で、姉であるルーチェを冤罪で嵌めようとしたようだ。逃げたルーチェは完全なる孤立無援状態となっているため、今頃、路上でのたれ死んでいるのかもしれない。
「奥様・・奥様」
慌てた様子でサロンに駆け込んできた執事が言い出した。
「今すぐ来てください!大変なことになっております!」
◇◇◇
アンネッタの婚約者であるリヴィオは、黒髪で翡翠色の瞳をした青年だったけれど、ルーチェの婚約者である金髪碧眼のランベルトと比べると、太陽と月ほどに印象が違う二人だった。
リヴィオは伯爵家の次男になるため、アンネッタと結婚して婿入りする予定となっている。だけど、自分の婚約者がランベルトと度々逢瀬を交わしていても、何ひとつ気にした様子など見せないのだった。
「ごめんなさい、アンネッタはまた貴方をほったらかしにしているのね」
申し訳なさそうにルーチェが声をかけると、リヴィオは何でもない様子で小さく肩をすくめて見せるのだった。
「そう言って謝るルーチェの婚約者がアンネッタと仲良くしているみたいだけど、それについてはルーチェはなんとも思わないの?」
「別に」
彼女は井戸の水を汲み上げながら、笑顔で、
「ここの家を近いうちに抜け出すつもりだから、二人の仲が良かろうが悪かろうが、全然、全く、問題ないのよ」
と、言い出したのだった。
リヴィオにとって、ルーチェは飢えた子猫のような女の子だった。
満足に食事を与えられないから、いつでもガリガリに痩せているというのに、重労働ばかりを任される。
今も井戸の水を汲む作業をしているけれど、リヴィオが食事を与えていなければ、おそらく今頃、力尽きて、井戸に落っこちて死んでいたのに違いない。
「抜け出すってどうやって抜け出すつもり?仮にも伯爵家だから守りは硬いし、君の継母は君を逃そうとはしないと思うけど」
伯爵夫人であるソニアは陰険な女で、生かさず殺さずの食事の量しか義理の娘となるルーチェには渡さない。もちろん、淑女教育なんてものは一切施さない。死なないギリギリの重労働をルーチェに毎日課すことで、満足そうに毎日を送っているような女なのだ。
「リヴィオ様にだけは教えてあげるわ」
ルーチェはリヴィオの手を引いて、猫が外から出入りするという、塀と塀の隙間が出来た場所まで案内した。子供しか通り抜け出来ないような隙間でも、痩せ細った状態のルーチェだったら通り抜けることが出来るだろう。
「こことは、もうすぐさよならだから、リヴィオ様には今まで有難うって言いたかったの」
ルーチェの細すぎる手はアカギレだらけであり、貴族女性とは思えないほどざらざらしていた。赤銅色の髪の毛は傷んだままの状態でモワモワしているし、その髪の毛の下から覗くエメラルドの瞳が、キラキラと輝いているように見えた。
世間知らずのルーチェは、外に出た後も、同じような地獄が待っていることをちっとも知らない。こんな綺麗な子が外に出て行ったら、即座に人買いに攫われて売り飛ばされてしまうに違いない。
「ルーチェ、きみ、自分で何とかしようとは思わないの?」
リヴィオは足元に転がる小枝を手に取ると、くるくると回しながら言い出した。
「君のお母様を殺したのはソニア様だと分かっているのに、君は何の復讐もせずにここから出て行ってしまうのかい?」
リヴィオはルーチェに木の枝を握らせると、その手を優しく撫でながら言い出した。
「やれるだけやってみたらいい、タイミングは俺が教えてあげるから」
リヴィオは悪魔のような笑みを浮かべながら言い出した。
「ルーチェ、例え持っているものが木の枝一本だとしても、やりようによっては充分に復讐を遂げることが出来るんだよ」
◇◇◇
裁判の傍聴席に座ったリヴィオは、過去、自分の婚約者であったアンネッタの姿を無表情のまま見下ろしていた。
先ほどから証言台でアンネッタの専属侍女の告白が続き、伯爵家ではルーチェに対してどれほど凄惨な虐めが繰り返されてきたのかということが証言されている。
「アンネッタお嬢様は、確かに私に毒を用意しろと言いました。私は恐ろしくなって、毒と言いながらお腹が痛くなる薬を用意してお嬢様にお渡ししたのです。すると、お嬢様はベッドサイドに置いたピッチャーに薬を入れて、残った瓶はルーチェお嬢様の部屋に隠しておくようにと言ったのです。ルーチェお嬢様が毎日押し込められている、日も当たらない物置小屋の中に置いておくようにと」
ちなみにこの侍女は、リヴィオが送り込んだ仕込みだ。ルーチェが復讐を決意したその日のうちに手配をして、伯爵家に潜り込ませていた人物でもある。
「フィリッパ!貴女がお姉様を嵌めるにはちょうど良い薬があると言ったんじゃない!嘘つかないで!全てはフィリッパ!貴女の所為!貴女の所為よ!」
ルーチェがアンネッタに毒を盛ったように見せかけ、冤罪で破滅に追い込むように示唆したのは送り込んだ侍女だけれど、その話にまんまと乗ったのはアンネッタなのだ。
次に証言台に立ったのは、診療に当たった医師であり、
「確かに毒については、腹痛、下痢、手足の痺れなどを引き起こすクリナガタケが利用されたのではないかと判断します。令嬢は、喉の痛みや胸の苦しみなどを訴えていたのですが、毒の症状とは別の症状を申告していました。摂取量としても、ほんの微量だったようで、腹痛すら起こしていなかったようですね」
と、証言すると、次に来た役人もまた証言をした。
「令嬢は毒で苦しんだと主張しておりましたが、ピッチャーに含まれていた毒とは別の症状を必死になって訴えておりました。その姿が私には異様に見えたのは間違いない事実です」
冤罪にかけられそうになり、命からがら伯爵家から逃げ出した悲劇の令嬢。ルーチェもまた証言台に立つと、彼女はエメラルドの瞳を怒りで燃え上がらせながら言い出したのだった。
「私は、異母妹のアンネッタに毒を盛ったのではないかと言われた時に、今度こそ殺されると思いました」
傍聴席に集まった貴族たちを見回しながら、彼女ははっきりとした声で言ったのだった。
「私の母は、親切顔で見舞いに来るソニア様に毒を盛られて死にました。そして、今度はアンネッタが毒を使って私を罠に嵌めようとしているのです。今度は私が殺されると思い、死に物狂いとなって私はその場から逃げ出したのです」
傍聴席が大騒ぎになった為、裁判長がハンマーを叩いて静粛を促した。
「皆さん!静粛に!静粛に!すでに伯爵夫人の部屋からは毒物が発見されており、警吏隊の手によって拘束をしております」
ちなみに、ソニア夫人の部屋に毒物を仕込んだのはリヴィオとなる。伯爵家に潜り込ませたアンネッタの専属侍女を使ったら簡単に出来たことで、夫人は、捜査員が毒物が入った小瓶を発見した時には、真っ青になって卒倒してしまったらしい。
「嘘よ!嘘!全部嘘よ!お姉さまは私とランベルト様が仲良くしているから!それに嫉妬して毒物を私に盛ったのよ!私は被害者!被害者なの!何も悪くなんかない!」
「私の婚約者だったランベルト様は、毎回、婚約者であるはずの私ではなく、アンネッタに会いに来ているようでした。二人が庭園のガゼボで抱擁をしていたり、キスをしているのを良く見ました。そのため、アンネッタが毒を使って私を嵌めようとした時には、裏にランベルト様が絡んでいるのではないかと恐れたのです」
ルーチェの爆弾発言に、思わず傍聴席から立ち上がった侯爵家の息子、ランベルトは、
「嘘だ!そんなのは嘘だ!」
必死の声を上げているが、必死になればなるほど、怪しい人物、嘘をついているように見えることに、彼は気が付いていないらしい。
「お父様も浮気したソニア様と組んでお母様を毒殺されたのだもの。そのソニア様の娘であるアンネッタが、ランベルト様と組んで私を毒を使って陥れるなんてことは、普通にあり得ることだと私は思いますわ」
「ルーチェ!嘘を言うな!お前は私の婚約者だろう!ルーチェ!ルーチェ!」
思わず大笑いをしそうになって、口元を押さえながら下を俯くと、リヴィオの隣に座り込んだフェルディナンド王子が、
「おかしくて仕方がないみたいだな」
と、言い出した。
「ルーチェの母であるカルロッタは私の母の従姉妹となるが、異母妹のソニアは我が母とは全く関係ない血筋の者。あの伯爵家からルーチェ嬢を助け出す為に、第二王子を引き摺り下ろし、第三王子である私を次の王位継承者とすることで、母であるマルゲリータ妃が後ろ盾となるルーチェ嬢の立場をより強固なものにしようとしたのだろう?」
そう、ただの第三妃の縁者であるのなら、ルーチェの立場は弱いままだが、次の王になる人の母となるのであれば、縁者であるルーチェの立場もググーッと良くなる寸法なのだ。女遊びが派手な第二王子が、隣国の間諜(娼婦)にいれあげている証拠を集めて提出したのが、最近、第三王子の側近となったリヴィオだ。
「君、伯爵家はルーチェに継がせて、自分は婿入りするつもりなんだろう?」
「そうだけど、何か問題でも?」
「いや、問題ってこともないんだけど」
マルゲリータ妃が次の王太后として決まっていなければ、伯爵家、侯爵家を相手取ることにもなるこの裁判は、ここまでスムーズに行われることはなかっただろう。次期王太后の影響力を使って最大限の復讐を喰らった面々と、証言台からこちらの方を見上げるエメラルドの瞳を見下ろして、リヴィオは朗らかな笑みを浮かべたのだった。
◇◇◇
ルーチェの母であるカルロッタは、子爵家に後妻として入った継母と、異母妹となるソニアに最後まで虐げられて来た末に、毒を盛られて死んでしまった。
カルロッタの遺体は墓地から出して検査をすることとなったのだが、遺体からは微量の毒物が発見されたのだという。
カルロッタの生家となる子爵家はカルロッタの異母弟が引き継いでいたものの、このような惨事を引き起こした元凶の家とも言われて社交界から爪弾きにあうことになり、王都からは姿を消したという噂が流れている。
カルロッタを毒殺したとして、夫のロドリゴとソニアは逮捕された。娘のアンネッタは一旦、子爵家で引き取られることになったものの、その後は行方知れずとなっている。
ルーチェと婚約をしていたランベルトは、浮気をしていたランベルトの有責で婚約は破棄された。次の王となるフェルディナンドと次の王太后となるマルゲリータ妃に睨まれた侯爵家は、ランベルトを廃嫡として、弟に侯爵家を継がせる手続きを進めているという。
「ということで、ルーチェ嬢、ランベルトとの婚約を破棄されたとお聞きして、すぐさま貴女様の元へと馳せ参じた次第。是非とも、俺と、結婚してください」
真っ赤な薔薇を持って離宮に現れたリヴィオは、ルーチェの前に跪き、片手を恭しく手に取ってキスを落とした。
「・・・え?」
全く理解できないと言った様子でルーチェが瞳を見開くと、
「是非とも結婚してあげて」
「ルーチェと結婚するために、ここまで頑張ったみたいだよ?」
離宮で一緒にお茶を飲んでいた、マルゲリータ妃とフェルディナンド王子が言い出した。
何せ、ルーチェを手に入れた上に、全員、完膚なきまでに、ざまあ(・・・)をするために、王位継承争いに終止符を打った男なのだ。
「えっと・・あの・・リヴィオ様は・・アンネッタが好きだったのでは?」
「そんなわけないでしょう!」
リヴィオは怒り狂いながら立ち上がった。
「俺の子猫ちゃんをあんなに虐めた毒婦(アンネッタ)の行き着く場所は、ほぼ、決定状態。それとも、俺の子猫ちゃんは、誰か他の人のところに行くあてでもあるのかな?」
「いいえ!いいえ!何処にも行くあてはないです!」
「それじゃあ、俺のところでいいよね?」
俺のところというか、結局は、ルーチェの実家を継ぐことになるのだが。
◇◇◇
マルゲリータ妃は、リヴィオを見つめて幸せそうに顔をほころばせるルーチェの顔を見て、思わず安堵のため息を吐き出した。
第三妃として王家に嫁ぎ、隣国から嫁いだ正妃の右腕となって、勢力拡大を目論む第二妃の勢いを牽制している最中に届いたカルロッタの訃報。
愛するカルロッタが亡くなる三日前、マルゲリータは彼女が望むものを携えて、こっそりとカルロッタの元を訪問していたのだった。
すでに床から起き上がることも出来なかったカルロッタは、弱々しい笑みを浮かべながら毒物をその手の中に包み込むと、
「ありがとう、本当にありがとう」
そう言って涙をこぼしたのだった。
流行病に罹ったカルロッタは急激に病状が悪化して、と、マルゲリータは聞いていたが、実際には異母妹のソニアが盛った毒によって弱らされていたのだ。そのことをマルゲリータは後になって知ることになるのだが、マルゲリータが渡した毒を、カルロッタがどうしたのかを知ることは出来なかった。
カルロッタの夫となるロドリゴ伯爵は本当にどうしようもないクズだった。カルロッタが亡くなると、異母妹のソニアをすぐに後妻として家に招き入れたことからもそのゲスぶりが良くわかる。
マルゲリータはカルロッタの娘であるルーチェをすぐにも引き取りたかったが、第三妃としてがんじがらめの状態のマルゲリータが、従姉妹の娘でしかないルーチェを引き取ることは難しい。
ルーチェの身の安全を確保するために、下級メイドと侍従を伯爵家に潜り込ませる程度のことしか出来ず、忸怩たる思いを抱き続けることになったのだ。
それが、突然報われた。
サヴェッリ伯爵家の次男であるリヴィオがフェルディナンドの側近として仕えるようになった途端に、全てが良い方向に回り出すことになったのだ。
「ルーチェ、君を愛しているよ」
そう言って人目も憚らずにルーチェを抱きしめるリヴィオを見つめて、今度こそ、この二人を何処までも守り続けようとマルゲリータは決意した。
◇◇◇
「ロドリゴ様、私は妹のソニアに毒を盛られているんです」
余命幾ばくもない状態となったカルロッタは、ロドリゴの手の平に小瓶を乗せながら言い出した。
「ソニアが使っていた毒です、あなたにお渡ししておきますね」
凝った作りの小瓶の中には、無色透明の液体が半分ほどの量入っていた。
どういうつもりでカルロッタがロドリゴにその小瓶を渡して来たのか、ロドリゴには理解できなかったが、中途半端に入った毒の小瓶を眺めるに従い、そういうことだったのかと納得することになったのだ。
子爵家の娘であるカルロッタとロドリゴの婚約が決まったのは、一重に血筋の正しさから来るものだった。
カルロッタの母は建国時から王家に仕える伯爵家の血筋を引く者であり、今は第三妃となったマルゲリータの従姉妹になる。
カルロッタの母の死後、子爵家に後妻として入った女は男爵家の娘であり、子爵家と男爵家の血を引くソニアよりも、カルロッタは格式が高い令嬢になるのだ。
美しい面立ちながら、引っ込み思案で内向的なカルロッタは、ロドリゴにとっては物足りない存在であったのは間違いない。カルロッタと比べると、天真爛漫なソニアは目新しく見えたのもまた本当のことだ。
結婚するのはカルロッタ嬢、お遊び程度の扱いならソニア嬢。
結婚後もソニアとの関係は続けていたし、ソニアとの間に娘が一人生まれたのだが、所詮は愛人扱いでしかない。
ロドリゴはカルロッタを正妻として大事に、大事に扱っていたつもりではあったのだ。だがしかし、結果は、ソニアに踏み躙られる形となった。
カルロッタの死後、押しかけるような形でソニアは後妻の地位に収まったが、カルロッタが渡してきた毒物について追求するようなことが出来なかった。姉の死後、すぐさま異母妹を娶ったというだけでも十分に家の名を傷つける行為だというのに、その異母妹が毒を盛って姉を殺しただなんてことがバレたら、伯爵家は終わることになる。
「お父様、ソニア様はお母様を毒で殺したのではないの?」
何処から聞きつけてきたのか分からないが、娘のルーチェがロドリゴに向かって言い出した。その瞳は明らかに非難の色を示しているように見えたのだが、
「うるさい!黙れ!」
そう叩きつけるように言ってから、ルーチェを自分の視界に入れるのをやめた。
毒物は隠し金庫の奥に仕舞い込んだ。
全てはなかったことにして、日々を送ることを選んだのだから。
◇◇◇
「夫の部屋から毒物が入った小瓶が発見されたのですって?」
伯爵夫人であるソニアは、思わず驚きすぎて椅子から転げ落ちそうになってしまった。
逃げ出したルーチェがマルゲリータ妃に保護されたことにより、伯爵家は王家の指示のもと、家宅捜索を受けることとなったのだ。結果、ソニアの部屋の引き出しの中から毒物が発見されることになり、ソニアはその場で卒倒してしまったのだ。
机の引き出しになど毒物を入れたことはない。自分の知らない毒物と、自分が用意した毒物。二種類の毒がソニアの部屋から発見されることになったのだ。
カルロッタを殺した毒はすでに処分が済んでいる。新しく用意した毒は、侯爵家に嫁ぐ予定のルーチェに飲ませる予定のものだった。今のところ、娘のアンネッタが侯爵家の令息であるランベルトと上手くやっているようだが、アンネッタが侯爵家に嫁げば、自然と姉の娘であるルーチェが伯爵家を継ぐことになる。
カルロッタの娘であるルーチェに伯爵家を継がせたくなかったソニアは、ルーチェに一切の淑女教育を施さずに、虐げるだけ虐げた末、病で死んだということにして殺すつもりでいたのだった。
だからこそ、一つ目の毒の出所はわかる。だがしかし、二つ目の毒が何故そんな場所にあったかがわからない。
誰かに嵌められたのかと頭を悩ましている最中に告げられたのが、夫も毒を所持していたということ。
「夫人、貴女は伯爵と共謀した上で、カルロッタ前伯爵夫人に毒を盛って殺したということでしょうか?」
「な・・そんな・・夫が?夫が毒を持っていたんですか?」
「夫人は、伯爵が毒物を所持していたことを知らなかったんですか?」
「全く知りません、何故、あの人が毒なんかを・・」
そこでふと、ソニアは気が付くことになったのだ。
「もしかしたら・・あの人は私を殺そうとしていたのかもしれません・・」
「伯爵がですか?」
「そうです、あの人は、本当は姉のカルロッタを愛していたのです。美しい姉に心底惚れていたのです。そんな姉を私が殺したことを知っていたから・・」
ソニアはごくりと唾を飲み込んだ。
ロドリゴ伯爵の後妻として嫁ぐことになったソニアだが、夫婦仲はいたってドライな関係のままで、嫁いでからただの一度も、閨事なども行われていない。
そもそも、ロドリゴはソニアが淹れたお茶などは絶対に口にすることがなかったのだ。
伯爵夫人という豪華な椅子に座れるだけで満足だったソニアは、最低限の会話を交わしてくれる夫に対して何の感情も持っていやしなかった。
なにしろ伯爵は、カルロッタの娘であるルーチェを自分の世界から弾き出していたのだから、完全に無視されるルーチェよりかは、遥かに愛されているとさえ考えていたのだ。
「あの人は・・いずれは私を殺そうと考えていたのかも・・」
今までダンマリを決め込んでいた伯爵夫人は、夫に殺害されるかもしれなかったという恐怖から、知らずに自分の過去の犯行を認めてしまっていたのだ。そんなことにも気が付かず、裁判では『姉から何もかもを奪った悪魔のような女』として、重い刑が課せられることになってしまったのだ。
◇◇◇
リヴィオが歓楽街に隣国の娼婦(間諜)が紛れ込んでいると知ったのは、仕事柄ゆえのことでもあった。
サヴェッリ伯爵家は中立を謳う、家柄的には鳴かず飛ばずの中流伯爵家という位置付けでいるのだが、その実、王家の影として、建国当時から支え続けてきた家柄でもある。
「ロドリゴ伯爵が次女となるアンネッタの婚約者を探しているというから、リヴィオ、貴方が婚約者として伯爵家に潜入しなさい」
母はサヴェッリ伯爵家の直系であり、父は入婿となって母に仕えているような形となる。我が家の主人は間違いなく母であり、母の命令は絶対だ。
「私の親友だったカルロッタの娘、ルーチェを貴方は守りなさい。貴方が良かれと思ったことは何でもやっていいわよ」
良かれと思ったことは何でもやっても良いとするのなら、最悪、伯爵家を潰してしまったとしても問題ないと言質を取ったことになる。
それなりに顔が良いことを自覚しているリヴィオは、婚約者となるアンネッタのご機嫌を損ねるようなヘマはやらかさない。
目立つ場所でイチャつくアンネッタとランベルトに対して、あからさまに嫉妬しているような素振りを見せるだけで満足するような女なのだ。
アンネッタとの交流は最低限のものとして、リヴィオは伯爵家の長女となるルーチェを探すことになったのだが、母から守るように言われた対象を発見するに至って、事を急がなければこの娘は早晩、死んでしまうのではないかという恐れを抱くようになったのだった。
伯爵家の使用人たちは伯爵夫人であるソニアに抱き込まれているため、ルーチェは完全に孤立した状態だった。栄養状態も悪い彼女がギリギリのところで保っていたのは、マルゲリータ妃が潜入させた侍従と下級メイドの配慮によりものだ。
「それにしても、どうしよう・・」
復讐をするのなら、他人に全てを任せてしまうよりも、自分で勝ち取ってしまう方が遥かに良い。ルーチェの護身術の意味も込めて、小枝一つで相手を返り討ちにする(と言ってもルーチェの細腕では、相手の意表を突いて逃げ出すのが精々のところ)技を教えたのだが、
「えいっ!えいっ!」
大木を相手に木の枝を突き込むルーチェの姿が可愛すぎたのだ。
リヴィオは、ルーチェの手が傷つかないように練習中に使用するグローブも用意したし、使う小枝も、グリップが効くようにリヴィオ自ら手を加えた。
逃走経路についても、彼女なりに考えていたようで、
「窓から飛び降りる練習はしているのです!」
と言っているのだが、物置小屋の荷物を積み上げて、そこから飛び降りる練習をしているというのだから驚いた。
しかも、ルーチェが押し込められている物置小屋は屋敷の隅の隅の方にあるために、幾らルーチェが飛び降りたとしても、誰一人として気が付かないらしい。
そもそも、親子二代にわたって、姉の婚約者を奪い取ろうという鬼畜ぶりなのだ。社交界で噂にならないわけがない。
リヴィオの母はルーチェの母と仲の良い友人同士だった為、涙を流しては悲劇のヒロインぶるソニアに対しては、思うところがあったらしい。
意気揚々とカルロッタが死んだ後に、後妻にソニアが収まった時点で、頭の良い女性陣はそっぽを向いているような状態だったのだ。しかも、結果を見れば毒殺、夫も関わっていたらしい。貴族の婦人たちは姦しく騒ぎまくった。
結局、ルーチェの母であるカルロッタに対して、異母妹のソニアが毒を盛っていたし、夫のロドリゴも盛っていたのだろうと判断された。
二人で毒を盛っていたのは分かった。それじゃあ、もう一種類の毒は誰に盛っていたんだという話になった時に、
「私じゃない!私は何も知らない!」
ソニアが大声で叫んでいたという。
それじゃあ、三つ目の毒は誰が用意した?
それは俺が用意した奴だよね?
早く決着をつけるためにリヴィオが仕込んだ毒だったけれど、深く追求されることもない。伯爵は毒物については黙秘を貫き通したけれど、破滅への道へとまっしぐら。
結局、二人は終身刑を言い渡されて、何処かに連れて行かれたらしい。
ルーチェが伯爵家を継ぐというので、文句を言い出す親族もいたのだが(ルーチェは年齢的に若すぎると言われたわけだ)即座にリヴィオが伴侶となった為、うるさい親族は即座に口を縫い付ける勢いで黙りこんだ。もちろん使用人も全員、紹介状なしで解雇した。
ちなみにリヴィオは21歳、17歳の新妻の体重を増加させるために、毎日甘い菓子を見繕うのが習慣と化している。
◇◇◇
「ルーチェ、お母様は失敗したのよ」
毒を盛られて起き上がれなくなってしまった母が、ルーチェの小さな手を握りながら言い出した。
「いつかは誰かが助けに来てくれるから、だから、貴女は失敗しないでね」
夫は異母妹のソニアではなく、最終的には自分を選んでくれた。ロドリゴは妻としてカルロッタを尊重し、大事にしてくれていることは分かっていたものの、彼は結婚した後も、異母妹との関係を続けていたのだった。
その結果、毒を盛られて今、死のうとしている。ソニアが直接毒を盛ったわけではないけれど、見舞いに来たという彼女の顔を見ればよく分かる。彼女が侍女を使って毒を盛ったという証拠は何処にもないけれど。
だけど、夫にだけは知っていて欲しかった。
貴方が捨て切れなかった女に私は長年虐げられて、そうして毒を盛られて死ぬのだと。
マルガレーテが用意してくれた毒を夫の掌にのせながら、結局、貴方の所為で私は死ぬのだと、貴方が私を娶らなければ、貴方が私を捨ててソニアを選んでいれば、そうすれば、私はこんな死に方はしなかっただろうと。
そう訴えながら目を瞑る。
母から失敗をしないでと言われたルーチェは、人を観察するのが癖になってしまった。
ルーチェの婚約者として侯爵家の嫡男ランベルトを父が選んだのは、自分の罪悪感を少しでも軽くするため。
ランベルトがすぐに義妹のアンネッタに夢中になったのは、彼がルーチェの父同様のクズだから。そして継母と異妹は悪魔の申し子、関わっても碌なことがないことは十分に理解していた。
母はいつかは誰かが助けてくれると言ってくれたけれど、父はルーチェの存在を無視するし、婚約者は義妹に夢中でルーチェを視界の隅にも入れようとしない。
使用人の中には、ルーチェが死なないように配慮してくれる人も居るけれど、何の助けにもならないことは身に染みてよく分かっていた。
誰も助けに来てくれることもない、こんな家、さっさと逃げ出してやる。
ルーチェがもう逃げ出してやろうと覚悟を決めた時に現れたのが、15歳になる義妹の婚約者となったリヴィオ・サヴェッリだった。
彼は不思議な男で、義妹のアンネッタがランベルトと親密な関係を築いていても、全く気にする素振りを見せない。もちろん、アンネッタの前ではあからさまに嫉妬しているように見せてはいたけれど、ルーチェから見れば臭い演技にしか見えなかった。
飄々とルーチェの前に現れては、食べ物を与えてくれる。
井戸の水を汲み上げるのを手伝ってくれる。
ルーチェのアカギレだらけの手にクリームを塗ってくれる。
いつでも世界中から無視され続けているルーチェを唯一気遣ってくれる人。そんな彼に、家を出て外に逃げるという話をすれば、
「ルーチェ、何も心配はいらないんだよ。後は俺が何とかしてあげるから。君の憂いは全て僕が取り払ってあげる。僕に全てを任せておけば良いんだよ」
なんてことを言ってくれるかもしれない。
野良猫が出入りする塀と塀の隙間を教えたのは、ルーチェにとって一生に一度の賭けのようなものだった。
リヴィオはどんな反応をするかしら?
ルーチェを見つめる翡翠色の瞳が僅かに細められると、
「ルーチェ、きみ、自分で何とかしようとは思わないの?君のお母様を殺したのはソニア様だと分かっているのに、君は何の復讐もせずにここから出て行ってしまうのかい?」
結局、リヴィオは自分の手で復讐をしろと言い出した。
王子様だったら、すぐさま、真綿に包み込むようにして保護してくれるのではないかと思うのだけれど、リヴィオは落ちていた木の枝をルーチェに渡して、攻撃する手段は何処にでも落ちているのだと言い出した。
お母様、どうやら私は自分の力で戦わなければならないようです。
近いうちに何かが仕掛けられるだろうとは思っていた、窮地に陥ったら即座に逃げ出してやる。あの悪魔のような母娘は、母に使ったのと同じように毒を利用して来るだろう。毒を使われたら即座に逃げ出す。
そうして、この家を破滅の淵に追い込んでやろう。
誰かが捕まえようとしてきたら、木の枝を使って相手にダメージを与えた隙に逃げ出す。逃走経路はいつでも頭の中に入れておくこと。
塀の隙間から外に出たら、一直線に警邏隊の駐屯地に駆け込むこと。そこで、リヴィオを呼ぶようにお願いしたら、リヴィオが後は手配をしてくれると言い出した。
その後にマルゲリータ妃の離宮に連れて行かれたことには驚いたけれど、これから行われる裁判で、伯爵家の人たちを破滅に追い込むための準備を始めなければならなくなった。
アンネッタは自ら用意した毒を少量だけ口に含んで、婚約者であるランベルトとの仲を嫉妬したルーチェが義妹に対して毒を盛ったのだと主張するつもりでいたのだろう。そのアンネッタを、裁判を利用して追及する。
アンネッタを追い込む材料は全て揃っているのだと、離宮まで連れて来てくれたリヴィオが言い出した。
婚約者だったランベルトの不貞も裁判で明らかにする、ランベルトもアンネッタとグルになって、ルーチェを冤罪で追い込もうとしたと主張する。
ランベルトの生家である侯爵家は第二王子派の重鎮だった。伯爵家は前伯爵夫人であるカルロッタが亡くなって以降、中立の立場から第二王子派に鞍替えした。
第二王子派が大きなダメージを受けている間に、間髪を容れずに、大きなダメージを相手に与える。第二王子が今は国交を断絶している公国の間諜と懇意にしており、我が国の情報を敵国に流しているという証拠が挙げられたのだ。
女性関係が派手な第二王子だったけれど、最近は高級娼婦に夢中となっていた。その高級娼婦が公国の人間だったという証拠と共に、王子が寝物語で語った内容が機密も含まれる内容だったため、大きな問題となったわけだ。
「やれるだけやってみたらいい、タイミングは俺が教えてあげるから。ルーチェ、例え持っているものが木の枝一本だとしても、やりようによっては充分に復讐を遂げることが出来るんだよ」
悪魔のような微笑みを讃えるリヴィオは毒のような男だった。
最低限の手伝いしかしないと言いながら、全てのお膳立てを整えて、最後にはルーチェの伴侶の座に収まってしまったのだ。伯爵家もルーチェごと自分の物にしてしまったのだ。
「ルーチェ!僕の愛するルーチェ!アンネッタに僕は騙されただけなんだ!本当に愛するのは君だけなんだ!」
侯爵家から廃嫡されたランベルトは平民落ちし、ルーチェに助けて欲しいと縋るように言い出した。
今まで視界の端にも入れようとしなかったルーチェに対して、本当に愛するのは君だけだと言い出すランベルト。
「ルーチェ、ここで少しだけ待っていてくれるかい?」
ルーチェをエスコートしていたリヴィオは、ルーチェを自分の侍従に預けると、平民落ちしたランベルトを殴って蹴って、すぐさま追い払ってしまったのだった。
「リヴィオ様?」
「なんだい?俺の愛するルーチェ?」
翡翠の瞳を細めて満足そうに微笑む黒髪の男を眺めて、ルーチェはつくづくと思うのだった。
この毒は誰の毒?それはルーチェの所有する毒物に他ならない。
「リヴィオ様、愛しておりますわ」
「俺もだよ、愛するルーチェ」
二人は人通りが多い道端でも構わずに唇を重ね合わせた。
甘いキスと一緒に落とされる毒は、ルーチェを何処までも蝕むように蕩けさせていくのだった。
〈 完 〉
この毒は誰の毒? もちづき 裕 @MOCHIYU
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