知らない歴史を共に祝う
完璧に晴れた青空を溶かし込んで
「またお祭りで会いましょう」
「皆で歌う曲も
旅芸人たちと別れて店の扉を
「元気そうだね」
黒髪を後ろで束ねた青年が気恥ずかしさを隠すように頭を下げる。
「父さんも母さんも、長旅お疲れ様でした」
「キサの方こそ大変そうじゃない」
アトリに痛いところを突かれて彼は苦笑した。宿の一階にある食堂は見渡すまでもなく満席だ。東の国々から伝えられた香辛料の強い匂いが漂う。昼間から酒を飲む者もいて騒がしい。卓の間を縫って動き回る女性はおそらくキサの妻、フィスだ。こちらに気づきはしたものの、この忙しさでは挨拶すらままならないだろう。
「せっかくなら祭りの時期に、と思って招待したのですが」
「俺たちも昼時に着いたんだからお互い様だ」
ところが、一度店を出て仕切り直そうと言いかけたその時、ゼルスがふいに足元を見た。黒い癖毛の子供が長衣の
「ぼくが町を案内してきてあげる」
シアノ、とキサが歓迎するように息子の名前を呼んだ。
「じゃあお願いしようかな」
アトリが明らかに表情を緩ませる。たとえ血の繋がりのない養い子の子でも可愛い孫には違いない。子供が好きな彼女にとってはなおさらだろう。シアノは得意げに胸を張って店を飛び出した。
入り海の港へと続く坂は右に左に向きを変えながら、緩やかに斜面を降りていく。開けた青空に輝く太陽の下、まるで絵のように輪郭を強く光らせる港と町を、しかし賑やかに鮮やかに船や人々が行き交う。吹き上げる潮風を受けて海鳥が空を滑る。
転げるように駆け回りながら、シアノが沖の小舟を指した。
「あれは魚を獲る舟だよ。日が昇る前に出発して帰ってきたんだ。でも港に遠くの国の船が来るから、順番を待っているみたい」
懸命に説明してくれるシアノは、主にゼルスを見上げている。昔から彼は子供に寄られやすい。背が高くてあまり動かないから登りたくなるのでしょう、といつだかティナが笑っていた。
「ごめんね、お父さんは昔から詰めが甘いんだ」
その様子を父のせいと捉えてかシアノが言った。困惑が一行に広がる。妙に大人びた語彙は親の口癖だろう。
冒険者になると言って旅立ったキサは数年後、隊商の護衛中に判断を誤って生死の境を
「異国の船も祭りに来るのだな」
ゼルスが話を戻してシアノを抱え上げる。以前は子供を怖がっていた彼が、視点の高さを喜ぶ声と眩しさに少し目を細める。
「お祭りの夜にはね、海の守り神様の御使いも来るんだよ」
「守り神様か」
「神様は昔、怖い怪物だったんだって。でも海を流されてきた王子様に懲らしめられて、反省して良い神様になったんだ」
百六十年前、漁村パスチェスは海の魔物に苦しめられていた。国境の森の魔物にも勝る力を持ったそれは、嵐を起こしては沖に出る舟を沈め、末には渡海の王子に倒された。強大な魔物を伝承ごと封じた太古の時代の魔族とは異なり、人々はその後、新たな信仰をもって魔物の性を塗り替えた。
いつだったか初めてこの話を聞いた時、ひとは魔物とも分かり合えるのだとティナは語り、魔物に意思などないとゼルスは返した。生き方を縛らないならどんな信仰でもいい、とアトリは呟き、リオンは、魔族がいなくても人族は平気なのだ、と思った。
得意げに弾む声はまだパスチェスの伝承を語る。
「王子様と一緒に戦った聖女様は、本当は魔女様なんだって」
ゼルスが足を止める。
「魔女様のことを外の人に話してはいけませんよ」
微笑んだままティナが言い聞かせた。
「俺たちは知っているから大丈夫だけど、気をつけてね」
伝承は二通りあった。一つは外の人々に語るもので、王子は旅の聖女と共に戦い、その遺志を果たす。もう一つはパスチェスの民がひそかに語り継ぐもので、聖女ではなく心優しい魔女が王子と共にあり、そして彼女は今もパスチェスを見守っているという。
リオンの一行にパスチェスの民はいない。それでも裏の伝承を知っているのは、さらに裏の秘密を見てしまったからだ。この町出身の母から聞いたのだろうシアノもようやく大事な話と察して頷く。
「シアノは良い子だね。良い子には美味しいものを買ってあげようね」
「いいの? ぼく
真剣な表情を浮かべてなお柔らかい頬が、アトリに甘やかされて緩む。やはり自分で走りたくなったのか、大きく体を揺らすシアノをゼルスが地面に下ろした。シアノは一行の間を抜けて後ろに戻るとアトリの手を掴んでまた前に出る。前屈みに手を引かれながらも嬉しそうな彼女の様子に、リオンは幸せを感じた。
寄せては返す波の音、海の平穏を祝う人々の声。
イリの一座と再会したリオンは約束どおり、サシュの旅琴に合わせて皆と歌った。出し物の天幕から小舟の店まで次々シアノに連れ回されたアトリは、遊び疲れて眠った彼を送って行っていた。ティナとゼルスはふたりで祭りを見て回ったようだ。桟橋に来た彼女は結った髪に
やがて人波が浜辺に押し寄せてくる。潮風が変わる春のある夜、パスチェスの近海に海神の御使いと呼ばれるものが現れる。その訪れを一目見ようと集まっているのだった。
事情を知る一行は人の少ない町外れの桟橋に並んで時を待つ。
「ねえ、魔女様は元気そうだった?」
左隣でアトリが
「きっと今頃、岬の向こうで海を眺めていることでしょう」
星々へ手を伸ばすように伸びる岬を望んだその時、大きな波が桟橋に打ち寄せた。海水が足元を洗い去っていく。リオンは板の下の暗い
夜風に散らされた髪を掻き上げる。星明かりを返す銀色はかなり量を減らしてしまった。誰かが通る足音に紛れて、アトリが呟く。
「忘れられていくんだね」
「必要なことです」
返る声色は
「何度でも新しく出会えばいい」
右端からの声にティナが頷く。リオンの眼前で夜釣貝の櫛が揺れる。
「貴方と私と皆でなら、必ず取り戻せます」
彼女が振り仰いだ町並みは
海を見れば遠く、暗い水面の下にも、薄青い光が集まっていた。
「始まるね」
リオンは言う。潮風に流されてかすかな歌声が聴こえる。町の灯台に炎が弾け、燃え上がり、海から訪れた光を誘う。
「何度か見たことはあるけれど、皆で見るのは初めてかな」
陸地の光に
海に陸に、雲が晴れた空に、それぞれの輝きが今を謳う。
言葉を探そうとして、少しして手放す。それは必要のないものだった。きっと皆も同じことを考えている。その証拠に、今ここには夜風と潮騒と、遠い歌声しか聴こえない。
長いようで短い時間の後、桟橋を叩く足音が向かってきた。
「すみません、シアノまで見ていただいて」
店はフィスに任せてきたのだろう、キサが持つ盆の上には酒盃が五つ並んでいる。香辛料を加えて割った果実酒が湯気を立てる。
「護衛の方々も――」
「違うよ」
リオンははっきりとキサの言葉を遮った。
種族が違う、姿が違う。老夫婦とその護衛に見えて当然、いずれ忘れ去られる運命で、またそうであるべきだとしても。彼は背にした気配を感じる。その輝きが悲しい過去も苦しい未来も照らしてくれる。
「彼らは仲間だ」
アステリエの追憶 白沢悠 @yushrsw
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