輝ける今この場所で

 国境の森を抜けフェデリーム王国に入った一行は、再び老夫婦とその護衛を演じながら、王都クリンギルを通り過ぎて南へ向かう。

「どうかしましたか」

 街道の横に牽車を停めて、十名弱の男女が立ち尽くしていた。彼らのうち比較的にとしかさの女性にティナが問う。色鮮やかな布を服に被り物に飾った彼らは、見たところ旅芸人の一座らしい。声をかけられた女性はつかの間ティナの美貌に目を奪われ、すぐに沈んだ表情に戻る。

「巨大な鳥の魔物に襲われて、ビルランを奪われてしまったのです」

 アトリとティナとゼルスが弾かれるようにリオンを見る。あまりにも息の合った動きに女性の肩が小さく跳ねた。見返すとアトリは気恥ずかしそうにあらぬ方を向き、ティナは優しく微笑み、ゼルスはただ黙って視線を受け止める。リオンは旅芸人たちを見て、呟く。

「助けたい」

 四十五年前の旅ではいつものことだった。ロギエラ王国の僻地の村の、剣と歌を愛した若者は、この天性の果てに勇者と呼ばれた。

「その楽器に特別ないわれはありますか」

 ティナが旅芸人に尋ねる。

「先代が言うには、風を呼び起こす魔法が少しだけ込められているそうです。肌に感じられはしませんが、音が遠くまで響きます」

 魔法と聞いて、目配せでゼルスに問う。気配を探るように中空の一点を眺めていた彼はすぐに気づくとわずかに眉をひそめる。

「巣材だろう」

 ティナが微笑んだ。例外はあるが、一般に魔物は人族や魔族を好んで襲う。強い力を持つものほど理を外れた姿と高い知性を有し、ただ食い殺すだけではない行動を取る。特に鳥の魔物は、魔力が込められた物を奪って営巣に用いる習性を示すことが多いらしい。

「居場所は分かるんでしょうね」

 アトリが石畳を踏みしめた。街道の先を気にした様子から一転、魔術師と元魔術師のふたりをにらむと彼らは頷く。旅程の遅れを心配しているのだろう。元はと言えば俺の我儘だから、と伸ばしかけた手は、しかし乾いた音を立てて掴まれた。

「あんたならああ言うと思ったよ。早く行こう」

 褪せた青の眼差しが真っ直ぐに輝く。引っ張ってくる力が思いのほか強い。リオンは笑って礼を言うと、温かいその手を握り返した。


 街道脇の小さな森には命の気配が満ちている。霧がなくとも鬱蒼としていた国境の森とは違って明るく、様々な草木がつけた花実に虫や獣が集まる。旅に出て三十日ほど、春はようやく訪れたばかりだ。

「あちらから魔力を感じます」

 ティナの手が滑らかに森の奥を指す。歩いてきた小道を外れるその方向を、仰ぎ気味に見渡したリオンが立ち止まる。

「川の音が聞こえる。橋を渡るまでは小道に沿って行こう」

 全員がその場で足を止めた。落ち葉を踏む音が途切れると、柔らかな風と葉擦れと虫の羽音の向こうに、確かに遠く水音が聞こえる。思わず笑みが溢れかけ、リオンは慌てて顔を伏せた。

「少し休みましょうか」

 肩を震わせる彼を気遣ったティナに、首を横に振って見せる。

「ちょっとだけ、楽しいなと思って」

「楽しんでいいんじゃない。どうせ勝算はあるんでしょう」

 アトリが呆れた様子で言った。困っている人がいるのに笑うなんてと思う彼の感情を正しく理解した言葉でもあり、四十五年前から勝算さえあれば彼の無謀を煽りさえしたティナに対する皮肉でもあった。ゼルスが森の奥へと目を逸らした横で、当のティナはしかし微笑みを崩さないまま涼しげに言い放つ。

「私ひとりで挑んでは負けてしまいます」

 つまり彼女はリオンを戦力に数えているのだ。アトリは足元の落ち葉を踏み潰すと、矛先を彼女ではなくその腐れ縁の傍観者に向ける。

「ゼルス、分かっていたなら止めて!」

「私が言って彼女が聞き入れたことはない」

「そうだけど!」

 もはや議論でも魔物退治でも戦力にならない彼はアトリの勢いに怯むことなく、哀れむような調子で返した。何を言ったものか悩むリオンはひとまず彼女の肩に手を置く。

「俺に打ち込んでエオルが一本取ったことはないよ」

 もう一方の手で、背負った軽い剣の柄を握った。

 彼は今も剣の鍛錬を続けている。ちょっとした魔物を追い払い、若者たちに稽古をつけている。昔ほど動けない自覚はあるが、心優しい娘婿くらいはまだ翻弄してしまえる。

「キサには三本に一本取られたじゃない」

 冒険者を夢見た養い子の名を挙げ、アトリは深く溜息をついた。


 橋を通って小川を渡り、茂みを掻き分け枝を切り落として森の奥へと迫る。木が薙ぎ倒され開けた場所に怪鳥の巣があった。

 濁った金色の眼光がこちらを射抜いた次の瞬間、晴れ渡っていた空が一息に陰る。影と同じ青みがかった暗灰の翼が風を叩き伏せ巨体が舞い上がる。轟音。翼に見合わない暴風はその魔物が吸い上げてきた恐れと憎しみを、理を捻じ曲げる魔力の程を示している。

「――来るよ!」

 遠ざかったかと思う間もなく翼を畳んで影が落ちてくる。鈍金の鋭い爪を逃れて一度、風圧から体勢を立て直して二度、三度の後に木の陰へ退いたリオンは悔しさをにじませ空を睨む。

「こいつ、ティナばかり狙う」

「魔力に惹かれている」

 ゼルスが淡々と答えた。彼はアトリを背に庇って動かない。今の彼は術具の塊も同然の義体だから、むしろ動くべきではないのだろう。荷物番を決め込む彼の足元にティナは細剣のさやを放る。

「翼を撃ちます。ゼルスは動かないで。アトリを頼みます」

 手短に指示を出しながら淡金の長い髪を紐でくくり上げ、リオンに向き直った。紅い両眼が鋭利に煌めく。

「リオンは迎撃を、お願いできますか」

 凛とした声に頷きを返し走り出す。散らばる小枝を踏み越えまた青空の下へと進む。斜め後方のティナが細剣を振るっていると気配で分かる。視界の端にちらつくりんこうが中空に術式を描く。魔族語とも違う不思議な詠唱は、走りながらだというのに跳ねず弾まずよどみない。

「夜天に散り、点り――光と踊れ」

 結句と共に細剣が指した先、羽の隙間に氷の刃が刺さり砕けた。鋭い鳴き声が空を裂く。爪の反撃はリオンが剣でいなす。

 恐ろしい速さで飛来する爪を掻い潜り、こちらの身丈を超える巨大な翼の風圧に耐えながら、彼は剣を突き立てる隙を窺う。氷の魔術は少しずつ魔物の動きを鈍らせていく。だが広範囲の展開となれば術者の消耗も激しい。ティナの魔力が尽きる方が先か、魔物が撃ち落とされる方が先か。

 アトリが叫ぶ声がした。リオンはとっさに剣先を引く。苛立ち紛れのように蹴り出された爪を受け、踏み止まれずに倒れる。幸いにして鳥は氷刃の直撃を受けていったん上空へ退いていく。

「転んだだけだ」

 再び立ち上がると右足首に痛みが走った。あまり良くない着地をしたようだ。ティナが氷晶を操りながら空いた左手を払った。アトリの声が、困惑の色を帯びる。

 ゼルスが詠唱を始めた。静かな声が焦りも露わに記憶のままの響きを辿たどる。ティナの詠唱が重なり響く。杖を持たず魔術を捨てたはずの彼にその場の誰もが雷の魔術を錯覚した。少なくとも、膨大な魔力を漏らす義体に鳥の爪の標的が移った。

「――虚空を裂け、静謐を忘れよ!」

 怪鳥の眼前、叫ばれた結句は雷撃の代わりに一度きりの隙を呼ぶ。

「――輝ける時を謳え!」

 ティナが集束させた氷塊が死角から過たず翼を切り裂いた。

 青い影が破裂するように羽を撒き散らす。魔物の巨体が空中で傾いて墜落、地上を滑って木の幹に激突する。軌道が逸れたことでかろうじて直撃を免れたゼルスを風圧と土埃と落ちる枝葉が襲う。

 リオンは剣を放り出して膝をつく。腰が抜けた。動悸が酷い。荒い呼吸で喉が焼ける。右足首の鈍痛が脈打ち蘇ってようやく緊張が切れたと気づく。青灰の羽が緩やかに舞い落ちるなか駆け寄るティナとアトリとゼルスに、まるで笑いかけるように頬が動いたのは安堵か興奮か強がりか、それとも息苦しさのせいだろうか。

 無理をさせたと謝るティナを押し退け、すぐ隣にアトリが屈む。魔術薬の瓶を持ってきたゼルスを手で制して足首に触れてくる。

「――神王様、リオンを治して」

 久しぶりに聞く祈りの言葉が、天から流れる力を引き寄せる。澄んだ空に似た透明な力がアトリの手を通して注がれ、見る間に痛みを薄めてくれる。それは魂に多少なりとも負荷をかけるものだが、不安に震える手で奇跡を繰る彼女を、咎める道理は誰にもない。


 夜闇に燃える薪が弾け、頭上に張られた帆布を雨音が叩く。焚き火を囲む色とりどりの一団の中にリオンたちは腰を落ち着けていた。

「本当にありがとうございました」

 もう何度目かそう言った女性、イリは旅芸人の座長なのだそうだ。

「こちらこそ。おかげで遅れを取り戻せそうだ」

 リオンが笑って返した。一行が倒した鳥の魔物は、一座から奪われた旅琴の他にも魔力を帯びた品をいくらか巣へ集めていた。そうと知れば彼は放っておけない。街道を巡回する兵士にそれを引き継ぐためさらに一日を費やした。いよいよ遅れた旅程を組み直そうと、アトリとティナが地図を広げていたところへ、牽車に余裕があるから乗っていかないかとイリが申し出た。

「あちらはもうすぐ祭りの時期ですからね」

 リオンたちは彼の養い子キサが暮らす港町パスチェスを目指している。百六十年ほど前まで僻地の漁村だったそこは、今では東の国々との交易で栄えている。とりわけ春は多くのひとびとが集まる海神の祭が開かれ、旅芸人にとっても稼ぎ時だ。

 気がはやったのか、向こうで旅琴の音がした。一抱えほどの楽器で豊かな音色を奏でる美しい青年は名をサシュといい、一座に伝わる風を呼ぶ旅琴の今の弾き手なのだという。

「――海にさらわれ異国の王子、手差し伸べるは旅する聖女」

 艶のある低い声が勇壮に物悲しく歌い始める。

 それは百六十年前のパスチェスの英雄譚だ。浜辺に流れ着いた王子は旅の聖女と手を取り合って、沖に出る船を沈める海の怪物に立ち向かう。聖女は道半ばにして倒れてしまうが、王子は彼女の遺志を継ぎ、ついに怪物を打ち倒すのだ。

「一筋、陽射し、鈴の音引いて、祈りと剣が波を断つ――」

 最後に響く一音が夜に溶けていくと、潮騒と荒波を聴くような心地で手拍子を打っていた一同の耳に、雨粒と薪の音が帰ってくる。

 次は誰かとはやす声が上がる前に、サシュは再び旅琴を爪弾く。今度は緩やかで切ない曲だ。歌声の代わりに視線を投げる。次を託された旅芸人の女性、メニエは愛嬌のある顔に悪戯めいた笑みを浮かべ立ち上がると、急に俯いて歌い出した。

「――翼折られた海鳥は、愛してほしいとすすり泣き」

 夕暮れ時に切々とした声で鳴くある種の海鳥に寄せた恋歌だ。澄んだ甘い声がつのる悲しみと共に盛り上がる。その詞の若く真っ直ぐな見境のなさが眩しくて、リオンはつい目を逸らす。

 伴奏するサシュが優しい眼差しでメニエの息遣い一つまでを見つめていた。ふと、家に置いてきた自分の旅琴を思い出す。リオンは歌が好きだ。故郷の村を飛び出した理由も、もっと多くの歌を聴き、大勢の前で歌ってみたかったからだった。ティナとゼルスと出会い、別れ、家族を持っても、彼は折に触れ旅琴を奏でていた。アトリは彼と違って人前で歌うことが好きではなかったが、彼が歌えばいつだって隣で聴いていてくれた。

 恋歌が終わる。我に返って見上げたメニエと目が合った。彼女はまた笑って、サシュに目配せをし、寄って行って耳打ちする。

「弾いてみますか」

 彼が旅琴を持ち上げてリオンに示した。面白そうだと誰かが囃す。

「指が動いていたから。歌、好きなんでしょう?」

 メニエに言われて、無意識に旅琴の運指を辿っていたと気づく。気まずい思いを抱えてイリを見れば、こちらの出方を窺ってくれていた。

「いいんじゃない。久しぶりに聴かせてよ」

 心を決めるきっかけは、やはりアトリの一言だ。

 メニエを介して受け取った旅琴は思いのほか軽い。彼らの大事な商売道具だからと、遠慮がちに鳴らした音はそれでも力強く響く。リオンは優しく旅琴を弾き始めた。ティナが合わせて手を鳴らし、イリとゼルスと、一座の面々が続く。選んだ曲は昔、名も知らない若い吟遊詩人から聴いた、眩しい友情の歌だった。

「――隣り合う今ここの輝き、かえりみ臨む時に掲げて、」

 あの日よりいくらか落ち着いた声で、それでも雨降る夜を照らそうと歌う。港町パスチェスへ向かう一座と一行の旅はあと数日だ。

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