別れの未来が近くても

 野営をしながら二日ほど歩いて森に入る。

 ロギエラ王国とフェデリーム王国の境に横たわるこの森は、現在ではもっぱら「幻霧の森」と呼ばれている。晴れることのない霧が森を行く者を迷わせ、外へと追い返すとも、決して帰さないとも、あるいは心の内を幻として映し出し狂わせるともされる禁域だ。

 しかしその霧は今、潮が引くように薄らいで道を開けている。

「キサが見たら喜びそうだ」

 これから訪ねて行く冒険好きの養い子を思う。幻霧に沈んだ国境の町スフィニオへと続く街道は、数千年前の魔族が造った時のまま、うすもやになお白く森を切り開いて伸びている。

「彼はどこまで事情を知っているのですか」

 ティナが尋ねた。先導役を譲った彼女の微笑みはわずかに気安い。

「俺が『勇者』だってことは話したよ」

 それだけ答えれば事足りた。つまりキサもそれ以上のことは他の子供たちと同様に知らないのだ。「勇者」の一行の半数が魔族の血を引いていたという事実も、彼らが続けた戦いの顛末も。

「構わない。いずれここは開かれる」

 先頭から返る声が淡い光をたたえて響く。人族が入れない場所だからか魔族の角をさらした後ろ姿に、リオンは先延ばしにしていた問いを放る。

「今の君は幻じゃないのか」

 するとアトリが肩をすくめてゼルスを見上げた。

「どうせさっき休憩した時に入れ替わったんでしょう」

「見分けがつきましたか」

「全然。あんたたちならそういうことをするって思っただけだよ」

 ティナの言葉に振り返った表情は皮肉より呆れの色が強く、しようもない悪戯をした子供に向けるようですらあった。

 リオンはゼルスを見つめる。三十年ほど前、彼は幻影の魔術でこの森を霧に閉ざした。その代償に今の彼は森から出ることができないはずだ。しかし彼はリオンたちを迎えに来た。分身を作るなどという都合の良い魔術はないから、きっとティナが複数の魔術を組み合わせてそれらしく見せていたのだろう。

 魔族に多い生来の白髪を揺らし、彼はリオンを見返した。

「ハイエンを発った朝は寒かったな」

 何気ない調子で、遠回しにリオンの不安に触れる。

 国境を封鎖したことも疑似的な旅を強行したことも、ふたりが下した判断なら、たとえ非情に見えようと相応の理由があるとリオンは知っている。だから彼の心配事は、一緒に旅をしたつもりでいるのは自分たちだけではないか、ということだ。

「風の色や光の匂いまでは分かるようにしている。多くの魔術師に力を借りた。私も、この旅を待ち望んでいた」

 確かな語りはどこかティナに似て、それでいて凪いでいる。


 霧は彼らを迷わせも眠らせもしない。ただそこに獣や鳥の気配はなく、風と葉擦れの他に耳を打つのは痛いほどの静けさと、隣に座るアトリの荒い呼吸だけだった。

 森の街道は美しく整えられた路面を古の魔術により留めている。歩きやすさでは随一だが、乗り合いの牽車など通りかかるはずもない禁域で、さりとてティナの伝手で牽車を用意することはアトリが嫌がった。それでも西の山道を迂回するよりはよほど早く、封鎖後に建てられた小屋が散在しているため寝台で休むこともできている。一行はときおり休憩を挟みながらも、四十五年前のような旅を続けていた。

「水を汲んできました」

 煌めく声にそちらを向けば、ティナとゼルスが水袋を二つずつ持って来る。優美な姿かたちをした彼女と黙って付き従う長身の彼が並ぶ様は、改めて見るとなんとも形容しがたい雰囲気を漂わせている。

「ふたりとも、すっかり仲良くなったよね」

 受け取った水で喉を潤すやいなやアトリが言い放った。

「ゼルスが死んだとか、実は生きていたとか、そういう話を聞かされた時はどうなるかと思ったけど」

 リオンが水袋を握る手に思わず力が入る。革袋の中に、浄化の魔術が込められた晶石の硬い手応えがする。どうにか水をこぼさずに水袋を持ち直すと、ティナが鮮紅の視線を少し上げてゼルスを射抜いた。

「それが最善の選択でした。そうでしょう?」

「ああ、残酷なまでに」

 躊躇ためらいなく返される答えに温度はない。

 遥か昔、人族の営みは魔物に左右されていた。運が悪ければ川の水はあふれ、山は火を噴く。そのような世界を魔族と魔術が変えた。彼らは魔物を討ち倒し、あるいは封印して、その伝承を忘れさせ信仰を断ち切ることで葬り去った。とりわけ強大な魔物の封印は魔術師の一族が代々の務めとして守ることが多く、こうした封印の氏族の一つが、他でもないゼルスの出自だ。

 彼の血統、フェト・ウォーガンの魔物はこの森の奥深くに潜む。その性は静穏、魔物ながら敵意と争いを嫌い、領域を乱す者を呪って樹木に変えるという。しかし森は人族の国々の境となり、必然的に数多の争いの舞台となった。彼が魔族としては異常な若さで封印の鍵である長杖を継いだ時、封印は決壊寸前だった。

 森を侵させないために、彼は魔族ながら「勇者」に加勢した。

 王を失った魔族はその多くが彼のとがを負って人族の前から姿を消した。異種族の民を追い立てた人族が熱に浮かされるまま異国の民との争いを望むまで、実に十五年しか持たなかった。

「なんであんたたちのこと、ずっと正反対だと思っていたんだろう」

 アトリが背中を丸める。

「正反対で、似た者同士なんだよ」

 膝の上で握る彼女の手に、リオンは彼の手を重ねる。

 魔術に明るくない彼が理解した限り、ゼルスは街道を隠す霧の幻術を紡ぎ、自身の魂を媒介に森の魔力を流し込もうとしたらしい。人族の熱狂と魔物の力を奪う代わり、彼の魂は一息の間もなく破裂する、そんな静かに狂った計画をティナだけが見抜いた。彼女は彼と共により良い策を探したが、間に合わなかった。

 だから彼女はそれが最善と冷徹に判断して彼を送り出した。どういうわけか魔物と繋がったまま生きていた彼を発見してからは、その精神を魔物の性ごと塗り潰してでも隣へ連れ戻そうとした。

「ふたりとも、いつだって遠くを見ている」

 やはり、仲が良いどころの話ではない、とリオンは思った。


 国境の町スフィニオは、封印の杖――当時の認識ではゼルスの遺品を回収する過程で拠点が置かれ、今は魔族が住んでいるらしい。リオンとアトリが最後に訪れたのは三十年以上前のことだ。所属する国を変えるたびに造られ壊されてきた防壁の奇妙な形をよく覚えている。

 霧と森の向こうに姿を現した、つたに覆われた防壁は果たして歪な形で、門の前には魔族の青年が槍を手に立っていた。

 ゼルスよりさらに背の高い痩身の青年は、ティナから説明を受けると目を丸くしてリオンの顔を覗き込む。魔族の歳は分かりにくいが、彼はたぶん若いのだろう、と思う。

「まさか、歩いてここまで来たんですか? すごいな!」

「彼らは私たちとあまり変わらない歳ですよ」

 どことなくたどたどしい人族語に他意は感じられず、対するティナも責める様子はない。

「割合で考えれば二百三十歳ほどだ。旅をすることもある」

 ゼルスが説明を継いだ。魔族はその三百年の生涯のうち最初と最後の二十年程度だけ、人族に近い速さで成長し、年老いる。一方で社会的な役割はあくまでも人族と同じ割合に揃えようとする節があった。つまり、外見だけならは魔族の二百八十歳ほどで、それはとても長旅をすべき年齢ではない。

 白い髪をした青年はやはり理解が追いついていない様子で、それでも先の発言を詫びると手際よく門を開けていく。一行を見送った親しげな笑顔をリオンは好ましく感じた。

「彼は隠れ里で育ち、人族と暮らしたことがありません。言葉は学べても、感覚はどうともしがたいものですね」

 ティナが言う隠れ里とは王亡き後の魔族が僻地に築いた集落のことだ。主だったものは彼女と、彼女に命を救われ、あるいは道を示されて心酔する魔族たちの手で開かれた。そこで育ったという青年の歳はせいぜい五十弱だろう。外見でいえば人族の二十代半ばだが、立場の方は割合のとおり十代半ばの若造扱いだ。もっとも、今の魔族には彼らを責務から遠ざけておく余裕も理由もないのだが。

「気にしていないよ。ただ、君たちも人族じゃないんだなって」

 リオンは返す。誰も悪くはない。だから彼の心を曇らせるものがあるなら、それはきっと感覚の遠さから来る寂しさだ。

 沈んだ気分を変えようと町を見渡す。周囲の森でよく採れる、複雑に揺らぐ木目の美しい木材を存分に使って造られた町並みは、南北どちらの王国にも似ていながら森の一部にも見える。

「懐かしい景色だ」

 素直な感想が口をついて出た。通りを行き交うひとびとはほとんどが頭に角をもち、そう見えない者はおそらくティナと同じ半魔族なのだろう。ただそれだけを差し引けば、町の様子は驚くほど三十年前に訪れた時の記憶と変わらない。

「スフィニオの魔族は多くが、人族の国を忘れられずにいる」

 そう語るゼルスの視線はいつになく優しい。遠くから手を振ってくる魔族に気づき黙礼を返している。ティナの微笑みがどこか嬉しそうな色を帯びた。リオンもまた感慨深く思う。魔術と引き換えにわずかながら森と霧に及ぶ力を得たゼルスは、町を再び人族へ開く算段をつけようとしているそうだ。数年前に会った彼女がそう話してくれた。

「人族の町はもっと変わっていくものじゃないの」

 アトリだけが真剣に違和感を表す。それでリオンはようやく、この町から感じる懐かしさがあまり良いものではないと理解した。

「そういうものと理解はできても、同じにはなれない。その必要もない。橋を架ければいずれ、歩み寄ることになる」

「変わりましたね」

 半ばまで振り返ったゼルスを真っ直ぐにティナが見つめる。交差する深緑と鮮紅の視線が小さく鳴らす光は、リオンの古い記憶を呼び起こす。

 生きて目を覚ました自身の内に魔物の気配を感じたゼルスは何度か自害したらしい。約二十年前、そんな近況を淡々と語った彼女は直後にただ一言、それでも彼は変わることができます、と続けた。

「誰しも、ただ変わっていくだけだ」

 忘れられた冒険譚が今も歌われる町は、人族と魔族の再会を――初め彼女が掲げた星の灯より柔い、白雲にも似た未来を夢見ている。


 白亜の道をさらに南下すること七と半日、木漏れ日が靄に金色の線を引いている。ねぐらへ帰るのか枝を飛び立つ鳥の羽ばたきが聞こえて、誰にともなくリオンは呟く。

「そろそろ森を出られそうだな」

 ゼルスが頷いた。

「また帰り道で会おう」

 果たして次にリオンとアトリが開けた場所の岩へ腰掛けた時、ふいにゼルスは霧の深い方へ立ち去った。ティナが彼を追う。

「手伝います」

 隠すつもりはないのだろう。休憩が終わる頃ティナと戻ってくる彼は限りなく精巧な幻だ。思い返せば荷物を運んでいたから、中身は魔術で動く人形かもしれない。距離を超えて彼の言葉を伝え所作をかたどり知覚を返す、リオンにも分かるほど複雑極まる術式の使い手は、もはや魔術師でなくなったゼルスではありえない。

 ティナは付与魔術師だ。皆の魔術とそれが映す願いを汲み取り術具の形で叶える。しかし彼女は強すぎた。彼女の隣を望んだ者はいずれ導かれる群衆に落ちるか、さもなくば道を違えるばかり。失ったものを数え上げて紡がれたこの術式は、そんなまばゆい彼女らしくなかった。

 だからアトリは嗄れた声で零す。

「せっかくあの頃ほど嫌いじゃなくなったのに」

 五十年か百年か、隣り合う彼らの道はまだ続いていくに違いない。

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